第2話


 ――しばしの時間。


 二人は銀薔薇の陰で、体を寄せて潜んでいた。

 口元をしっかり押さえられたまま。

 これでは、背後から抱かれているような密着度である。

 甘い香りは、彼の髪に絡み付いてレイラに引き裂かれた薔薇のせい。

 心臓が激しく打って、それを知られるのがまた嫌だった。

 だいたいレイラのような尊い姫が、なぜ、下賎でみすぼらしい歌うたいに抱きつかれなければいけないのだろう? 腹が立った。


 肘打ちを三発。

 確実に胸に入ったと思うのだけど、相手は動じない。

 今度は足。

 高いヒールのかかとの部分で、三回踏みつけてやった。彼は少しだけひるんだが、レイラを離そうとはしなかった。

 打つ手がなくなって、レイラはもごもごと口を動かした。思い切り指先を噛んでやろうか……と、試みた。

 でも、耳元で囁かれて――耳が一気に熱くなった。

「ごめんね。少しだけ、大人しくしてくれないかな?」

 歌を生業なりわいとするだけあって、あまりに甘い声だった。


 やがて人の声がした。

 かなり黄色くて甲高い声だった。

「セラファン様! セラファン様! どこですか?」

 その名を聞いて、レイラは目を丸くした。

「セラファン様ぁー!」

 銀薔薇の向うを何人かの女性が、きょろきょろしながら去ってゆく。

 その姿が消え去ったとき、少年の手がやっと緩んだ。

「……あ、あなた? セラファン・エーデム?」

 手を払いのけながらも、レイラは疑わしく少年を見た。

 彼はにこにこ微笑みながら、首を横にふった。

「いいえ、私は歌うたいのメルロイといいます。姫君」

 彼はまるで王子のように胸に手を当てて、姫に礼を尽くしたのだ。


 セラファン・エーデムの伝説並みの話は、よく知っていた。

 さすらいの王子――もしくは、歌うたいのメルロイ。

 レイラが誇りとするところの血筋。それをあっけなく捨てた王子なのである。王位第一継承者でありながら。

 貴族の間では大ばか者とも、いや、素晴らしい自由人だとも言われている。

 本来であれば、今のエーデム王はこのセラファンであったはずだ。彼が地位を捨てて旅立たなければ……。

 そうであれば、レイラの婚約者もこの少年になっていたかも? と思って、レイラはますます恥ずかしくなった。

 いずれにしても、本当にこの少年がエーデム王子であれば、レイラのほうが礼を示すべき相手であった。いくら地位を捨てたからといって、かりにも王子なのである。

 だが、会ったのはその日がはじめてであり、すぐにその人と知ったわけではない。


 その結果、足を踏んだり、肘打ちしたり、おまけに指に噛み付こうとしたり……。


 あまりの無礼の数々に、レイラは体裁ていさいの整えようがなくなった。

 しかも『乞食同然の嫌なヤツ!』という顔をもろに見せてしまった。今更エーデム貴族として、うやうやしく挨拶するのもわざとらしい。だからと言って、今の態度を継続し続けるわけにもいかない。

 謝りたいのだけど、謝るには自尊心が高すぎた。


 ――ど、ど、どうすればいいのよ!


 あらん限りの恥逃れを考えて、レイラは無知を装った。世を捨てた王子のことなど、知らなかったことにしよう……と。

 レイラは低めの鼻をつんとあげ、

「無礼な人ね」

 と一言だけ言った。

 彼は微笑んで、

「ごめんなさい」

 と、やはり一言だけ謝った。

 さすらいの王子のほうは、レイラのおとぼけをすっかり見抜いているらしい。しかもレイラのおとぼけにあわせてくれたのだ。微笑みがすべてを物語っている。

「わ、わ、わかればよろしくてよ」

 茹で上がるほど顔を真っ赤にして、それでも姫としての威厳を保って、レイラはその場を後にしたのだった。




 その日、レイラは真っ赤な顔をしながら、結婚の祝賀会に参加し続けた。無理に社交辞令の笑顔を作りながら……。

 だが、夕の宴で流れるリュタンの音に、つい感極まってしまった。


 ――禁じられた恋を成就させた恋人たちの歌。


 時に優しく、時に切なく……。やや鼻にかかった柔らかい声が、リュタンの音に乗って物語を奏でる。

 歌い手は、自らが主役にならないように、木陰か木の上でそっと演奏しているらしい。姿は見えない。

 だが、この声だけで、充分に主役になってしまった。

 誰もが歌に入り込み、食事の手を休めた。

 レイラは思わず涙が出てしまい、ハンカチで目頭を押さえてしまった。

 この歌に歌われている恋は、王と王妃のものである。

 ひたすら相手を思いやる純愛の間に、レイラの入る余地はなかった。

 所詮は血筋のよさで決められた婚約――失恋は当然である。初めからレイラはこの恋物語の主人公ではなかったのだ。

 ぐすん……と鼻をすすると、その横でレイラの父も泣いていた。よくよく見ると、周りの人たちすべてが歌に涙を流していた。


 ――身分違いの恋。


 内心、この結婚によく思わないものも多かった。だが、この歌の前では、誰もが王と王妃の恋の成就じょうじゅを心から祝うだろう。

 そして、レイラも、やっと吹っ切れたのだった。レイラは幸せそうな王と王妃の姿を見つめた。

 心から祝福しよう、と思った。そして……。


 ――いつか私も、誰かが歌にするような、素敵な恋を今度こそしてみたい――


 うっとりとしているレイラの横で、父のベルヴィンはチーンと鼻をかんだ。

「ああ、本当に……セラファン様は素晴らしい歌い手でもあられるのう」

「え? セラファン様? こ、この歌って……」

「おや? レイラ、おまえはセラファン様の歌を聞くのははじめてかい?」

 レイラの感涙は一気に止まり、変わりに目から火が出そうになった。

 素敵な恋への憧れと昼間の銀薔薇の陰の出来事が、頭の中で巡り巡って噴火しそうである。

 身なりは粗末だったけれど、歌うたいの笑顔は上等だった。

 抱きしめられた――いや、正確には押さえつけられていたのだが――あの時の感覚。耳元で囁く声。今更ながらに心臓がドキドキする。

 この『愛の歌』を歌っている歌うたいこそ、メルロイ――つまり、セラファン・エーデム。


 ――この歌の主人公にしてもらえたら……。


 などとバカなことを考えてしまい、レイラは恥ずかしくなった。セラファンと二度と顔を合わせられないと思った。

 しかし、その心配は無用だった。

 彼は歌が終わった後、人々の拍手の中、風のように姿を消してしまったのだ。黄色い声を上げるご婦人たちを、ものの見事にまいてしまいつつ。

 悔しがりハンカチを噛み締めて泣く女性たちに混じりながらも、レイラもなぜか、悲しくなってしまった。

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