水晶の首飾り・3


 ラウルの言葉に、エリザの心臓は止まりそうになった。

 この家に誰かいるとか、知り合いがいるとか、そんな意味ではない。ラウルの質問は、曖昧な言葉だが簡潔だった。


 誰か――心を分け合った人がいるのか?


 気が遠くなりそうだった。

 エリザの心を常に占めている人の面影が、浮かんでは消え、消えては浮かんだ。

「……違います! そんな大それたことなんて……」

 エリザは、がむしゃらに茶葉を両手でかき集め捨てようとしたが、ボロボロと手から漏れて、効率は上がらなかった。

「マリは、たまたま、サリサ様と私で癒したから……だから、あのような戯れ言をいうの。子供だからよくわかっていないのよ」

 さらにエリザの手は忙しく茶葉を集め始めた。


 ――床をきれいにしなくちゃ! きれいにしなくちゃ!


 なぜか、ひたすらそう思った。

 邪なのは……汚れているのは、だめだ。もっと、もっと、もっと、きれいにならなくてはないらない。

 だが、焦れば荒れるほど、茶葉は手からこぼれてゆく。

「サリサ様は、慈愛に満ちた方で……誰にでも優しいから……。だから、特別でもなんでもないんです」

 突然、忙しく動くエリザの手首を、ラウルが乱暴に捕まえた。

 エリザはぎくりとして、ラウルの顔を見た。真剣な瞳に、言葉を失った。

「最高神官……なのか?」

 ラウルの声には、驚きではなく、確信があった。

「そ、そのような、恐れ多いことを……」

 と、言ったとたん、エリザの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 まるで、白状したようなものだった。

「そうか……」

 ラウルの声に、エリザは大きく首を振った。

 だが、自分の意思に反して、涙は滝のように流れて止まらない。エリザは、涙声で訴えた。

「……私……違うんです……」

「もういいから」

「いくないです。それ……誤解です……」

 手首を押えられたまま、エリザは何度も首を振り、否定した。


 ――ただ、敬愛しているだけだわ。


 突然、手首を引き寄せられた。

 エリザは、すっぽりとラウルに抱きしめられていた。

「わかった。誤解だ……」

 耳元にラウルの声が響いた。

 軽く背中を叩いてくれる手が優しかった。

「わかったから……泣け」

 そう言われたとたん、エリザはたがが外れたように声を張り上げて泣き出してしまった。

 頑にがんばっていたものが緩んでしまった。


 ――泣き虫はダメだと思っていたのに。

 泣いちゃいけないと思っていたのに――


 その場所が、とても居心地がよく、押さえつけられていたものが外れて、すっと楽になったように思えた。

 ラウルの腕が、ぎゅっとエリザを抱きしめた。サリサよりもたくましく、厚い胸だった。エリザの声も涙も、その胸が受け止めて吸い取った。

 違う……と思った。だが、誰かの温かさが欲しかった。

 いつの間にか、エリザはラウルの背に手を回し、すがりついて泣いていた。



 散々泣きはらし、落ち着いてくると、エリザは恥ずかしくなってきた。

 そっと、ラウルから身を起こし、彼の胸を見ると、服がエリザの涙でぐっしょりと濡れていた。

「ご……ごめんなさい」

 エリザは鼻水をすすった。この液体の一部は、もしかしたら鼻水かも知れない。

 そう思うと、ますます恥ずかしく、申し訳なく思った。

「いいんだ、別に」

 ラウルは、エリザの乱れた髪を手で軽く整えた。その手の感触は、サリサのように繊細ではなく、ごわごわとした感じだった。

 エリザは戸惑った。


 ――違う。この手じゃない……。


 そう思ったとたん、求めている手は恐れ多いことなのだ、と気がついた。

「お……お茶は無くなっちゃったけれど、蜂密ミルクならあるわ。今、入れる」

 ラウルの手を払うようにして、すくっと立ち上がった。

「いいよ、エリザ。別に」

 ラウルは、膝を床に着いたまま、言葉を繰り返した。

「いいの、私も飲みたいから」

 そう言うと、エリザはそそくさと蜂蜜の瓶を取り出し、匙でカップの中に蜂蜜を入れた。

 また涙が出そうになった。やはり、泣き虫だ。

 そのうえ、エリザは自分がなぜ泣き出してしまうのか、さっぱりわからなかった。

 いつのまにか、ラウルが横に立っていた。そして、カップにミルクを注いでくれた。

 彼は何も言わずに、黙々とエリザを手伝ってくれた。


 蜂蜜ミルクを飲みながら、エリザはしつこくラウルに謝っていた。

「ごめんね、ごめんね。あの、誤解しないでね……」

「していないよ」

「本当に何でもないのよ?」

「うん、わかっているよ」

 そんなやり取りが、何度か往復した後。

 ラウルが少し恥ずかしそうに言った。

「僕は男だからよくわからないけれど……」

 そこまで言うと、彼はミルクをすべてゴクゴク飲み干した。

「あの……初めてって、女性には重大だって聞いたことがある」

 ラウルは赤面しながら言った。


 重大どころか……。

 ムテでは、初めての相手同士が添い遂げて、次の相手はいない。

 例外は、神官に選ばれた神聖な巫女姫の場合か、添った相手に先立たれた場合のみ。あとは、よほどムテらしからぬ輩だけだ。


「だから……あの。エリザにとって、最高神官は特別で大事な人だと思う」

 たどたどしく言葉を選びながら、ラウルは話を続けた。

「……特別? 大事な人?」

 それ自体が、エリザは悪いことに思えるのだ。

 最高神官に対し、特別な感情を持つのはいけないことで邪悪なことのように。

 こんな話は、ムテにとって不慣れで照れくさい。しかも、男女でかわすのは下品だった。

 ラウルもそれを感じているのか、しばらく考え込んでいた。だが、急に妙案が浮かんだらしく、ぱっと顔を上げた。

「そう! 初めて住んだ場所みたいに。そう、故郷みたいな」

 うまいたとえを見つけてほっとしたのか、ラウルの話は滑らかになった。

「そうだ。エリザは故郷が懐かしいだろ? 時々は恋しくなることを、誰も責めたりはできない」

「……責めない?」

 ラウルはうなずいた。

「エリザは故郷が恋しい。それで泣いても仕方がないと思う。でも、一の村にもきっと慣れて、そのうち、ここが故郷になる」

 確かにエリザは、初めてこの村に来たとき、ここでやって行けるのだろうか? と不安になった。くじけちゃうかも? と思った。

 だが、住み始めて数ヶ月がすぎ、ラウルやララァと仲良くなり、マリの勉強も見るようになって、馴染んできた。それに、美しいうえに霊山に近いこの村が、エリザは好きだった。

 確かにまだまだ知り合いは少ないが、その分、仕事に集中しているので、あのクールさえも、もうエリザには文句が言えない。一年、二年と時が過ぎたら、他の人とも仲良くなり、さらにこの村が好きになるかも知れない。

「エリザ。僕は、『初めて』の男でなくてもかまわない。ただ、時間が流れていって一の村がエリザの新しい故郷になる頃、僕は『次』になれればいい」


 ――次……。

 それは、いつかひとつ心を分け合う……ということだ。


 エリザは、小さく首を振り、やがて大きく首を振った。

 とても、そんなことなど、考えられない。

「……私……。今は、ジュエルがいるし、この村になれるだけで精一杯で……。まだ、何もわからない」

「今は、いいよ」

 ラウルはポケットから小さな箱を差し出した。

「……本当は、今日、これを渡したかったんだ」

 エリザが開けようとしたところ、ラウルは掌を広げて静止した。

「今は……いい。気持ちは強要できないから。これを受け取ったからといって、返事とは思わない。でも、絶対に無理だと思ったら、身につけずに返してほしい。そうしたら、諦めるから」

 ラウルは立ち上がると、両手でエリザを制したまま、後ずさりした。

「あ、あの送るわ!」

 ラウルが帰ろうとしているのに気がついて、エリザも立ち上がった。

「いい! いいから」

 ラウルは小さな箱だけ机に残して、帰っていった。

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