春の嵐
春の嵐・1
激しい雪が窓を叩いた。
外は真っ白な世界だった。だが、部屋の中は温かく、積み上げられた炭が赤々と燃えている。
エリザは、ラウルを待っていた。
ジュエルが生まれて一年になる。そのお祝いを渡したいというので、夕食に招待したのだ。
だが、一の村でも滅多にない大雪のため、男手は雪かきにかり出された。ラウルが来るのは遅くなるだろう。
エリザは、ラウルのために作ったシチューを火から下ろした。このままでは煮詰まってしまう。
ジュエルといえば、暖炉脇のベッドの中で気持ちよく寝ている。
その顔を見ていると、一年前の夜が報われた喜びを感じる。でも、恐ろしく辛い夜で……やはり、天気が悪かった。
そして、ものすごい長い時間を待ったような気がする。
「……待つのは嫌だわ……」
エリザは、ふっと呟いた。
なぜか、気分が落ち着かない。
嵐が不安を呼ぶのだ。霊山にいた時は、雪に包まれて守られていたような気すらしたものなのに。
エリザは家の中をうろうろと歩き回り、やがて、手当たり次第に本棚や引き出しを開け始めた。何か、気を紛らわすような読書がしたかった。
ふと……エリザの手がとまった。
引き出しの中に、小さな木の箱があった。その中に、エリザが封印したフィニエルの本がある。
彼女の遺言ともとれるものを、エリザはいまだに開くことができなかった。だが、今は、それを読むべき時のような気がした。
エリザは、ジュエルが授かった時、フィニエルの贈り物……もしくは生まれ変わりでは? と思った。そのジュエルが一歳になったのだ。
フィニエルの思い出も、エリザの中で悲しいものから懐かしいものへと変わろうとしていた。
木箱の鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。かしゃり……という音がして、本が姿を現した。
エリザは暖炉の横に椅子を引っ張ってきた。そして、ゆっくりと封印されたページを開いた。
何から書こうか?
やや砕けた感じの文面は、フィニエルらしからぬ気もした。まるで、語りかけるような書き方だった。
エリザは戸惑いながらも、フィニエルの秘密を打ち明けられているような、ワクワクした気持ちで、次のページをめくった。
そして……いつの間にか、まるで物語でも読むかのように夢中になって読み始めていた。
時間はどんどん過ぎていった。
暖炉の火は、新しい炭を欲して弱々しくなった。
だが、本に夢中になっているエリザは気がつかなかった。
ジュエルが起きて、退屈そうにベッドでぐずっても、気がつかなかった。
完全に、エリザはフィニエルの物語に入り込み、自分の世界を忘れていた。
――これは、創作? それとも実話?
エリザが我に返った時、感じたことは戸惑いだった。
あまりにも、自分が抱いている人物が、この中に描かれている人物と違いすぎて。フィニエルも、サリサさえも。
最高神官は、時々『子供でしたから』とよく言ったものだ。が、ここに描かれているサリサは、まさに子供だった。
フィニエルの主観だろうか?
そして、マサ・メル。エリザには、彼が一番信じられなかった。
フィニエルの妄想なのだろうか?
どう考えても、マサ・メルがフィニエルを深く愛し、そのために束縛していたとしか、とりようのない内容である。
「完璧な最高神官が、そんなこと、するはずないじゃない……」
エリザは呟いた。
愛は妄想に過ぎない。信じれば傷つく。
それが、フィニエルの口癖だった。
でも……今から思えば、まるで、自分への自重・暗示のようにも思えないだろうか?
一の村で石を投げられた話。愛ゆえ……と思えないだろうか?
最高神官の報復は、まるで常軌を逸している。フィニエルを傷つけた者への復讐としか思えない。
たった一夜だけ、心を許して抱き合った。
マサ・メルは、それをフィニエルに常に求めていたのではないだろうか?
短剣の話だって……。
好きでもなければ、私物を持たないはずの最高神官が、六十年間も磨いて持ち続けるだろうか?
なぜ、六十年間も側にいて、お互いの気持ちを確かめなかったのだろう?
ふと、そう思って、エリザは慌てた。
「最高神官ですもの、そんな感情は捨てているはずだわ……」
エリザは納得した。
納得したつもりだった。
だが、何か心の中が、ざわり……とした。
封印したものの鍵穴に、鍵が差し込まれ、かしゃり……と音を立てたような。
ただ、ひとつだけ心残りなのは……。
マサ・メル様は、常にたった一人で、幸せであったことがない……ということだ。あの方の孤独を、私は常に身近に感じ、自分のものとしていたのだが。
私には歩み寄る術がなかった。
いや、あったのかもしれないが、一度も試したことがない。
エリザは、じわりと汗ばんだ。
心残り……。
歩み寄る……。
常に一人で……。
心の闇の扉が、ばたばたと開きそうになる。
だめ! 自分と重ねては!
これは単なる話よ! 私とは違うわ!
私とサリサ様は……違うわ!
ドンドン、ドンドンと何かが扉を叩く音。
エリザは、必死に胸を押え、心の中の蓋を閉じようとした。
だが、蓋の隙間から漏れるように、心の中にフィニエルの声が響いた。
――どのように生きるのも自由。
でも、自分の気持ちを見つめなおしてほしいと思う。
――心残りがないように……エリザ。
――エリザ!
エリザは思わず頭を抱えた。
本は、エリザの膝の上から転がり、床の絨毯の上に落ちた。
ドンドン……と音がする。
「エリザ! エリザ!」
ラウルの声だ。
ノックの音も名を呼ぶ声も、本当のものだった。
エリザは慌てて立ち上がると、急いで扉を開けた。
「どうした? さっきからノックしても出ないから……」
雪で真っ白になったラウルが立っていた。
「え? いえ、何でもないの」
エリザは笑ってみせた。
何を自分でも動転しているのか、エリザにはわからなかった。
――そうよ……。たかが日記じゃない。
あれはフィニエルのこと。私のことなんかじゃないわ。
外はまだ吹雪いている。
開いた扉の向こうから、冷たい風が家に吹き込んだ。
ラウルが外で雪を払っていた。まったく無意味なほど、雪がどんどんラウルのマントにつく。
エリザは慌ててラウルを家の中に引き入れた。
「だめだ。雪で床を濡らす」
「いいの、いいの。それよりも、風が冷たいわ」
扉をしめたとたん、マントの雪が融け出した。ラウルは遠慮がちに、そっとマントの前の紐をほどいた。
だが、エリザのほうは床のことなど気にしていなかった。
「どうぞ、どうぞ。寒かったでしょう? すぐ、食事にするから……」
ばたばたと台所に向かい、シチューの鍋を見て、エリザは焦った。煮詰まらないようにと下ろした鍋は、もうすっかり冷えていて、温め直さないとならない。
居間に戻ると、エリザはわざと明るい声で言った。
「ねぇ、ラウル? まずはお茶でも……」
そこで声が止まってしまった。
ラウルは、暖炉の前に立っていた。
雪で濡れたマントを、肩から半分下ろした脱ぎかけの状態。手には、拾い上げたフィニエルの本。
エリザは息が止まりかけた。
あの本をラウルに見られては、自分の邪なところまで見透かされてしまう。
慌てて駆け寄ると、ラウルの手から本を奪いとり、そのまま、何も考えず、暖炉の中へと投げ込んだ。
「エリザ!」
暖炉の火がぱっと明るくなった。
燃える物を与えられ、弱っていた火の手が勢いづいた。
それを見て、エリザは激しく動揺した。
「ああ! フィニエルの本が!」
自分で投げ込んでおきながら、エリザは慌てて本を拾おうとした。
ちりり……と焦げ臭い香り。ジュエルが激しく泣き出した。
その瞬間、エリザはラウルに突き飛ばされていた。
居間の絨毯の上に転げると、慌てて体を起こした。ラウルが、火かき棒でフィニエルの本を引き出しているのが見えた。そして、自分のマントをかぶせ、パンパンと手で叩いて消火した。
火が消えると同時に、ジュエルの泣き声も収まった。
「あぁ、本が……」
エリザはよろよろと這いずって、フィニエルの本を確かめた。厚い本は、すぐには燃えない。表面の艶出しと角が少し燃えただけで、中は問題がないようだ。
「ああ、ラウル。ありがとう。ごめんなさい」
エリザは本を胸に抱きながら、お礼を言った。
だが、ラウルの顔は厳しいままだった。
「……わからない。エリザ」
「え?」
「あなたって人が、わからない……」
突然のラウルの言葉に、エリザは戸惑った。
彼の緑がかった銀の瞳は、すっかり焦げて縮れてしまったエリザの前髪に注がれている。
もしも、ラウルが止めなかったら、エリザは素手で本をとり、大やけどを負っていただろう。
「わからない……って、あの、本が……」
「何を悩んで、何で苦しんで、何を気にしているのか……何も言ってくれないから」
苛々と、もう我慢ができないという響き。
急に掴まれた手は、寒いところから来たのに熱かった。火が消えかかった居間にいたエリザのほうが、むしろ、冷たい手をしていた。
ジュエルが、ふぃにゃ……と声をあげた。先ほどまで泣いていたのに、かまってもらえなくて疲れたようである。
だが、エリザもラウルも、このときばかりは、すっかりジュエルの存在を忘れていた。
「私、何も悩んでなんかいない。ここに来て、幸せだって思うし……」
あえて言うなら、ジュエルのことは悩みだった。
他に何の悩みもない。というか、わけがわからない不安を、どうやってラウルに説明していいのか、わからない。
自分でも、何を悩んでいるのかわからないのだ。
だが、ラウルはエリザの言葉に納得しなかった。不機嫌なまま、ぐいっとエリザを引き寄せた。
「悪いけれど……もう約束は守れない」
エリザのほうは、ラウルの言葉を理解する時間はなかった。
彼は、言葉と同時にエリザの唇を奪った。
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