第6話
一番不安に思っていることを、ずばりと言われて、レイラはあとずさりした。
後ろから、父の悲しむ声が追ってくるようである。恐る恐る鈍竜の硬い皮膚に手を当てて撫でて心を落ち着かそうとした。
「止めないでくださいませ。王妃様。今、行かないと私は一生後悔し、泣き暮らすことになります」
王妃はゆっくりと質問した。
「セラファン様は、このことをご存知なのですか?」
「いいえ……」
「それでは、あなたはどうするつもりなのです?」
「リューマの首都リューに行って、あの方の消息を探します」
王妃はさすがにあきれた顔をした。
「あの……レイラ様。鈍竜でリューまでどのくらい日数がかかるか知っています?」
「え?」
鈍竜という生き物は、持久力に優れており力持ちでもある。荷物の多い旅には都合がよい。
しかし、何せ足が遅い。人間が歩くのとたいした変わらない速さしか出ない。
レイラの計算は、足の速い馬での移動で成り立っていた。食べ物を多めに持ったとはいえ、三日分しかない。
「だ、大丈夫です。いざという時は金目のものを売って食料に換えますから」
「途中は砂漠もあるのですよ。それに、金目の物などお持ちになっていたら、エーデムを出たとたんに、盗賊に襲われてしまいます」
レイラは慌てて指輪と首飾りを外した。
決断までの日は短い。
旅の知識などまったくない姫にとって、完璧な旅支度という自信は、みるみるうちにしぼんでいった。
「無理はなさらず。もしも今回の結婚がお嫌でしたら、私が何とかいたします。セラファン様の行方も、きっとお探しいたします。あの方の血筋には、あなたのお父様・ベルヴィン様も文句は申しませんでしょう」
確かにレイラの想い人は、エーデム王族出身の立派な血筋である。
ただ、本人が自由を好んでその地位を捨て去っただけで。
「ベルヴィン様ほど、思慮深い方を私は存じておりません。あなたのそれまでの気持ちを推し量れぬ方ではないことは、あなたが一番存じていることではないのですか? 優しいお父様を悲しませてはなりませんわ。お戻りくださいませ。きっと、望みはかないますから」
優しい王妃の言葉に、レイラの固い決心も揺らぎ始めた。
旅は危険で愚かなものに思えた。
年を重ねた父を捨てて旅にでるよりも、王妃の提案は正しいし、実現する可能性も高い。
レイラの脳裏に、温かな邸宅で父とセラファンと三人で仲良く暮らす図式が浮かび、こわばっていた肩の力が抜けた。
が……。
「いえ、やはり行かなければ!」
目の前が真っ暗になり、家族団欒の図式が消え去っていった。
温かな暖炉も、その横の柔らかい椅子も、座っている父の姿も、お茶を入れる彼の姿も、微笑んでいる自分の姿も……すべては闇にとけてなくなった。
レイラの瞳に涙が浮かんだ。
王妃が不思議そうな顔をした。
「なぜ? です?」
「セラファン様は、きっと私からお逃げになるから……ですわ」
――幸せですって? 当然ですわ。
レイラは、ずっと最後の一言を悔やんでいたのだ。
これが永久の別れの言葉になるとしたら、あんまりにあんまりな話ではないだろうか?
鈍竜の手綱を握り締める。
レイラの手は、貴族らしい絹の手袋の覆われていた。
「私の手を包むのが綿の手袋でないのは、絹しかないから。貴族であるのは、立派だからではなくたまたま生まれついたから。血のしがらみを捨ててしまったあの方に、意地を張って高慢にふるまっていたのですもの。相手にされなくて当然だったわ」
レイラは涙を拭いた。
――彼は信じているのだ。
レイラという女性は、貴族の地位と贅沢と高貴な血筋がなければ生きてはいけないと。エーデムの守られた地でしか生きられないと。
だから、笑顔でおめでとうを言えるのだ。
あんなに平然と。
彼の信念を砕くには、レイラは行動で示さなければならない。
いくらベルヴィン家の称号をちらつかせてみても、豊かな日々を想像させてみても、金を積んでみても、セラファンを捕まえることはできない。
そのようなことでは、もう彼に追いつくこともできないのだ。
だって……彼は、エーデム王子という地位を捨てて、風になったのだから。
だから……私もすべてを捨てて風にならなくちゃ。
「行かせてください。王妃様。すべてを捨てて行かなければ、私の心をあの方にお見せすることはできません」
王妃は首を横にふった。
「すべてを捨てたら、あなたは死ぬかもしれないのよ? セラファン様がそれを望むと思って?」
「でも、ここに留まって貴族らしい結婚をしても、きっと私は死んでしまいます! セラファン様を愛していますもの!」
王妃は、もう何も言わなかった。
ただ、その場に立ち尽くしていた。
レイラが去っていったあと、王妃は城への道を歩いていた。
王妃の知っているレイラは、気位の高いお嬢様で、いつでも明るく元気一杯だった。
しかし、時々気がつかないうちに王妃を見下すこともあった。悪気はないのだろうけれど、貴族として当然知っているべきことを知らない時などは、びっくりした顔を素直にされてしまう。
『もっと王妃様らしく毅然とふるまってくださいませ』
とレイラはいうが、彼女の態度が王妃をますます萎縮させることも多かった。
――貴族には、平民を理解できないところがある……。
平民上がりの王妃は、時々そう思う。
レイラはまったく籠の中のお姫様だ。 どこまで自分の行動を理解しているのか、わかったものではない。
セラファンを愛しているという気持ち……。
その一心だけですべてが収まるほど、世の中は甘くはない。
レイラの気持ちがあまりにも痛くて、もうそれ以上説得することができなかったけれど、やはり止めるべきだったのでは? と不安になる。
しかも、あの装備で不慣れな旅に送り出したのは、やはり無謀だったかもしれない。
でも、きっと今発たせないと、彼女の父親やエーデム王の反対にあい、二度と旅立つことはできないであろう。
同じく身分違いの恋に苦しんだ身としては、レイラを旅立たすしかなかったのだ。
林を抜けたところで、エーデム王の姿を見つけて、王妃はこらえきれずに泣き出してしまった。
「申し訳ありません。すべてをお任せしていただきながら、どうしてもあの方をお止めすることができませんでした。私……」
エーデム王は、かつて結婚の話が出ていたレイラのことを常に気にしていた。愛を貫くことで傷つけてしまったが、レイラは妹のような存在なのだから。
いつの間にか朝日が差し込んでいる。
光を浴びて輝く王の表情に、微笑みすら浮かんでいて、王妃は思わず胸の中に飛び込んでいた。
王は王妃の金色の髪を優しく撫でた。それは彼の癖でもあった。
「あなたにお任せしてよかった。きっとそれが正しい判断です。私ならば無理矢理押さえつけて、けして行かせはしませんでしたから」
そういうと、王は空を見上げた。
雲は赤く染まり、空は水色に冴え渡る。
その中を一羽のムンク鳥が滑空した。それは、王の言葉を伝える伝書そのものである。
鳥は上空で一度円を描くと、北の空を目指し飛んでいった。
さて……。
その朝の騒動といえば、いつもは温和で知られるベルヴィンが会議に遅刻したうえ、さらに卒倒してしまったことだろう。
隠密にレイラを探す予定だったらしいが、結婚を嫌って家出した娘の話題は一気に広がってしまい、ルーテル公が顔をしかめる有様だった。
彼に詫びる前に寝込んでしまったとは、ベルヴィンのような男でも礼儀を欠かすこともあるのかと、同情すら誘ったのだった。
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