春の嵐・10
エリザは、日課の朝の祈りを終えたところだった。
ラウルが山に入って五日目。
前の遭難騒ぎの時に比べ、天候に恵まれていて、霊山の気も穏やかなので、少しは安心した。ララァも、全然心配している様子は無かった。
それでもエリザはラウルのことを熱心に祈る毎日を送っていた。
朝食の仕度をしようと思った。
ふとかがんだ時、ラウルからもらった首飾りが、なぜかキラキラと光っているのに気がついた。
すごい力がかかっていた。
「え? 何?」
ふわり……とエリザの胸から、水晶の花が浮き上がる。
エリザの目の前で、首飾りの光はますます増した。そして、いきなり真っ白な光を放つと、石は砕け散った。
気がつくと、数個の水晶粒を残しただけで、首飾りは消えていた。
「え? あ? え?」
慌ててエリザは手で探ってみたが、あるべきものはやはりない。代わりに、飛び散った石が当たったところから、血が出ていた。
心臓を鷲掴みされたような、恐怖がエリザを襲った。
石は、守り。
目的を達すると、消滅する。
だが、エリザの身には、今、お守りに身代わりになってもらうことは、何もない。
エリザは、沸き上がる嫌な予感を抑えることはできなかった。
――僕は、あなたのためにその首飾りを作ったつもりだった。
でも、あなたは、それを僕のために使ってくれた。
その石は、僕の心だ――
ラウル!
ラウルの身に何かが起きた。
それしか考えられない。
エリザはいてもたってもいられなくなった。
食事の準備をやめ、ジュエルを起こすこともなく、家を飛び出した。
そして、霊山を目指して走り出した。
その頃、サリサの回りもざわついていた。
ここ数年来、霊山での遭難はない。それが、今年、しょっぱなから起きた、もしくは起きるという。最高神官の夢見となれば、間違いない。
「捜索隊を編成します。すぐに山頂を目指します!」
最高神官の命令に、仕え人たちは一斉にかしこまった。
霊山に入山できる一般人は少ない。能力も足りない。遭難者が出るたびに、霊山の者が救助に当たってきた。
だが、今回はさらに特別だった。
「私も行きますので、準備を……」
最高神官自らが、捜索に加わるというのだ。
「恐れ入りますが、サリサ様。御身を危険にさらすことはないかと思います」
この時期の山登りである。最高神官とて生身であれば、危険が伴う。
しかも、山頂の北に行くには急いでも三日はかかる。祈りはどうするのか? マサ・メルの時は、霊山の気の乱れを防ぐため、捜索隊が山にいる間、祈り続けるというのが、最高神官の仕事であった。
「霊山は私の家。何の危険があると言うのです? それに、祈りなら……」
その時、書類係の仕え人がばたばたと部屋に飛び込んで来た。彼は、さっと敬意を示すと、恐れながら……とサリサに耳打ちした。
この仕え人は、ラウルとエリザの関係を調べる、いわば密偵になっていた。最高神官に耳打ちするという無礼が、特別に許されている。
彼の話を聞いて、サリサは小さく呟いた。
「……エリザが?」
体力が乏しく、霊山の山道が辛いはずのエリザだった。
ところが、何か特別な力が働いたのか、彼女はものすごい勢いで山道を駆け上った。
結界に守られていたわけではない。その証拠に、かすかに残っている雪に足を滑らせて何度も転び、膝やらおでこやらを擦りむいた。
それでも起き上がり、ふうふう言いながら、最後はよろめきながらも、霊山の控え所の門にたどり着いた。
そして、入山書類を書く場所を無視して扉に向かい、いきなりドンドン叩き出した。
「サリサ様! サリサ様! 開けてください!」
泣きながら大きな声で叫んだ。
だが、当然のごとく、その願いは叶えられない。かつて霊山の巫女であったとはいえ、今のエリザは聖職を解かれた一般人だ。その入場を誰も許すはずがない。
それでもエリザは扉を叩き続け、叫び続けた。
「サリサ様! お願い! ラウルを助けて! お願い……」
半狂乱になり、泣き叫ぶ。
さすがに、扉の向こうから仕え人の声が響いた。
「エリザ様といえど、霊山の気を乱し、最高神官の邪魔をすることは、許されません。直ちに、下山しないさい!」
そう言われて、おめおめと帰れるはずがない。
「お願いです! サリサ様に会わせて! サリサ様!」
巫女姫時代であっても、最高神官に会うことは困難だった。なのに、ただのエリザになって、そう簡単にわがままが通るとは思わない。
でも、エリザには、もうサリサに頼るしか、何も方法がない。
エリザは泣き崩れて扉にすがった。だが、もちろん、扉は開かなかった。
しばらく泣いたあと、よろよろと立ち上がり、扉に背を向けた。そして、背を丸め、とぼとぼと来た道をたどった。一歩二歩……十歩ほど。
そこで足を止め、再び扉と向かい合った。
「……帰るわけには、いかないのよ」
そう言うと、エリザは走り出した。
ものすごい勢いで、扉に体当たりしたのだ。
だああーん! と大きな音がして、扉の内側にいる仕え人を驚かせた。
扉は頑丈だ。びくともしない。
エリザにはかなりの衝撃だっただろう。ところが、すぐに二回目の音が響いた。
かすかに扉が揺れた。しかし、こちらからつっかえ棒がしてある。
「エリザ様、無駄なことをなさらないで……」
そう言っている間に、さらに、痛そうな音が響く。
仕え人は、あきれていた。
「そのようなことをして、私が扉を開けるとでも思っているのですか? ありえませんよ。それに、この扉は……」
丈夫ですし、棒をしているし、と言いかけたところで、さらに大きな音。
ドドーン! と地面に響くような音がして、扉が開いた。
扉に比べて、どう見ても華奢としか思えないエリザが、勢い余ってコロコロと転がってきた。
「……うぅ……」
地面に転がったまま、エリザは小さなうめき声をあげた。
もう既に満身創痍である。扉と激突して傷めたのだろう、肩を抑えて縮こまっていた。
「と、扉が開いたとしても、ここから先は通せません」
仕え人の声を無視して、エリザはよろよろと立ちあがった。
この場所からは、巫女姫の母屋も最高神官の居室もよく見える。もう、目と鼻の先なのだ。
走り出そうとするエリザを仕え人が押さえ込んだ。
「だめです! いけません! 最高神官の邪魔をしては……」
「離してください! 私、サリサ様に会わなければ!」
必死になってもがくエリザの目の先に、銀色の人影が走ってくるのが見えた。
あまりに、会わなくちゃ……と、思ったので、幻が見えたのか? と思った。だが、もう幻でも何でもいい。
「サリサ様! お願い! サリサ様!」
エリザが控え所の門で大騒ぎしていると聞き、サリサは大慌てで飛んで来た。
このようなことは普通ありえないのだが、今は全く普通ではなかった。サリサが最高神官になって以来の、事故が起きているのだから。
自然の成り行きで、最高神官も、彼と遭難者救助の話し合いをしていた仕え人たちも、ぞろぞろと飛び出してきていた。
「エリザ!」
最高神官の声を聞いて驚いた仕え人に対し、エリザのほうは最後の力を振り絞った。融通のきかない仕え人の手を払うと、サリサの腕の中へと飛び込んだ。
「サリサ様! 大変なんです! ラウルが……ラウルが!」
そう叫ぶと、エリザは気が緩んだのか、ふっと意識を失いかけた。
「しっかりしなさい! わかっていますから。今、ラウルを救助に行くところで……」
エリザの瞳が、かすかに開いた。
「……わかって……いる?」
サリサは、はっとした。
エリザの瞳が大きく見開き、その中に、ラウルが崖から落ちてゆく様子が映った。
エリザの能力自体は磨かれていない。だが、エリザには、いざという時に驚くべき力を発することがある。
まさに今がその時だった。エリザはサリサの夢見を受け取ってしまったのだ。
「嫌! 嫌あーー! ラウル! ラウル!」
あまりに強烈な映像を見せつけられて、エリザは気が違ったように叫び出した。
「エリザ! 落ち着いて!」
ところが、エリザはますます興奮した。
「嫌! ラウルを助けて! ラウル! ラウル!」
サリサはエリザを抱きしめた。
だが、激しい興奮状態のため、手が付けられない。
仕え人たちもざわついている。
このままでは、ラウルの救出に出かける準備もままならない。あまりしたくはないことだが、サリサはエリザに強力な暗示を掛けた。
ふっと、腕の中で騒いでいたものが、おとなしくなった。
……わかっているなら……なぜ……?
サリサの暗示に屈する寸前に、エリザが呟いた。
――わかっているなら、なぜ、ラウルに許可を与えたの?
胸に突き刺さるような疑問だった。
「採石の仕事は、元々危険です。でも、無謀なことさえしなければ、問題はないことでした」
自分に言い聞かせるように、サリサは答えた。
エリザは涙を流しながら、サリサの腕の中で暗示の力に落ちていった。
――私の……せい。
どきりとした。
ラウルは、エリザのために山に登った。
エリザが責任を感じていないはずはない。ゆえに、彼女はこうして霊山に助けを求めたのに。
そのようなつもりはなかったが、エリザへ責任転嫁したような物言いになってしまった。
自分が情けなくなり、苛々した。
エリザを抱きかかえると、サリサはキッとエリザと言い争いをしていた仕え人を睨んだ。
彼は、サリサの言いたいことを先読みしたのか、敬意を示して言った。
「私は、霊山の決まりにしたがったまで」
「あなたは、霊山を下りなさい」
誰もが驚く言葉だった。
決まりに従った者を追放するなどと、最高神官の命令とはいえ、行き過ぎである。絶対であるが、ゆえに一番秩序を守るべき者である。
誰もが驚く中、サリサはさらに何人かを指名した。
「あなたも……あなたも……あなたもです。まだ、メル・ロイとなっていない者は、霊山を下り、ラウルが見つかるまで祈り所で祈りなさい」
前代未聞の命令だった。だが、道理はあった。
霊山の気は、生ある者の存在で揺らぐ。だが、祈りをする者の存在も必要。
まだ、少しでも寿命が残っていて祈りの得意でない者は、一時的に山を下り、霊山の気を刺激しないようにする。そして……。
「クール・ベヌを呼んで来なさい。私の代わりに祈りの祠で祈らせます」
クールは確かに神官である。だが、最高神官の代わりは荷が重いだろう。
「お言葉ですが、クール・ベヌ様は……」
何かと理由をつけ、来ないでしょう、と仕え人は言いかけた。サリサはその言葉を遮り、厳しい口調で言った。
「神官として霊山に命を掛けられないのであれば、代わりの物を差し出せ、と言いなさい! 彼は、必ず来るでしょう」
仕え人はかしこまった。
クール・ベヌは、命よりも金が大事な男だ。飛んでくるに違いない。
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