第5話
朝、まだ日も上がらない。
石畳の道に影も落ちない。だが、靴音は響く。
レイラは、濃紺の絹のマントを羽織り、手袋をはめていた。靴はしっかりとしたブーツであるが、貴族らしい花飾りがついている。
その靴底が響くのだ。レイラはため息をついた。
違う靴にすればよかったと思ったが、もう遅い。花飾りが好きでこちらにしてしまったのだ。
レイラが連れている鈍竜には、彼女が考えうる限りの旅支度でたくさんの荷物が積まれていた。盛り上がり、落ちそうである。
鈍竜にしては小ぶりな相棒だが、レイラからみると小山のようである。
その巨大さにはまだ慣れなくて怖いのだけど、目の離れた間の抜けた顔にはかなり慣れた。
レイラはできるだけ静かに歩き、相棒の鈍竜にも、
「静かにね」
と、話しかけた。
エーデム族が使える心話である。それを理解したのか、わからないのか、竜は、
「ぶひひっ」
と返事をした。
音もそれなりに大きかったのだが、それよりも飛び散った鼻水に、レイラは思わず目をつぶり、げっそりした。
鈍竜はおっとりとした優しい生き物だ。
心話で話せば言うことを聞いてくれる優しい竜だが、レイラはこの生き物を扱ったことがない。
しかも、エーデム貴族とはいえ、女性であるレイラの心話など、どこまで竜に通じているのやら判らなかった。エーデム人の心話の力は、女性にはあまり強く出せないのである。
小さな鞄の中から絹のハンカチを取り出すと、レイラは顔や髪にこびりついた鈍竜の鼻水をふき取った。
「あーあ、マントにシミができちゃったわ……」
レイラはがっかりした。
エーデムの首都イズーは、まるで扇を広げたような形をした都市である。要の部分にイズー城があり、城下町が広がっている。
堅固な城壁を見ただけで、レイラほどの教育を受けた者ならば、この国が常に平和であったことを疑うだろう。だが、レイラにとっては、ここは鳥篭にも似た平和なまどろみの国だった。
このイズーを抜け出すとしたら、一番外側の城壁にある三つの門から外に出るか、貴族の者にしか知られていない城の横にある小さな門から外に出るかしかない。
でっち上げた通行証をもう一度確認し、レイラはうなずいた。
多少怪しいが、今は鎖国令のおかげで国境は混乱している。怠惰な役人など問題はないだろう。
もう一度確認したのは、決心のほどを自分で確かめるためだった。
レイラは鈍竜を引きながら、城の横にある門を目指していた。
城に近いのはそれだけ警備が厳しいと思われがちだ。だが、平和な時代にあって一番堕落しているのが城の警備兵である。
だから迷わずこの門を選んだ。と、いいたいが、実は貴族であるベルヴィンの邸宅から一番近い出口だった。
イズーの城下町は迷路のように複雑だ。街歩きしたことのない貴族のレイラには、他の門を選ぶ選択肢はなかった。警備兵が怠慢で、レイラは運が良かったのだ。
門までの道は、不気味だった。
昼間は憩いの場となる林や小川であるが、夜明け前となれば、レイラの不安と恐怖を駆り立てるには充分だった。
木々は揺れて月影を落とし、小川は怪しげな囁きをかもしだす。鈍竜の足も、レイラの恐れを敏感に受け止めて遅れがちになった。
どうにか門の近くまできた時、レイラは後ろを振り向いた。
「ごめんなさい。お父様……」
自分で家出を決めたとはいえ、父一人娘一人の家族だった。
家は、常に女中や家庭教師など人が出入りして賑やかだったが、肉親は父だけ。
その父親を捨ててきた。
後ろめたさがないと言えば嘘になる。
それに、甘やかされ、わがままに育てられたレイラにとって、外の世界は未知なる世界。想像もつかない恐ろしい世界だった。
だいたい、平民が住むイズーの街さえ、レイラはほとんど歩いたことがない。それが、無法地帯であるリューマの地まで行こうというのだから。
だから、悩んだ。
悩んで悩んで、食事も喉が通らないほどに。
――私は間違っているのかしら?
レイラは何度も自分に問いかけ、何度も決まりかけた心を白紙に戻した。
我が身を知れ――
己を知り、己の枠を越えないことこそ、エーデム貴族には美徳とされた生き方なのだ。レイラは、エーデムの美徳と自分の恋心の狭間で葛藤を繰り返してきた。
でも、後悔はしたくない。
もう悩む時間は許されていなかった。
エーデム王が発令した『鎖国』が実施されてしまったら、レイラは二度とエーデムから出て行くことはできない。
リューマの地にいるセラファンだって、もう二度とエーデムに戻れないかもしれない。
つまり、二度と、セラファンとは会えなくなるのだ。
レイラは気合を入れなおした。
「もう、今しか出て行くことはできないのよ」
「でも……戻ってくることもできません」
林の影から声がして、レイラは跳び上がらんばかりに驚いた。
「王妃様!」
鈍竜がぐりゅ……と声をあげた。
「レイラ様、お戻りくださいませ。外の世界は、あなたが暮らせるような世界ではございません。あなたは平民とですら接したことのない高貴なお方、とても無理でございます」
林から歩み出て、王妃は門の前に立ちはだかった。
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