第12話
かつてのエーデム王子は、今、レイラの足元にひざまずいている。まるで姫君にかしずく従者のようだ。
でも、レイラは偉くなった気分にはなれない。
レイラの足に触れる手の感覚は、ふんわりと温かかった。彼はそっとレイラの足を持ち上げる。
なぜかレイラは切なくなった。
仕草のすべてが優しいのに……ほとんど無言。優しくない。
じんじんじんじん……足が痛い。
レイラの足は、肉刺がつぶれて血がにじみ、己を知れよ、慣れないことなどするものではないよ、と訴えていた。
同じことを、セラファンもきっと言うのだろう。だが、彼は無言のまま、レイラの足に薬を塗った。
「ぎゃ!」
思わず飛び上がるほど痛かった。
いつものセラファンだったら、微笑みながら、
『痛かった? ごめん』
くらい言ってくれるだろう。だが、彼は何も言わない。
逆にレイラのほうが恥ずかしさに真っ赤になり、謝った。
「あの……ごめんなさい。その……」
「今日は、生きていて最悪の日でした」
さすがのレイラも迷惑のほどを考えれば、文句の言いようもない。しかし、怒られることが少なかったわがままな姫には、お説教ほど辛いことはない。
「もう何も言わないで……。私、本当に堪えているの。反省しています」
レイラは頭を下げた。悲しい気持ちで一杯だった。
セラファンの口からは、ため息とともにこんな言葉が漏れていた。
「何でこんな気の毒な足の手当てをする羽目になるのやら……」
布で傷口を結わえ、かわいい蝶結びを作ったあと、セラファンはそっとレイラの足を床に戻した。
「でも、私、ちゃんとあなたに伝えたいことがあって……」
「もう口を開かないで。私の話を最後まで聞きなさい」
不安げにレイラが見つめる中、セラファンは目線をそらせて軽く咳払いした。不機嫌そうな顔が、やや紅潮して見えるのは蝋燭の光のせいかもしれない。
「君にはわからないかもしれないけれど、何も知らないで幸せでいられることだって、それほど悪いことじゃない。むしろ、誰だって大事に思う人には常に平和で幸せであって欲しい、悲しい思いはして欲しくないと思う。たとえ籠の鳥にしたとしても、それを守りたいと思うものですよ」
言われていることがわからなくて、レイラは目をぱちくりした。
「あの……」
レイラの一声に、セラファンは不機嫌そうにため息をついた。
「何も言わずに聞きなさい」
「はい……」
「私は、レイラに幸せでいて欲しいんです。エーデムの地が、この世界が、どこまでも平和であり続けて、そこで君がずっと幸せでいてくれる。それが、私の望みなのです」
やはり何を言われているのか、よくわからない。
どうやら、説教されているらしいのだ。つまりは、そのまま貴族の姫は貴族の姫らしく生きるべきということらしい。
「だからイズーに連れ帰り、ルーテルのジジイと結婚しろ! っていうんですか! あんまりです」
「最後まで聞きなさい」
有無も言わせぬセラファンの言葉。
レイラはうつむいた。
――そんな幸せなんていらないから、追いかけてきたのに。
ここまで愚かなことをやらかしたのも、ただ、気持ちを知って欲しかったからだ。説教されるためではなくて、素直に気持ちを伝えるためなのだ。
なのに、セラファンは全然わかってくれない。
レイラの決死の告白なのに、聞く耳すらも持ってくれない。
セラファンときたら……説教ばかりだ。
「あのですね、私はたんなる歌うたいで、しかも放浪癖があって、どんなに好きな女性がいたとしても、たぶん、この癖は変わらないと思う」
彼は、一言一言ゆっくりと言い聞かすように、話を続けた。
「誰かを幸せにしなきゃいけないなんて重荷、私にはごめんです。ですからね、私と一緒になる女性は世界で一番不幸だと思うんです。ですから……」
そのような男だということは、充分わかっている。
――わかっているけれど、好きだから。
もう我慢の限界だ。
レイラは思わず立ち上がり、目をつぶり、大きな声で叫んでいだ。
山のように高いプライドは、すべて崩れ去っていた。
「わ、私を世界で一番不幸にしてくださいっ!」
……しばらくの沈黙。
レイラは目を開けられずに、震えたままだった。
濡れた髪がかすかに冷えた。頬を伝わったのは、その滴にしては温かい。硬くつぶった目からこぼれたものだった。
「本当にまいりましたよ……」
セラファンはふっとため息をついた。
「今日はどうしてこう日が悪いんだろう? レイラ、君は先走りすぎるんだ。何も言うな、と言ったのに」
ため息のわりに、声は優しい。
すっと手を握られて、レイラは恐る恐る目を開けた。やや困ったような、優しい緑の瞳がすぐ目の前にあった。
「あの時だって……。君は、私に何一つ言わせないままに、あっさりと結婚するって言い出すし」
レイラは思わず目をぱちくりさせた。
「はい?」
「私は、とても女性を幸せにできる男ではないから……君に拒絶されたんだな、と思った。諦めがついてすっきりしたつもりでいたのに」
どうやら……レイラは過去にセラファンをふったらしい。
あの冗談みたいな、ふざけた告白は……彼の本気だったようだ。
「そして今日だ。私を死ぬほど心配させ、最悪の決心をさせたうえに、必死で考えていた求婚の言葉すらふいにしてくれるんだから」
唖然としているレイラに、森の泉のような瞳が近づいてきて……やがて瞼をゆっくりと落した。
抱きしめられる瞬間。吐息とともに、甘い声が耳元に届いた。
「君を不幸にするなんて……本当に最悪」
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