熱情……されど、静かに・2


 エリザの家は留守だった。

 灰色のマントを深々と被り、夕闇の中、サリサは家を眺めた。

 各地の才人が集まってくる一の村は、ムテの富も集中する。だが、これほどまでの豪邸が建つものなのか? サリサは苦笑した。

 玄関の前でエリザを待とうとして、サリサは何かを感じた。どうやら、この家には先客がいるらしい。

 扉にはしっかりと鍵が掛かっていた。

 サリサは、髪につけている銀の留め具を外し、鍵穴に差し込んで回した。あっけなく、鍵は開いた。


 家の中に入ると、外から見るよりもはるかに大きい。がらんとしていた。

 灯りもつけずに、サリサはさらに奥に進み、居間に入った。そして、居間に続く部屋のひとつを開けた。

 部屋から白い影が飛び出してきた。

 もやもやとした霧状もので、ひとつになったりしているが、実際は三つの影である。居間の天井をぐるぐると駆け巡り、再び床に降りてくる。

「あなたたちは何者です?」

 サリサが質問すると、白い影はまとまってひとつになり、サリサの回りを取り囲むようにして、回り始めた。


 ――我々は……。


 声が響いた。音ではなく、心の中にである。

 彼らには、もう口がない。声など出せるはずがないのだ。


 ――最高神官サリサ・メル様……。お助けください。


 白い影はそう言うと、あっという間にサリサを包み込んでしまった。

 けして、嫌な感じではなかった。

 むしろ、哀れを感じた。

 白い霧の中、サリサは頭を垂れた。

「あなたたちには、申し訳ないことをしました」

 白い影は、悲痛な声をあげる。


 ――ああ、我々は謝って欲しいわけではありません。これは運命でありますから。

 ただ、ひとつ。この故郷の地でくつろぎたいだけでございます。


「肉体は戻れずとも、心だけでもこのムテの地に戻ってきたことを、喜ばしく思います。どうぞ、永久に安らかに過ごせるよう……」


 白い影は、切々と訴えた。

 ――無理でございます。あの者が……。


 会話は一瞬途絶えた。

 ちょうどその時、エリザが帰ってきたからである。

 サリサは、指先を唇におし当てて、静かに待つよう、エリザに合図した。


 ――私どもの命を奪う元となった皇子が……ここに。


 白い影は、ウーレンに送られたこの家の持ち主のものだった。

 ウーレン皇子の出産に立ち会ったばかりに、その場で首を切り落とされ、ゴミのように捨てられた。闇に葬られてしまったのだ。

 体は骨となり散ってしまったが、心だけは霊山に戻り、霊山の気に吸収された。だが、寿命で死んだわけではないので、残留した気が懐かしい家に留まったのだ。

「そこに、ウーレン皇子がやってきたというのですね?」


 ――この苦しみをどうとしましょうや?

 毎夜、あの皇子の顔を見たとたん、私どもはあの夜に戻り、再び首を切り落とされるのです。


「それは……惨い……」


 ――ああ、尊きお方。どうぞお救いくださいますよう……。

 そう言って、白い影はくるくると螺旋を描き、天井に吸い込まれた。



「! サリサ様っ!」

 エリザの悲鳴にも似た声が響いた。

 見ると、その場に座り込んでいる。よほど驚いたのだろう。

「エリザ、よく帰ってきてくれましたね」

 サリサは、つい声を弾ませてしまった。再会できてうれしかったのだ。

 手を差し出して助け起こすと、エリザはぽろぽろと泣いていた。

「命に従い、戻らせていただきました。再会できてうれしゅうございます」

 礼儀正しい挨拶。

 ぎこちないほどに。

 それは、エリザがサリサとの距離を保ちたいという意思の現れでもある。

「悲鳴を上げてしまって申し訳ありません。ここにいらしているとは思いもよらなくて……」

 はらはらと泣きながらも、エリザは目を伏せる。

 こみ上げてくる喜びのまま、抱きしめたかった。だが、サリサは静かに言った。

「今日、椎の村の巫女に、あなたが霊山に上り損ねた話を聞いたのです。辛い想いをさせましたね」

 サリサは、エリザに許可証を手渡した。

「どうもありがとうございます」

 かしこまって、エリザは受けた。

 素のままにサリサを求めたエリザとは違う、傷つきやすい繊細なエリザ。

 サリサは、遠慮がちに包み込むように抱き寄せた。

 最高神官の放つ結界に、エリザが恐れ震えているのがわかる。霊山から下りた……ということは、そういうことなのだ。心はすっかり閉ざされていた。


「い、今の影は……何なのですの?」

 サリサの腕の中で、エリザは震えながら聞いた。

「あれは、この家に住んでいる影で、何の危険もないものです」

「危険がない、のですか?」


 困ってしまった。

 本来、危険はない存在だが、ジュエルとは相容れない。

 それは、ジュエルの正体がウーレン第一皇子であり、彼らの命を奪ったものだからだ。

 最高神官として、彼らを哀れむことはあれど、せっかく戻ってきた故郷から追い払うことはできない。


「どうして? どうしてジュエルばかりが狙われるの? それは、ジュエルが至らない子だから?」

 エリザはぽろぽろ泣き出した。

 彼女は、ジュエルの正体がわからない。自分の子供だと思い込んでいる。

 その子供が、誰にも似ていない容姿と、誰の者とも思えない血、誰の心も感じることのない心を持っていると思えば、そして、なぜか憎まれると思えば。

 エリザの心労は想像の範疇を越えてしまう。


 ――いっそのこと、今、真実を話すべきだろうか?


 サリサは何度も言葉を捜し、選んだ。

 だが、かつて受けた心の傷の痛さもあり、言葉が浮かばなかった。

「落ち着いて……。まずはお茶でも飲みましょう」

 結局、一番最初に出た言葉はこれだった。

 エリザは、無礼を働いたと思ったのか、慌てて涙を拭いた。

「も、申し訳ありません! 私ったら、気が利かなくて」

「いや……その」

 エリザが台所の奥へ消えた後、サリサは思わず頭を抱え込んでいた。


 ジュエルの秘密を打ち明けること……。

 いい機会をまた失ってしまったのだ。


 エリザを待っている間、サリサは寒さを感じた。

 仕え人が言うように、エリザはサリサの元を去っていった人である。その事実がサリサを震えさせた。

 テーブルの上には懐かしいメイメ亭の料理がある。夜の食事を抜いて時間を作ったサリサにとって、それはうれしい物だった。

 昔、母の手伝いをした時を思い出し、テーブルを整えた。

 立派な暖炉があるのに、エリザは火をつけた気配がない。見ると、この暖炉は一の村独特の物で、火をつけるのにコツがいるタイプだった。

 サリサは、近くにあった薪をきれいに積み上げ、火をつけた。火は、あっという間にメラメラと燃え上がる。

 その炎を見ながら、サリサは、あの夜の熱に浮かされたようなエリザの顔を思い出していた。

 熱が吐息のように耳元に絡み付く。

 手にも唇にも、まだ桃色に染まった肌の感触が残っているというのに。

 炎がひとつになって大きく燃え上がるように、愛しあったはずなのに……。


「あぁ、申し訳ございません! そのようなことまでさせてしまって」

 エリザの声で我に返った。

 彼女のほうは……全くそのことを記憶から捨て去っているようだ。夢の彼方に押し込めてしまい、何一つ残していない。

 小さなため息が出てしまった。


 食事の間も、エリザの態度は軟化しなかった。

 まだ別れて一ヶ月も経っていないというのに、二人の距離は大きく離れてしまった気がする。

 それでも徐々に話が進むと、エリザの緊張はとけたかに思えた。

「メイメ亭の料理は、代替わりしても引き継がれていて……うれしいですね。とても美味しいです」

 そう言った時、エリザは確かに言った。

(では時々食べにいらしては?)

 しかし、それは声にはならなかったのだ。


 ――心が近づいた一瞬。


 サリサは、食事の手を休め、エリザを見つめた。

 その瞬間、彼女の心はぴったりと閉ざされ、もう二度と開かなかった。

 心が近づいた分、気まずい空気が流れた。


 帰りがけ、最後までサリサはジュエルに邪魔されていた。

 心を感じない子供は、エリザが立ててしまった音に泣き出して、中々泣き止まない。

 サリサは灰色のマントを羽織り、扉を開けた。だが、もう一度振り返った。

 今、ここで熱情のままに抱きしめて……素の自分を見せてやろうか?

 唇を奪い、舌の根元まで愛を語り、白い乳房を薔薇色に染め上げて。お互いを焼き尽くすような炎に身を任せて……何もかもなくしてしまおうか? 

 いっそのこと。

 大きな瞳を見つめながら、何度も何度も葛藤した。


 彼女は……欲しいと言ったのだ。

 抱いて欲しいと。


 だが、サリサの口から出た言葉は、静かなものだった。

「エリザ。私が最高神官であるとしても、ジュエルの父親であることに違いはありません。何か困ったことがあったら、必ず相談してください」

 そう言うと、サリサは泣いている子供とエリザの額に口づけをした。

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