新しい家・9
翌朝のことだった。
エリザは、朝から必死になって器材の埃払いと大掃除を敢行していた。
使えなくなっている物は処分し、壊れている物は修理に出さなければならない。とてもまだまだ薬草精製の段階などではない。
大きなマスクと背中にジュエル。手にハタキを持っているところに、いきなりクールが訪ねてきた。
ちょうど埃が舞った中、彼は咳き込んだ。
「ひ、ひどいじゃないですか! エリザ」
いきなり、今までの『様』付けが呼び捨てである。
「ご、ごめんなさい。今ちょうど上の棚を……」
マスクを外したとたん、エリザも咳き込んだ。
「埃ではなく、いったい霊山で最高神官に何を言ったのですか? もう……」
「はぁ?」
エリザは目を丸くした。
「エリザ。あなた、先日、ララァに会いましたね? それで、話を聞きにでも行ったのでしょう? で、私がララァとの約束を反故にしたとか、吹き込まれたのですね? でも、それで最高神官に直訴だなんて、あんまりではありませんか!」
全くクールの話が見えてこない。
だいたい、ララァとは何者なのだろう?
「あの……クール様? 私、霊山には行きかけましたけれど、行き着いていませんの。ですから、霊山で最高神官にお伝えしたことは、何もないのですが?」
多少の嘘はあった。
だが、クールは信頼の置けない男だ。最高神官がお忍びで山下りしたことを知ったら、彼はどのような騒ぎを起こすかわかったものではない。
「はぁぁ……。では、これはあの方の気まぐれなんですかぁ。本当に、やりにくいお方ですよ、サリサ・メル様は」
クールが差し出した手紙は、最高神官の封蝋がしてある。今朝一番で届けられたものらしい。
エリザが読んでみると……。
「癒しの巫女のために、もっと適切な家を手配するよう……うんぬん」
今の家は、どうやら前の住人たちが霊山に寄贈したものらしい。それを霊山は一の村に管理を託した。
たった一人の癒しの巫女に、あの家は広すぎる。もっと有効活用せよ、ということなのだ。
「ララァのような一般人が、最高神官に会いに行けるわけがない。……とすると、ああそうだ! 弟だな! ラウルのヤツが告げ口したに違いない!」
「ラウル?」
エリザは思わず声を上げていた。
懐かしい名前に思えた。だが、同時に後ろめたかった。
ラウルが持たせてくれた石は、エリザが知らないうちに失われ、行方不明なのだ。
親切にしてもらっただけに、そのことを伝えて謝るのは気が重かった。彼は、がっかりするだろう。
「とにかく! エリザ。あなたはこの家に住んでくださいよ。薬草精製にこれほど優れた施設はないんですから。同じ設備を整えようとしたら……ああ、もうどれくらいの出費になることやら……」
エリザはハタキでクールの顔を叩きたい衝動にかられた。
ムテでこれほどまでに物欲に染まっている人を見たのは初めてである。はたはた叩いて物欲が落ちるものならば、実行していただろう。
掃除が一段落して、エリザは部屋を眺めながら一休みしていた。
薬草精製するにも、一人では広すぎる。弟子をとって手伝わせて……とは言うけれど、霊山の恩恵を受けたエリザと一般人の見よう見まねでは、同じ価値の薬にはならない。
それに病室。確かにあれば便利だが、この村ではほとんど稼働しないのだ。
「私には……この家も施設も、まったく適切だとは言えないわ」
あの手紙は、最高神官の判断だろう。ラウルが最高神官に直訴したとは思えない。
クールは困った神官ではあるが、自分たちの間で巻き起こったもめ事をいちいち最高神官に告げ口するほど、ラウルが了見の狭い男だとは思えない。だいたい、そんなつまらない用事で最高神官へのお目通りが叶うはずがない。
昨夜、最高神官は白い影についての話をそらしたが、彼なりに解決作を考えてくれたのだろう。
その結果が、引っ越しなのだ。
白い影は、この家に住んでいる――最高神官はそう言った。さらに、危険もないと。
あの時は動揺して悲鳴をあげてしまった。だが、後から思えば、白い影に包まれた時、最高神官はむしろ影に対して哀れみさえ持っていたように思えてくる。
彼は、白い影を追い出すことよりも、ジュエルと離すことを選択したのだ。
「……ララァって……誰かしら? ラウルのお姉さん?」
エリザは、クールの話を思い出し、頭をひねった。そして、一人の女性を思い出し、立ち上がった。
日差しが当たると、陶製の壁はまぶしく光る。
ムテ人には、光の恩恵を一身に浴びたような心地よさを感じるのだ。霊山との気の相乗効果も感じ、この村を最初に興した古代ムテ人の知恵に、エリザは驚くばかりである。
エリザは祈り所の横を抜け、広場に出た。噴水の横を通り過ぎ、小さな家の前にたどり着いた。
緊張する。小さく息を吐く。そして、コツコツ……とノックした。
「どなたですか?」
中から女性の声がした。
初対面の女性にいきなり話しかけるのは、内気なエリザにとって勇気のいることだった。相手が出てくる前に、心臓が飛び出しそうになった。
(はじめまして、私は癒しの巫女のエリザ……)
ブツブツと口の中で台詞を繰り返す。だが、今回もその台詞は無駄になった。
扉が開いて出てきたのは、女性ではなかった。
エリザが想像していたよりもがっしりした男性で、思わず圧倒されて後ずさりしたほどである。
しかも、その人物を知っていた。
「ラ、ラウル?」
エリザ以上に驚いていたのは、ラウルのほうだった。
彼の口から、言葉はついに出なかった。
家にお邪魔すると、小さな子供が興味深げにエリザの横にやってきたが、突然、後戻りし、母親の影に隠れた。
幼い子供は最高神官の結界をものともせずに、ジュエルを恐怖と受け取るらしい。そのジュエルは、エリザの背中で眠ったままだった。
「あ、あの……僕が預かります」
頬を染めてラウルが言った。
「いえ、あの……」
エリザもつられて赤くなってしまった。
「背負いっぱなしは肩が凝るでしょう? 僕は平気ですから……」
その言葉に、エリザはラウルもジュエルの異常さに気がついていたのだと知った。
ラウルを信頼して、エリザはジュエルを背からおろした。
香り高いお茶がふるまわれた。
ララァという女性は、やはりエリザが想像していたように、この家の人であり、先日、クールと言い争いをしていた女性だった。
そして、驚いたことに……彼女の夫は、メイメ亭の青年だった。この家族に、何か不思議な縁を感じて、エリザは肩の力が抜けた。
家も家の中も華美ではないが、こじんまりとしていて温かい感じがする。家庭の温かさとでもいうのだろうか?
木製のテーブルと木綿のクロス。その上にお茶が置かれた。
エリザは、巫女姫の行進の時、ララァを見て涙が出てきたわけがわかったような気がした。
――ここには、少女時代から夢見ていた幸せがある。
「癒しの巫女様に、わざわざご足労いただくなんて……」
ララァの言葉に、エリザははっと我に返った。
そうだった。ここに来たのは、ララァの事情を聞きたかったからなのだ。それは、クールにとって嫌なことに違いないのだが。
「今、集まって相談していたところです。どのようにして、クール・ベヌ様に約束を守ってもらえるか……ということを」
「事情をお聞かせ願えますか? 私で力になれることでしたら……」
エリザは身を乗り出した。
エリザの家は、一家がウーレンに旅立った後、貸し出されることになっていた。
陳情しても無しのつぶての癒しの巫女・薬師・医者である。税収の大幅な減は目に見えていた。
そこでクールは、薬草の収益を家の賃貸料でまかなおうと考えたのだ。
霊山の物ではあるが、その収入の大部分は霊山への施しとして上がることになる。霊山も喜べど文句は出ないはずだった。
しかし、あれだけの施設である。誰も莫大な賃貸料を払える者がいない。
だが、借りたがっている者がいた。それが、ララァたちである。
夫のロンは、長い間メイメ亭で下積みを重ねた料理人であり、二人目の子供が生まれたのを機に、独立したいと思っていた。
そこで、家を借りて改修し、食堂と宿を兼ねた店を作ろうと考えた。
場所が裏手とあって商売には厳しいが、祈り所からあぶれた泊まり客を低料金で泊めることによって、どうにか採算が取れるのではないか? ともくろんだのだ。
「それっていい考えですわ。祈り所は無料で泊まれますけれど、陰気なところですもの」
つい、エリザの口からボロリと本音が出てしまった。
それに、宿泊施設は、アリアの例を見ても、必要とされていることだ。一の村には宿屋があるが、春や祈りの儀式の時期は足りていない。
「でも……。どうにかお金の工面が着いて、クールに言うと。改装するならば、頭金を納めろと言い出し……」
宿屋兼食堂に改装されたら、薬草精製の工場として使えなくなる。
クールとしては、諦めさせるつもりだったのだろう。途方もない金額を提示したのだった。
そこで、ロン夫婦の夢は潰えてしまったかに思えた。
ところが……。
「ラウルがそのお金を無期限で貸してくれたのです」
ララァの言葉に、ラウルは恥ずかしそうにうつむいた。
「……たまたま……いい石が採れただけで……」
実は、ラウルはかなり悩んだ。
最高神官から『祈りの宝玉』の謝礼としていただいた石は、けして手放さず、肌身離さず持っていようと思っていた。
だが、姉夫婦が苦しんでいるのを見て、見ぬふりができなくなってしまった。
数日悩んだすえ、ついに手放す決心をした。
ラウルが身を切る想いで作った金――それが、頭金だったのだ。
「ところが、クールは……。この話はなかったことにと……」
それは、エリザが突然来ることになったからだ。エリザは真っ赤になって叫んでいた。
「それって! あんまりです!」
「私たちも……もう業者さんに改装の準備金を納めていますし、お店の手配もしていたので、今更……で困っていたのです」
「もう、癒しの巫女様に直接直訴するしかないと……ちょうど話していたところだったので、あなたがいらしてびっくりしてしまいました」
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