新しい家・3


 エリザは、何度も寝返りを打った。

 胸元を押しつけられているようで、苦しい。

「うう……」

 と、小さなうなり声をあげた。

 目の前を白い影がうごめいている。

 だが、目を開けてしっかりと見ることはできない。

 まるで、何かがエリザの目を押えているようなのだ。思えば、息が苦しいのも、何かが口を押えているような……。

 無意識のまま、何度か空中に手を振り上げた。

 その手を押えられて、エリザはぎくりとした。意識がはっきりとした。

 霧のようなものが、エリザの手を押さえつけている。エリザは身をよじって、隣に寝ているはずのジュエルを見た。そして、ぎょっとした。

 白い霧がジュエルを包み込んでいるのだ。

「やめて! 私のジュエルに触れないで!」

 塞がれているはずの口から大きな声が出た。


 そのとたん、エリザは再び目が覚めた。

 自分の声に驚いたのだ。

 だが、ほっとしている場合ではない。慌ててジュエルを抱き上げた。

 そして、ピクピクと痙攣している子供を、無我夢中で叩いた。それでもジュエルの呼吸は止まったままだった。

 エリザは、今度、口から息を吹き込んだ。慌てる心を必死に押えて、ゆっくりと……。

 エリザに癒しの業や医療の知識などがなかったら、ジュエルは助からなかっただろう。ふっと、子供に息が戻ったとたん、エリザは母親に戻ってどっと泣き出した。

「よかった! よかったわ!」

 とにかく……子供は助かった。


 だが。

 あの白い霧は何だったのだろう?

 ただの疲れ? それによる目の錯覚?

 それとも……。


 エリザは不安になり、祈りの言葉を唱えた。

 だが、ジュエルに張られていた結界を越えて、あの霧は襲ってきた。エリザの弱い祈りなど、全く役に立たないだろう。

 エリザはジュエルを抱きしめて眠りについた。

 その夜は、もう何事もなかった。だが、エリザの睡眠は浅かった。



 朝、エリザは、霊山への道をたどっていた。

 ジュエルのことで、最高神官とお話がしたいと思っていた。だから、薬草許可の人々に交じって、山を登っていた。

 背中にジュエルをしょってである。途中、何度も休み、何度も後から来る人に追い越された。だが、ジュエルを一人、家に置き去りにはできない。目を離すわけにはいかない子供である。ましてや、夕べのこともある。

 汗を拭きつつ、人々の軽やかな足取りを、うらやましげに見つめる。

 エリザが知っている限り、このだけの人々が霊山を目指すことはなかった。しかも、霊山がこれほど大変な上りだったとは気がつかなかった。

「何度かは自分の足で上ったこともあるのに……。あれって、守られていたからなのかしら?」

 霊山に属する者と一般人。どうやら、霊山の受け入れが違うらしい。それに、背中のジュエルが妙なくらいに重い。

 受け入れが厳しいのは、霊山の気だけではない。なんと、中腹に検問所が設けられていた。

「ここから先は、霊山です。資格のない者は通行できません」

 つまり、癒しの巫女・神官・神官職を得ている医師と薬師・伝書係・採石師のみしか、立ち入りが許されないのだ。

 そこもまた長蛇の列で時間がかかり、朝、出たというのに、このままだとお昼になりそうな勢いである。

 資格のないジュエルを抱いていたのに、どうにか検問を通れたのは、結界がまだジュエルを包んでいるからなのだ。蜜の村でシェールが施してくれたものだろうが、やがて消えようとしている。

 おそらく……今日を逃したら、ジュエルを抱えている限り、霊山には入れないだろう。


 霊山の領域に入ったとたん、ますます背中のジュエルが重たくなった。

 睡眠不足も祟っているし、旅の疲れも抜け切っていない。

 あれだけいた人々も、もう見えない。どうやら、エリザは今日霊山に向かう人の最後方になってしまったようだ。

 春のさわやかな風が木々を揺らす中、エリザは汗だくになり、髪を振り乱しながら、一歩一歩地面を踏みしめて上った。

 だが、ついに砂利で足を滑らせて、転んでしまった。

「ふう……」

 そのまま立ち上がりたくないほど、体は疲れている。でも、もう少しがんばれば、最高神官に会えるのだ。

 エリザは立ち上がろうとした。が……。

 背中のジュエルが重すぎて立てない。それどころではない。ジュエルはますます重たくなり、エリザを押しつぶさんばかりだった。

 朦朧とする中、霊山の気が渦を巻いている。ジュエルを拒絶している。どうやら、霊山自体には、ジュエルに張り巡らされた結界が無意味なのだ。

 ジュエルが重たく感じるのは、エリザがその霊山の気に圧されているからである。

 エリザは何度も立ち上がろうともがいた。だが、だめだった。

 おそらく、もう山を下りますから……と祈ったら、背中は軽くなるに違いない。でも、そうなれば、サリサには会えなくなってしまう。

「お願い。一度だけでもいいから、先に行かせて……」

 泣きそうになりながら、エリザは祈った。

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