6 決意、新たに

 結局俺は、網代木さんには押し切られてしまい、一緒に下校することになってしまった。


 その前にトイレに寄っておきたかった。

 先に下駄箱で待っていて欲しいと網代木さんに伝える。

 彼女は部室の鍵を鳴らしながら頷いた。

 事務室に鍵を返してから下駄箱に向かうのだろう。

 俺たちはハイタッチをしてから、一度別れた。




 2階のトイレで用を済ませて、下駄箱のある中央廊下に向かい歩き出そうとしていると、ふと烏丸さんの顔を思い出した。

「少し様子を見に行くか……」

 俺は来た道を引き返して、階段を上り始める。

 南校舎の4階まで行くと、屋上へと続く階段の前に張り巡らされたバリケードテープをくぐり抜ける。

 積み重ねられた学習机の間を縫って歩いて行くと錆び付いたドアノブが現れた。恐る恐る回してみると、やはり鍵は開いていた。


 少しだけドアを開く。強風が押し寄せてきた。その隙間から屋上の様子を伺う。四方に張り巡らされた金網は落下防止のために設置された物だ。

 よくラブコメなんかで主人公とヒロインが屋上でイチャつくシーンが挟まれたりするけど、今の日本に、屋上を解放している学校がどれくらいあるのだろうか。

 ちょっとした疑問だ。

 我が校では例に漏れず屋上への出入りは禁止されている。その屋上の鍵が開いていたということは、無断で侵入した人物がいるということだ。


 深い水底色の空の下に立ち尽くす少女が、そこにいた。


 長い濡れ羽を風にたなびかせながら右腕をせわしなく動かしている。

 頂角が上向きの三角形を描き、今度は頂角が下向きの三角形を描く。

 その動きを交互に繰り返す。二つの三角形を重ねると、六芒星になるが、何か意味があるのだろうか。


 そしてそれを一定数繰り返すと今度は両手を組み、額に当てながら前屈みになる。神へ祈る巫女のように、その態勢を数十秒から数分間の間保つ。


 彼女の、烏丸さんだけの秘密の儀式だ。いや、それは儀式というより精神的な脆さが露見しただけのように見える。

 烏丸さんがこの屋上に無断で忍び込み、誰にも理解できない、その儀式を時折実行に移す。そのことに気がついたのは偶然だった。


 同じ部活に所属する、好みのタイプの女の子が屋上の方へ歩いて行くのを目撃してしまったら、何かあるのではと勘ぐってしまうのは、男のさがだ。


 それに、俺は「屋上」というワードに敏感になっていた。

 もしかするとまた、網代木さんのように、事故を起こす女の子が出るのではないかと、恐れていたのだ。

 もしそんなことがあれば、今度こそは守りたいと、ワガママな欲望を胸に抱いていた。


 しかし烏丸さんは頻繁に屋上に立ち寄りさえするものの、事故を起こす気配は見られなかった。ただ一心に意味不明な儀式を繰り返すばかり。


 強いて言えば屋上の鍵をピッキングしてしまう点に関してはどうにかして欲しいものだが、それくらいの軽犯罪はご愛嬌ということで目を瞑る事にしよう。


 屋上のドアをそっと閉めて俺はその場を後にした。


 今の俺にはどうすることもできない。せめて俺が凄腕の精神科医とかだったら、救う手立てがあるのかもしれない。




 南校舎を3階まで降りて廊下を歩いていると、科学準備室の前で網代木さんと遭遇した。


「アレ? 下駄箱の前で待ってるんじゃなかった?」

「遅いから心配で迎えに来たんだよ」

 何を心配することがあるというのだろうか。

「言っておくけど、今日も自転車だから。バス停までだよ」

「分かってる分かってる。早く行こう」

 網代木さんが鼻歌混じりに歩き出す。俺といる時の彼女はいつだって上機嫌だ。まあ、上機嫌が行きすぎて薬物中毒者みたいなテンションになるのは控えてほしい。

 網代木さんのぬくもりを感じながら歩いていると、不意に曲がり角から黒い人影が飛び出した。


「うわっ!?」

「きゃっ!?」

 左肩に軽い衝撃。そして女の子の短い悲鳴。網代木さんのものではない。飛び出してきた女の子の悲鳴だ。

 条件反射的にその子の体を抱きとめてしまった。

 良い匂い。網代木さんのとよく似ている。しかし、その匂いには憶えがあった。


「君は……」

 抱きしめていた身体を離し、確認してみると見覚えのある顔だった。

 いや、見覚えあるなんてレベルじゃない。彼女とはもっと濃密で刺激的な面識と経験があったのだ。


「あ、あわわ、ごめんなさぁい!」

 茶色い髪の女の子は俺の身体を突き飛ばすようにして走り去っていった。

「あ、ちょっと!」

 呼び止めようとするが、いつぞやの出来事のように、彼女は姿を晦ました。

 でも間違いなく、今の女の子は……。


「ねえ、茂木」

 振り返ると網代木さんは冷笑を浮かべていた。しかも右手にはカッターナイフが握られていた。


「あの女、誰?」

「え、いや……誰なんだろうね?」

「……アレ、殺してもいいやつ?」

 なんで急にヤンデレキャラみたいな感じになってんだよ!?

 網代木さんの意外な一面に目を白黒とさせつつ、彼女と俺は無関係であることを説明した。

 しかし納得してもらえなかったのか、しばらくは「腕の皮を剥がさせろ」と迫ってくる網代木さんの対応に追われた。


 だがそれも校門を過ぎたあたりで年頃の女の子らしい話題にすり替わった。

「それでねそれでね、駅前に出来たスイーツショップのクレープが凄く美味しいんだよ!」

「そ、そっか」

「今度一緒に食べに行こうよ」

「いや俺はちょっと」

「ダメ。一緒に食べに行くの。そういう約束でしょ」

 俺は網代木さんに聞こえないくらいの小さな声でため息をついた。

 正直、網代木さんと行動するのは億劫だ。

 彼女のご両親は銀行勤めのバリバリの商社マンで、言ってしまえば上流階級の出だ。

 繁華街から歩いて20分くらいの場所にある高層マンションに住んでいるし、自分専用のクレジットカードまで持ち歩いている。彼女自身に自覚があるのかどうか分からないが、身の丈が違いすぎる。


 別に、そのことで彼女を遠ざけたりはしないが、外出する時などは気を遣ってしまう。いっそのこと他人の財布の中身など気にせず高級フレンチでも食べまくるような横暴な女の子だったら良かった。網代木さんの場合はその逆だ。俺の懐事情が芳しくないと知るや否や、パトロンを申し出たりするのだ。金銭感覚が狂っている。


「最近の茂木って冷たいよね」

 網代木さんが急にトーンを落として話し始めた。

「前は頻繁に家に遊びに来てくれたのに……」

「それはだってほら……網代木さんの家、女の子の匂いするし」

 女の子なのだから当然だ。

「私なにか悪いことしたかな?」

「網代木さんは悪くないよ……悪いのは俺だ」

「またそうやって何でもかんでも一人で背負いこんじゃうんだね」

 網代木さんが足を止めたので、俺もつられて止めてしまう。

「もっと私にも押し付けてよ! 嫌がる私の顔面に強引にさぁ!!」

 ……なにを?


「夏休み中だって……LINEばっかりで、全然会ってくれようとしなかった」

「夏バテだったからね」

「一緒に秋保温泉入りに行くって約束したんじゃん!」

「だってアレは日帰りじゃなかったし……」

「旅費は全額私が持つって、予め言ってたでしょ」

「そ、そういう問題じゃないし……だいたいにして俺は、女の子に旅費を全額負担なんてさせられない」

「何その紳士的な考え! 好きよ」

 網代木さんが両腕を広げ抱きつこうとしてきたので、ひらりとかわした。


「ひっ、ひっつかないでくれるかな……」

「もっと一緒に居たいんだよ」

 網代木さんは、おやつをねだる子供みたいな目で俺を見た。

「網代木さん……」

 俺は自責の念に駆られた。


 1年前。あの日、俺が網代木さんに対して変な気さえ起こしていなければ、網代木さんがこんなにもか弱い女の子に成り下がることはなかった。


 もっと逞しく、年相応の付き合い方ができる女の子になれていたはずだ。網代木さんにはその素質があったんだ。


 それを俺が潰してしまった。俺だけの物にしようとしてしまった。


「ねえ茂木、手……繋いでもいい?」

 不意に網代木さんがつぶやいた。俺は目をひん剥いて訊き返した。

「えぇぇ!? 手!? さっきう○こしたばっかりだけど!?」

「いいよ、茂木のなら……茂木のぬくもり。とっても感じたい気分なの」

 愛が重いんすけど……。


 俺は、どうしようかと考えて周囲を見渡した。

 大通りに面した急な下り坂の住宅街。あとほんの十数m下りると網代木さんが普段利用しているバス停がある。とりあえずはそこまで歩くことにした。


「ちょっとだけなら」

 バス停の前で立ち止まり、自転車のスタンドを立てる。

「ちょっとだけなら、うん」

 周囲に人がいない事を確認してから右手を伸ばした。俺は、手のひらを上にした。

 それを見た網代木さんは少し頬を紅潮させてから、手を重ねた。俺は網代木さんの指を包み込む。

 網代木さんの手のひらを、こうして握るのは随分と久しぶりな気がした。


「ふ……ふひょひょひょひょひょ……茂木のふひょ、手ふひょ……血管がふひょひょひょひょ」

 黒魔術の詠唱かと思ったら網代木さんの笑い声だった。クソ気持ち悪い笑い声だ。

 それにしても網代木さんの手は随分と冷たい。いや、俺の手が温かいだけなのか。


「茂木って、体温高いんだね」

 網代木さんがつぶやいた。

「手が温かい人は、心が冷たいってよく聞くけど……」

 自嘲気味にそう告げると網代木さんはハッとした顔になって、


「なんだ、茂木は私のことを甚振って悦ぶタイプの人間だったんだね……だったら殴ればいいじゃないの! この麻縄で!! 気がすむまでさ!」

 そう言って網代木さんはスクールバックの中から麻縄を取り出して俺に手渡した。

「なんで麻縄持ち歩いてんの君、怖いんですけど!! もう帰っていい!?」

「ダメだよ」

 即答。本当に怖いよ。


「ねえ、せっかくだし……指も絡めていい?」

 網代木さんが太ももをこすり合わせながら尋ねてきた。

 指って!? それは俗に言う恋人つなぎでは!?


「それは無理だ」

 意志を込めて返答すると網代木さんは、

「私も……それは流石に死ぬほど恥ずかしいから、断ってくれて助かったよー」

 あっけらかんと言い放った。

 だったらなんで提案したんだよ!


 それからしばらくは網代木さんの黒曜石のような瞳を見つめていた。

 いつ見ても綺麗な瞳だ。初めて会った時はその瞳に射抜かれるんじゃないかって身構えたことを思い出す。あの頃の網代木さんは狂犬みたいに恐ろしい風貌だったからなあ。

 なんだか照れくさくなって視線を逸らすと、網代木さんが小さく告げた。


「あのね……茂木」

「うん?」

「茂木と出会う前の私は空っぽだったの。悲しいとか寂しいとか、そういう感情すらよく分からなかった。でも今の私にはよく分かるよ。悲しいっていう感情、嬉しいっていう感情、楽しいっていう感情」

 網代木さんは一呼吸おくと、満面の笑みを浮かべた。


「ありがとう」

「網代木さん……」

「だからね、私この感情をもっと知りたいの。私が私でいられる、今の内に」

 含みのある言い方だ、と思った。


「茂木は私にとって本物の家族みたいなものだよ……だから一緒にいたい。だけど、茂木は照れ屋さんだから。クラスが離れちゃった今、私たちを繋ぎ止める場所は新聞部しかないんだよね」

 そこで俺はようやく気がついた。どうしてそこまで網代木さんが新聞部に固執するのか。その理由にようやく気がついた。


「あ、そろそろバスの時間だ」

 網代木さんが言った通り、上り坂の頂上からバスがゆっくりと姿を現した。

「なんか名残惜しいね……手、もっとつないでいたいのにな」

「……新聞部が継続されたら、いつでも繋げるでしょ」

 網代木さんが虚を突かれた顔で俺を見上げた。


「俺なんかの手でよければ、いつでも繋いであげるからさ」

「……好き」

「早くバスに乗れ」

 目の前で市営バスが停車した。

「待ってよ茂木! その前に別れのキ」

「アデュ」

 俺は網代木さんの背中をスニーカーで蹴り飛ばした。彼女は前屈みでつんのめりながらバスに乗車した。自転車を振り返り、スタンドを戻す。

「茂木———————っ!」

 走り去って行くバスの中からくぐもった声が聞こえてきたような気がするけど、気のせいだろう。あるいは幻聴だ。最近寝不足だから。


 それはさておき、頑張らないとな。

 網代木さんが安らげる場所を守る為にも頑張らないと。

 決意を胸に、サドルに跨ろうとする。と、奇怪な笑い声が辺り一帯に響き渡った。

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