春の嵐・2
――心にも体にも触れない……。
その約束は反故にされた。
優しいラウル。だが、彼には強引さもあった。
エリザは、時々翻弄された。
そして今も、エリザのすべてを奪い、支配しようとする彼の心に触れて、すっかり圧倒されていた。
心も体も、彼はエリザのすべてを求めている。
激しい感情の波に揉まれ、拒絶しきれない。涙を流しながらも、エリザはラウルの口づけを受け入れた。
心にまで強引に押し入り、すべてをさらっていかれたような……。
だが、最後は、いたわるような優しさがあった。
「ごめん、誓いを破った」
唇が離れてすぐ、ラウルは言った。
「でも、触れたことは謝らない」
――すべて……見透かされた。
ラウルが触れたのは、唇だけだった。
だが、心は違った。エリザがけしてラウルにさらしたくなかった心のうちまで、覗かれたような気がした。
許されるはずのない、邪な思い。
その呪縛の深さを、彼は知ったはずだ。
エリザが認めないエリザまで、彼は根こそぎ持っていった。汚れた部分まで掻き漁って、エリザのすべてを自分のものにした。
――誰にも見られてはいけないはずのもの……。
もう、何も逆らえない……。
そう感じた。
それだけで、エリザはラウルに支配されたのだ。
エリザが入れるはずだったお茶を、ラウルが入れてくれた。
そっと支えてくれる腕は逞しく、優しかった。
だが、エリザの力では抗えない、強い力を持った腕だった。
強引で……。少し、乱雑で……。
いっそ、すべてを押し流すほどの力で、何もかも壊してもらいたい。心に留まる重たい物をすべて取り外してくれたなら。
そう思いながらも、エリザは、自分を維持するかすかな抵抗を示した。
「ラウルは……誤解しているのよ。私は……違うわ……」
「うん、誤解していた」
ラウルがカップを差し出す。エリザは恐る恐る口をつけた。
ややほろ苦い味だった。
「僕は、エリザには時間が必要だと思っていた。でも、違う。必要なのは、忘れる努力だ」
「……努力?」
ラウルはうなずいた。
「太陽や月や星には、手が届かない。ほしがって泣いても、傷つくだけだ」
エリザは、そっとカップを置いた。
ラウルの真剣な目から、少しでも逃げたかった。
「私、サリサ様を敬愛しているだけですわ」
そのとたん、急に恥ずかしくなった。
ラウルは、名指ししていない。例えただけだ。尊い人の名を出した時点で、エリザは降参したようなものだった。
だが、ラウルはそのことを指摘しなかった。充分、知っているから、驚きもしなかったのだろう。
「そう、あなたは、最高神官を敬愛しているだけだ。でも、同時に縛られていると思う」
暖炉は、ラウルが足した炭のおかげで、よく燃えていた。
だが、エリザは震えた。
「……あの方は、優しいので……弱い者には……」
そう、最高神官は、常に弱い者に優しい。エリザにもジュエルにも。
しかし、ラウルはエリザの言葉に軽く首を振った。
「エリザは、霊山を卒業しなければならない。太陽や月や星に頼って、現実を忘れてはダメだ」
ラウルの言葉はもっともに思えた。だが……何て哀しいのだろう。
エリザは、火照った体で震え、泣いた。
「ごめん。きついことを言って。でも、今のエリザの心の半分は、霊山にあって、残りの半分は、祈り所の闇の中にいる。僕の前にいたことがない。……もう、霊山のことは、忘れてもいいんじゃないか? と思う」
忘れたいと思う。でも、忘れられない。
何かあるたび、思い出しては涙が出てくる。今ひとつ、エリザは新しいエリザになりきれない。
情けなくて、ボロボロと涙がこぼれた。
「私……。ただ、星に願いをかけるように、月に祈りを捧げるように、太陽に癒しを求めるように。サリサ様を敬愛したいんです。そのように思えていた少女の時代に……戻りたい」
――どのように生きるのも自由。
でも、自分の気持ちを見つめなおしてほしいと思う。
――心残りがないように……。エリザ。
恐い。
私には出来ない! 自分の心の闇を覗きたくないの!
フィニエル……。
「ラウル、私、わからないの! どうしたら、あの闇の世界を忘れられるのか、全然わからない!」
どろどろとした自分を捨て、光の中に生まれ変わりたい。
忘れて……。忘れて……。
嫌なことは忘れ去って……。
母が望んだ、平凡ながらも幸せな家庭を築き、愛し愛されて生きていきたいのに。
「結婚しよう」
一瞬、耳を疑った。
エリザは目を見開いた。
エリザの問いかけに、ラウルはまっすぐな答えを示した。そして、まっすぐにエリザを見つめていた。
驚いた……のではない。
エリザは、ラウルの気持ちを知っていた。その答えを、どこかで予感していたような気がする。
強く支配されたかった。
抜け出せずにもがく泥沼から引きずりあげてくれる手を、エリザは求めていたのかも知れない。
有無を言わさず、強引に引き上げてくれる手を。
押し寄せてくる不安な思いを突き破り、心を鷲掴みにして、光の中にさらけ出してくれる人を。
狂ったように暴れる心を、体ごと押さえつけ、黙らせてくれる強い抱擁を。
ラウルはすべてを持っていた。
「霊山に頼るな、僕を頼れ」
命令だった。
エリザを抱きしめて、彼は再び強引な口づけをした。
エリザに、『はい』も『いいえ』も言わせない、ただ、従わせる熱く長い口づけだった。
翌朝、エリザは祈らなかった。
祈れば、霊山の気を強く感じてしまう。いつもはそれが快かったが、今日はそうなりそうにない。
消えかけた暖炉の中に、フィニエルの本を入れた。
昨日は、あんなに失いたくなかったのに……今日は、もう忘れる過去にしようと思う。
なかなか燃え出しそうになかったが、やがて、プスプスと音をたて、灰の煙を巻き上げた。
メラメラとめくり上がりなから燃えていく本を、エリザは呆然と見送った。
身をよじり、悲鳴を上げているようにも見える。フィニエルの文字が、黒く燃え尽きてゆく様子を、エリザは一瞬はっとして見た。
だが、それは、エリザの邪な気持ちを浄化する炎でもある。
心をいつも重たくしていたものを、もう燃やして思い出さない。
本が灰になるのには、かなり長い時間がかかったが、エリザはずっと立ち尽くしていた。
「フィニエル。私……あなたじゃない」
とても、最高神官への敬愛だけで、霊山にすべてを尽くせるほど、立派でない。エリザは、ただの普通のムテ人だ。
普通に大事な人と巡りあい、普通に結婚し、普通に家庭を作り……子を残し、やがて時を終えて、消えて行く……。
もう、辛いことは忘れたい。
ごく、普通の幸せな一生を終えるムテ人――それが、エリザの望み。
――まだまだ、時間はかかりそうだけど……。
光の中で生まれ変われるよう、努力しようと思う。
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