春の嵐・12
サリサがラウルを見つけた時、彼はちょうどつるはしにぶら下がっている状態だった。
「あぁっ! いけない!」
叫んだが間合わず、ラウルの姿は崖下に吸い込まれていってしまった。
サリサは、祈り言葉を古代ムテの言葉で唱えた。それでも、とてもラウルの落下を食い止められたとは思えない。
力を使いすぎてくらくらしたが、それでも仕え人たちと共に、ラウルが落ちた場所に向かった。
「だめです! サリサ様、足場が悪くて降りられません!」
「綱を用意しますが、時間がかかります!」
慌てふためく仕え人たちを後にして、サリサは崖下に飛び降りた。
「! サリサ様!」
世を捨てた者たちとは思えない悲鳴が響いた。
だが、霊山の結界の中、サリサが崖から落ちることはありえなかった。自分の力が働いている場所ならば、飛び降りようが安全だった。
もう少し、ラウルとの距離が近かったら。
あとわずかな時間があったなら。
もしかしたら、救えたかもしれない。
そう思えば、最初に見た夢を読み違えた自分を責めたくもなった。
あそこで対処していれば、ラウルは事故に遭わなかった。
崖下でラウルを見つけて、サリサは思わず立ち止まった。
まさに、父を亡くした時の夢と同じだった。もしかしたら、あの夢は、この事の夢見だったのでは? と思うほどに。
夢の中で骨になってしまった父を思い出し、サリサは動揺した。
ラウルは、サリサの姿を見て、血を吐いた。
命はあれど、今、まさに死にかけている。それに、ラウルの下半身は岩に覆われていて、救い出すのは見るからに困難だった。
「僕は……負けた。もう助からない」
ラウルは、苦しそうな声で言った。
サリサは、はっとして、慌ててラウルの元へと駆け寄った。
「負けた……とは、どういうことです? しっかりしなさい」
血に染まるラウルの額に、サリサは手を当てた。
癒しの力が働く。と、同時に、彼がどれだけ絶望しているのかも伝わってきた。
――命を掛けて、採石師として挑み、負けた。
全力を出し切り、もう、抗う力もない。
「エリザをどうするつもりなのです? あの人は悲しみます」
「どうしてそんなことを聞く? 僕は、負けたのに」
サリサの癒しを拒絶するように、ラウルは横を向いた。
「私が……勝ったわけでもありません」
そう口にすると、サリサは苦く感じた。
この恋に、勝ちも負けもない。勝者はたった一人しかいないとしても、少なくてもそれはサリサではない。
だが、ラウルは乾いた声で笑った。
「なぜ、最高神官であるあなたが僕を癒す? 僕が死ねば、エリザはあなたのものになるのに」
「……なりません」
「嘘だ。あの人を離したくないくせに」
サリサは小さくため息をついた。
「最高神官は、巫女姫の将来を左右しないものです。制度的にも、その辺は考慮されていて……」
「でも、エリザは違う」
ラウルの頑な心が、サリサの癒しを受け入れない。
彼は死ぬつもりだ。
「エリザは……あなたのことばかりだ。あなたのことで泣いて……。あなたのことで悩んで。そうやって、不幸になっていく。僕は、ただ、何も力になれない惨めな男だ」
「エリザには、幸せになって欲しいと願います」
「エリザの想いはエリザの勝手か? 最高神官は恋などしない? 勝手に思われて迷惑だ、とでも? あなたは、どうせ、神のごとき存在だ」
ラウルは泣いた。
敵に哀れみを掛けられているようで、悔しいとでもいうように。
「だから、僕の一人芝居とでも言いたいのか? ただ、あなたの影に怯えて……無駄に命を落として……」
きっと彼は、最高神官に助けてもらうなど、願い下げに違いない。惨めでたまらないのだろう。
苦しいはずの息で、独り言のようにラウルは呟いた。
それでも、最後に無礼を恥じたのか、絞り出すような声を出した。
「も、申し訳ありません。失礼をお許しください……。お願いですから、もうここで逝かせてください。これ以上、情けない気持ちで死にたくはない。採石師として仕事を全うした。その誇りを失いたくはない」
だが、はいそうですか……で見捨てるわけにはいかない。
エリザのためにも、彼を殺すわけにはいかない。
見栄などはっている場合ではなかった。サリサだって、ラウルにはずいぶんと悩まされてきたのだ。
自由さえあれば、もっと正々堂々と、恋を争うことができただろう。そして、絶対にエリザを失ったりはしない。
ラウルにエリザを渡さないのに……。
サリサは、呼吸を助けるようにラウルの胸に手を当てた。
「たしかに……最高神官は恋などしません。でも、僕……サリサ・メルはエリザを愛している」
ラウルは驚いてサリサの顔を見た。
彼は、ずっと最高神官のあるまじき思いを疑っていた。だが、サリサの心の防御は強く、態度は威圧的だった。
だから、あまりにもあっけない本音に驚いてしまった。
「僕は、あなたにエリザを渡したくはない。でも、エリザのほうが僕から逃げてしまったのだから、仕方がないでしょう? あの人は、僕の気持ちなど受け取ってもくれず、普通の幸せを望んでいるのですから」
サリサは、淡々とエリザの気持ちを代弁した。
一言では言い表せないほどの辛い心のすれ違いも、要約すると、なんと短いことか? 好きだからこそ、傷つけあった日々が、実にあっけない。
そして、結論は……。
「僕とエリザの事は、もう済んだことです。今は、最高神官と癒しの巫女以外の何者でもない」
その言葉で、ラウルの気持ちが揺れ始めた。
敗北を認めて死を選ぶつもりだったが、徐々にサリサの癒しを受け入れ始めている。
額の傷が癒えた。呼吸も楽になった。
サリサは、今度、ラウルの手を取った。腕は裂傷が激しく、ラウルは一瞬顔をしかめたが、みるみるうちに癒されていった。
「あなたが死んだところで、エリザは僕のものになんかならない。あなたの代わりに彼女を幸せにしたいと願う男が、何人か現れる。ただそれだけです」
「……でも、エリザは……あなたを」
そう。婚約しても、何をしても、ラウルを不安にさせるのは、エリザの本心だ。
エリザの心は、常に目の前にいる神々しい男のものだった。
だが、サリサは少しだけ眉をひそめ、それを否定した。
「愛しているかも知れない。でも、最高神官に身を捧げて一生を終える覚悟があるほど、愛してはくれていない」
そう言葉にしてしまうと、サリサは死ぬほど悲しくなった。
もしも、ラウルが言うようにここで彼が死ねば、エリザはサリサに囚われて霊山に戻ってきてくれるかも知れない。
でも、それは望んで……ではない。絶望して、なのだ。
「僕は、エリザの幸せを望んでいます。あなたが死んだら、あの人は泣く。それは……嫌だ」
ラウルの手の傷もすっかり癒えた。
その時、綱を使った仕え人たちが、ぞろぞろとやってきた。
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