水晶の首飾り・7


 翌日も、そのまた翌日も雨だった。

 下山予定を三日も過ぎたというのに、ラウルは戻ってこなかった。

 霊山でも数年ぶりに捜索隊が出されたと聞く。

 エリザは、すっかり寝込んでしまい、外に一歩も出なかった。

 エリザがジュエルを抱いて歩けば、ジュエルの闇が祈りをすべて飲み込んでしまい、ラウルを殺してしまうのでは? と思えてならない。

 エリザにできることといえば、ただ一人、家の中で祈ることだけだった。

「サリサ様、お願い……。ラウルを助けて」

 ラウルからもらった首飾りの石に唇を押しつけて、エリザは一日中祈った。

 石はエリザの祈りを強めてくれるものだ。エリザは石を外そうと思ったことを忘れた。

 食事も、あれほど嫌いだった舞米の粥ばかり。美味しいものを食べようという気にはならなかった。

 夜も眠りながら、ラウルの無事を祈った。



 その夜、エリザは夢を見た。

 ただ、真っ白い世界が広がっている中、ラウルが膝を抱えて座っているのだ。

 彼の手は、胸元に持ち上げられたが、そこにあるべきものに触れることなく、虚しく下げられた。そして、足下の小さな石を変わりに拾うと、ぽんと遠くに歩折り投げた。

 石は、からん……と音を立てた。

「道を……失った」

 ラウルは悔しそうに呟いていた。

 そして、意を決したように立ち上がった。

 エリザは慌てて叫んでいた。

「ラウル! こっちよ! そっちじゃない!」


 ラウルは耳を澄ました。

 一瞬、エリザの声が聞こえたような気がしたのだ。

「馬鹿だな、まったく……」

 ふっとため息をつく。

 道に迷って三日目だ。食料も尽きたので、疲れて幻聴でも聞いたのだろう。


 そもそも、今回の山入りには無理があった。

 何もかも、計画通りではなかった。

 思いもよらない形でエリザに気持ちを伝えることになってしまい、村にいて結果をすぐには知りたくなかったのだ。

 あの首飾りは、なくしてしまった石の代わりにエリザの力になれば……と思い、心を込めて作ったものだった。約束のものだ、と言って、軽い気持ちで渡すつもりだった。

 なのに、ついつい、事の流れで。

 まだ、山を下ったばかりのエリザに、まるで答えを求めるような贈り方になってしまい……。あれでは、突き返されるに決まっている。

 山に入ってすぐ、天候が下り坂であることはすぐに感じた。他の採石師たちが無理をせずに下山したにもかかわらず、ラウルは山頂を目指した。

 その無謀ともとれる行動力が、いつもラウルに素晴しい結果をもたらしていたのだが、今回は裏目に出た。

 天候は思ったよりも早く崩れ、しかも霧が濃くて身動きが取れなくなった。

 今年は霊山の気が落ち着かないと言われているが、まさにその通りだと実感した。磁石が全く役にたたないのだ。気の揺らぎに対応して、大きくぶれてしまう。

「ここは庭のようなところだ。霧さえ晴れれば、道は見つかる」

 ラウルは下手に動き回ることよりも、崖下のくぼみに身をひそめて、霧が晴れるのを待つことにした。

 だが、濃霧は三日間、少しも薄くなることはなかった。このようなことは初めてだった。

 守りの石に手を当てて祈ろうとして、ラウルはそれをエリザにやってしまったことを思い出した。頼るものは何もなかった。

「くそ!」

 ラウルは小石を拾うと、真っ白な空間に投げつけた。虚しい音が響き、追いつめられたことを実感した。


 ――石さえあれば……。


 別れ際、衝動的にエリザに紫の石を渡したことを、少しだけ悔やんだ。だが、同時に、これでよかったのだ……と思えてきた。

 あの石は、エリザの命を救ったから失われたのだと思う。だから、無駄ではなかった。そして、エリザの命と引き換えになるなら、ここで命を落としても、悪い散り方ではないように思えた。

 採石師は危険な仕事だ。多くの仲間がこの仕事で命を落としている。それを知っていて、ラウルは家業である採石師の道を選んだのだから。

「あとは、運のみ……か」

 食料が尽きたからには、黙って死を待つようなものだった。道を示すものは何もないが、下山を敢行するしか方法はない。

 ラウルは立ち上がり、歩き出そうとした。


「ラウル! だめ!」


 しばらくすると、また声が聞こえた。

 ラウルは足を止め、耳を澄ませた。やはり、エリザの声だった。

 ふと、足下を見ると、霧が舞っている。すっと、つるはしで地面をなぞろうとすると、手応えがなかった。

 目を凝らす。ぐるり……と舞う霧の薄い場所に、暗い闇が見えた。目の前は、断崖絶壁だった。

「崖……? か?」

 ラウルはふうっと息を吐き、汗を拭いた。

 そして、かすかに見えた崖の存在に、頭の地図を描き出した。

「どうやら……思っていたよりも、ずっと北にいるようだ」

 少しだけ道が見えてきた。

 ラウルは再び来た道を引き返しはじめた。だが、数歩歩いたところで、足が止まってしまった。

「エリザ?」

 幻影だろうか?

 白い霧の壁に映し出されるようにして、一心不乱に祈るエリザの姿が浮かんだのだ。

 やや瞳を落とし、睫毛を濡らしたエリザは、やややつれたように見えたが、ラウルの目には美しく見えた。

 彼女は、ラウルの首飾りを身につけていた。震える両手で、ラウルが作った石の花を包み込み、胸元に掲げて祈っていた。

 

 ――ラウル。死なないで! お願い。戻ってきて……。


 ぽとり……と、組まれた手に涙が落ちた。

 それは、明らかにエリザがラウルのために流したものだった。

 他の誰のためでもなく。

「エリザ!」

 幻と知りつつ、ラウルは叫んでいた。

 ところが、幻のはずのエリザは、はっとして顔を上げ、ラウルのほうを見たのだ。

 そして、大きな瞳を見開いて、ぼろぼろと大粒の涙を落とし始めた。

「ラウル!」


 ――ラウル! こっちよ、私のもとへ……。


 ラウルは、エリザの声と姿に導かれ、走り出していた。

 視界のない場所で走るのは、採石師の知識としては考えられない行動だった。だが、ラウルはそのようなことを考えることもなく、走っていた。

 走っても走っても、エリザの幻には追いつかないかに思われた。まるで、幼い頃に虹を追いかけて走ったように、全く近づきもしない。

 だが、やがてラウルは追いついた。手を伸ばし、エリザを捕まえた。

 そして、堅く抱きしめて……。

 頬を濡らす涙を指で拭き取り、潤んだ瞳を見つめた。何かを言おうとして唇が震えていた。

 ラウルは思わず何も考えず、衝動に身をゆだねていた。柔らかで艶やかなエリザの唇に、山風にさらされてガサガサになった自分の唇を重ねていた。



 気がつくと、ラウルは草むらに倒れていた。

 体を起こすと、白いつめ草が咲き乱れる丘の斜面だった。そこは登山道のすぐ近くだった。

 山を見上げると、ほんの数メートル先からは霧で、何も見えない状態だった。

「夢でも見たのか?」

 ラウルは、不思議な気持ちになって、自分のがさついた唇に触れてみた。柔らかな感触が、残っているような、いないような……。

 腕にも胸にも、エリザを抱きしめた柔らかな感覚が残っているような、いないような……。

 指先は、まるで涙を拭き取ったように濡れていたが、草むらはすべて霧でしっとりしていて、濡れているのが当然に思えた。

 立ち上がってみて……ラウルは驚いた。

「癒されている?」

 へとへとに疲れていたはずの体に、力がみなぎっていた。

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