2 あのメガネを叩き割ろう

「どうして後ろから驚かしたりしたの?」

 俺たちは近くの椅子に腰掛けた。

 向き合う姿勢で座り直すと、網代木さんは背筋を正して、俺の目をまっすぐと見つめた。そして首を傾げる。


「記事、見なかったの?」

 きじ、雉?

 頭の中で反芻した。雉なんてこの辺じゃ見かけないぞ。


「雉なんて見てないけど……」

「ふぅん……別に良いけど」

 網代木さんは残念そうな顔をしてそっぽを向いた。

 前髪のクセ毛を直そうとムキになって引っ張ったり伸ばしたりしている。こういう時の網代木さんは大抵気が散っていて物事に集中できていないことが殆どだ。


「それで、俺を呼び出したのはどういう要件なの?」

「要件?」

 網代木さんは前髪から手を離した。

「これだよ。これ」

 スマホの画面を網代木さんの方に向けた。

 黒曜石の瞳が件のメールを捉える。「あぁ」と納得したような声。俺は、彼女がメールを確認しきったのを見届けてからスマホをしまった。


「色々聞きたいことはあるけど、どうしてメールで送ってきたの?」

 呼び出すだけならLINEのメッセージ機能で事足りるはずだ。

 それなのに古典的なメールの機能でメッセージを送信してくるなんて、理由がイマイチ分からなかった。

 網代木さんは口元に手を添えるとお上品に笑った。


「だって茂木ってLINEで呼んでも全然来ないもん」

 言葉に詰まった。まあ、あり得ない話ではない。

 LINEで呼ばれたとしてもそれを無視して帰宅することはあるかもしれない。相手が網代木さんだと尚更。


「形式張ったメールの方が、何かあったのかって心配して顔を出してくれるかと思って」

 網代木さんが俺の二の腕を軽く抓りながらそう付け足した。

 今の行動にどんな意味があったのだろう。


「でも本当に来てくれた。嬉しい」

 うっとりした目で網代木さんが微笑んだ。

「じゃあつまり、特に用事はないってことか」

「うん、そうだよ。ココア飲む?」

 網代木さんが椅子から立ち上がった。マイペースかよ。

「いやいいよ。すぐに帰るし」

「帰さないよ」

 網代木さんが即答で答えた。怖いよ。

「今日は帰さないよ。ううん、今日こそ絶対に帰さないよ」

 このお方は俺に何か恨みでもあるのだろうか。

 そんな俺の懊悩など気に止めもせず、網代木さんは窓際の方へ歩いて行ってしまった。


 室内には手洗い用の水道が備え付けられている。新聞部ではそこに電気コンロとポッドを置いて調理台代わりにしている。

 学校側の規則によれば、調理室以外での料理は禁止されているのだが、網代木さんをはじめ、俺以外の部員、ひいては顧問の教師すらそのことを気にする素振りを見せたことがない。

 要するに「バレないようにやれ」ってことなのだろう。


「みんな遅いなー。早く来ないかなー」

 やはり網代木さんはマイペースだ。

 頬杖をついて待ちぼうけをしていると、電気ポッドがコポコポと音を立てて沸騰し始めた。網代木さんは特撮番組の主題歌を口ずさみ、棚からマグカップを二つ取り出した。


 それは去年の秋の暮に、近くの小学校で開催されたバザーで購入した物だ。部内でも特に頻繁に顔を出す生徒のためにと購入したのだが、なぜか俺と網代木さんの分だけがお揃いだった。

 猫のシルエットがプリントされた青とピンクのマグカップ。青い方が俺専用でピンクが網代木さん専用だ。


 次に彼女は窓際の事務机の一番下の引き出しからココアのパッケージを取り出した。


 初めの頃はコーヒーなんかが振舞われたりしたのだが、実はコーヒーが苦手なことをカミングアウトすると、次からはココアが振舞われるようになっていた。どうやら粉末は適宜網代木さんが買い足しているらしい。


「はい、お待たせ」

 ぼんやりと考え事をしていると机の上に青いマグカップが乗せられた。

「ありがとう」

 カップには半透明の氷が浮いている。アイスココアだ。残暑がきつい今の時期にこれは助かる。


 しかし氷なんぞ何処で入手したのだろう。網代木さんの方を振り返ると、ちょうど大きめの水筒を、スクールバックの中にしまいこんでいる最中だった。

 断熱性の水筒か。そんなものを持ち歩いてまでアイスココアが飲みたかったとは。恐るべき執念だ。女の子の甘い物好きには恐れ入る。


「いただきます」

 カップの取っ手を握り、ココアを口にする。その様子を網代木さんは凝視していた。観察するみたいにジッと、身動き一つ取らずに。


「どう? 美味しい? ダマになったりしてない?」

 恐る恐るといった感じで網代木さんが尋ねてくる。

「美味しいよ」

 俺は笑いながら答えた。網代木さんは肩の力を抜いて破顔した。

「よかった。茂木に喜んで貰えたなら何よりだよ」

 そして網代木さんもココアを口にし始める。

 滑らかで、粉っぽさのないまろやかな舌触りだった。


 ココアを飲みながら談笑をしていると唐突にドアが開かれた。

「……なんだ茂木。来てたのか」

 青いフレームのメガネがよく似合う長身の男子生徒だ。


「メガネくん、ご馳走になってるよ」

 俺の返答に風見くんは薄く笑った。

「邪魔したか?」

「え、邪魔じゃないけど?」

「邪魔だよ」

 網代木さんが嫌悪感を丸出しにして答えた。


「網代木さん……なんてことを言うんだ?」

「だって邪魔だもん。帰れば?」

「悪いがそういう訳にはいかない」

 風見くんがメガネのフレームを押し上げた。

「俺は漢字ドリルを解くので忙しいんだ」

「漢字ドリル!? ヤダキモーい! 漢字ドリルが許されるのは小学生までだよね!?」

 網代木さんが同意を求めるような目でこちらを振り返る。俺は肩をすくめてから風見くんを見た。


「風見くんは新聞を書かないの?」

「書くわけがないだろ」

 さも当然というような顔で風見くんは俺の脇を通り抜けて行く。

「新聞部員が新聞を書かなければいけない法律なんてあるのか?」

「いや、ないけどさ……」

「そういうお前も網代木に任せきりじゃないか」

 痛いところを突かれた。俺は風見くんから目をそらした。


「だから、新聞部は辞めた方が良いかなーって検討してるんだけど」

「は? そんなの私が許すとでも思ってるの?」

 網代木さんが物凄い形相と怪力で俺の二の腕を掴んだ。

「痛だだだだだ!! 折れる! 折れちゃうぅう!!」

「風見、次余計なこと言ったらメガネごと屠るからね」

「怖い怖い、これだから女って生き物は」


 横暴な態度と人柄が鼻に付くが、初対面の相手に対しては紳士的で常識的な側面を見せる彼は俺たちの同級生で、新聞部の数少ない部員の一人だ。

 優等生然とした短く整えられた髪型をしているが、成績自体は好ましくない。伸び悩んでいるそうだ。

 対して足は長く、スラッとした体型をしている。にも関わらず彼女の一人もいない現状を見るに、やはり性格がいけないのだろう。

 風見くんは一番奥の机にスクールバックを乗せるとこちらを振り返った。


「なんで掃除用具が出ているんだ?」

「ああ、それね」

 疑問に満ちた表情をしている風見くんに対して、十数分前に起きた出来事を説明した。


「また下らないことをしているんだな。小学生か」

「小学生じゃありませんー! 生まれて一年しか経ってない新生児ですー!」

 網代木さんがムキになって反論する。いや、それ反論にすらなっていない。

「ガキはガキらしく保育園にでも通うことだ。お前に女子高生はまだ早い」

「キーッ! ムカつく。アイツの弁当に青酸カリ混ぜてやろうぜ、茂木!」

 そこで俺に同意を求めないで欲しい。


 さてどうやって網代木さんをなだめようか考えていると再びドアが開かれた。  


 振り返るとオドオドとした、見るからに内向的な女子生徒が胸元に手を添えて立ち尽くしている。

烏丸からすまさん」

 俺の呼びかけに、級友の烏丸美結はピクリと肩を震わせた。


「も、茂木さん……お久しぶりです」

 網代木さんほどではない身長は低めだ。大雑破に見積もって身長160㎝代か。


 スカートの裾は常に膝下10㎝をキープしている。最近の女の子にしては随分と清楚だ。

 飾り気はなく、化粧気もまるでない。唯一のトレードマークはその奇抜な髪型だ。前髪の右側だけがやけに長い。髪で片目が隠れてしまっている。

 肩甲骨の辺りまで伸びた濡れ羽色の髪の毛自体は、男の俺でも羨ましくなるほどに美しい。

 そんな彼女も新聞部の一員だが、美術部と兼部していて、もっぱら向こうが本職だと聞く。 


「今日も避難か?」

 風見くんが小学生用の漢字ドリルを開きながら訊ねる。

「い、いえ……今日は怖い人たち、来てないので」

 烏丸さんがモジモジとしながら答えた。

「じゃあ何で来たんだ?」

「そ、それはその」

 烏丸さんは口をパクパク動かした。時折感じることなのだが、彼女はちょっと吃音っぽいところがある。


「は、はい……ぶ」

 蚊の鳴くような声だ。うまく聞き取れなかったので耳を済ませた。

「この部活、廃部になるみたいです」

 やはり蚊の鳴くような声だったが今度はちゃんと聞き取れた。

 そしてそれは、俺以外の部員達にもしっかりと聞こえていたらしい。


「はぁぁっ!?」

 二人は同時に立ち上がった。

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