第11話


 夕闇で、馬から飛び降りた人の顔は見えない。

 だが、その人が誰だかレイラは知っていた。

「セラファン様!」

 倒れこむレイラをささえて抱きながら、セラファンは怒っていた。

「君がそこまで愚かだったとは!」

 それはレイラがはじめて聞いた、彼の怒鳴り声だった。

「ここまで世間知らずだとは……それは思ってはいたけれど、バカだとは思わなかった!」

 ここまできつく抱きしめられたことも初めてだった。

 怒鳴られてもうれしい。

 レイラは朦朧としながら、声を聞いていた。いや、うっとり……というのが正しいかもしれない。

 もうあたりは暗くなり、どのような顔で怒っているのか知りたくても無理だった。レイラがどれほど幸せそうな顔をしていたのか、セラファンのほうも見えていないにちがいない。


 だから、素直な顔ができる。

 きっとこれからは素直になれる――


 なのに……。


「私にリューマ中を駆け回らせるつもりだった? 王がムンク鳥を使って知らせてくれなかったら、こんなことになっているとは知らなかったし、見つけることだってできなかったよ」

「だって……」

「だっても何も……とにかく、戻りましょう」

「戻りましょうって……?」

「とりあえずはサラ。宿を取っています。それから、イズー……」

 幸せな気持ちが吹き飛んだ。

「嫌です!」



 世間知らずで、権力を振りかざさないと何もできない情けない姫君――それが、レイラ・ベルヴィンである。

 誰が好き好んでこんな女を嫁にしたいと思うだろうか? イズー強制送還である。

 文句を言ってもはじまらない。

 しかも悲しいことに、サラまでは馬でたったの数分でついてしまった。

 今日という一日は、いったい何だったのだろう?

 ただ、道に迷って村の近くをうろついていただけの最悪な日。

 レイラは自分の愚かしさと鈍竜の命を悼む気持ちで一杯になり、馬に乗っている間、一言も口をきけなかった。

 サラから出て行く人の列はまだあった。しかし、入る人は少なく、あっという間に馬は橋を渡った。

 前日の脱出劇はまだ村人の記憶に新しく、馬を下りたときもレイラは恥ずかしくて顔をあげられなかった。村人たちの視線が、自分に集中しているのが顔を伏せていても伝わってくる。

 だが、どうして顔を伏せているのにわかるのだろう?

 レイラの今の姿ときたら、汚れてひどい。髪はぐしゃぐしゃ、ボロボロの服に毛布を被って、しかも靴の花飾りは取れていた。とても絹のマントを羽織っていた前日とは似ても似つかない姿である。

 セラファンに手をひかれながらも、レイラは穴があったら入りたかった。



 レイラが泊まろうとしていた宿に、セラファンは宿を取っていた。

 重苦しい空気が流れる。

 レイラは体を洗い、新しい寝衣に身を包み、そっと部屋に戻ってきた。銀色の巻き毛はまだ乾いてはおらず、艶やかに輝いていた。

 セラファンは、すっかりご機嫌斜めで椅子に座って下を向いたままだった。

「あの……セラファン様?」

「私はメルロイです」

「……」

 メルロイとは、歌うたいであるセラファン・エーデムの名前である。

 しかし、エーデム貴族であるレイラは、エーデム王に倣って、捨ててしまったという王子の名前で、彼を『セラファン』と呼んでいた。

 名前はとても大事なものである。この地では偽名を名乗ることを恥としている。捨てた名前は偽名にも等しく、本来は好ましくない呼び方だった。

 しかし、セラファンは今まで怒ることも訂正させることもなかった。今回初めて怒られた。

 レイラはしょぼくれた。

 彼はいつも微笑みをたたえていて、とらえどころがない。本当に怒ったり怒鳴ったりしないのではないか? と、長年レイラは思っていた。

 だから、怒られるのもうれしかったのだが、ここまで機嫌が悪いと場が持たなくて困ってしまう。

「あの……」

「いいから座って。足を見せてごらん」

 セラファンはそういうと、部屋にたった一つしかない椅子から立ち上がり、レイラに席を譲った。

 レイラはうつむきながらも足を引きずり、そして座った。足が痛いというよりも、空気の重たさに打ちひしがれていた。

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