フィロルは、ノブを握ったまま、口をぽかんと開けた。

 少女は、ドアを開けたフィロルの顔を、少し高い視点から、じっと見つめた。

 葬式に来る人のような格好だった。

 タフタ生地らしい、真っ黒な服。キトンに似た、同色の長衣。その襟の辺りに見える、黒い数珠飾り。

 右手には、古びたトランクを提げている。

 硬直状態で口を開けているフィロルの前で、少女は、腰を折ると、深深とお辞儀をした。

 それから、色素の薄い顔を上げ、

「こんにちは」

 と、挨拶した。

「どっ……どうも…」

 胡乱な返事を返しながら、フィロルは、ぼんやりと、村長の、あの人形の容貌を思い浮かべていた。

 目の前に立つ少女の妙に整った顔は、あそこまで幼くはないにせよ、無機物の面立ちを想起させるに充分だった。

 見つめていると、少女は言った。

「…ここにいるのは、あなただけですか」

 ぽかんとしたまま、フィロルが頷くと、少女は、

「そうですか……」

 と言って、部屋の中へと入ってきた。

 フィロルはただ、訳もわからず口をぱくぱくさせた。そして、

「扉を閉めて、こちらへ」

 という少女の言うがまま、後ろ手に戸を閉め、社屋の中へ戻った。

 すると、少女は、応接用のテーブルを指差して、尋ねた。

「お借りして、よろしいですか」

 まだ混乱しているフィロルは、やはり、わからないまま頷いてしまった。少女は、ありがとうございます、と、丁寧に礼を述べると、テーブルの上にトランクを置き、中身を出し始めた。

「あ、え、ちょ…」

 そこでようやく、フィロルは我に帰った。てきぱきと手を動かしている少女のそばに寄り、

「……ど、どちらさまですか」

 慌てて問うた。

 少女は人形のような顔を上げると、きょとんとした表情をした。それから、

「ああ、すみません」

 そう言って、もう一度、フィロルに向き直った。

「……こちらは、クローシェ村……でよろしいんですよね?」

「あ、はい……」

 フィロルは頷いた。確かに、村の名前は、クローシェといった。

 すると少女は、おもむろに、懐から一枚のカードを取り出して、フィロルに手渡した。

「あっ。こ、これ………」

 フィロルは思わず、声を上げてしまった。

 深紅色の金属でできたそのカードは、フィロルの手に渡ったとたん、色褪せて鼠色になり、幾列かの機械文字と幾何学円が刻印された表面が現れたのだ。

 少女は、文字列を目で追うフィロルを確認してから、また、頭を下げた。

「〈ドーム〉特務執行部からの派遣です。失礼しました」

「…特執部……〈ドーム〉の……つまり、 抹消者ブランカーの人……?」

 フィロルは少女の顔と、中央政府の認証が捺されたカードを交互に見比べながら、信じられない気持ちで問うた。

「はい、そうです」

 少女は事も無げに頷いて、

「執行員識別番号 X#199 、名はシスカ=ブランケット」

 よどみない口調で、名乗った。

 フィロルはカードを返しながら、その顔を、改めて見つめなおした。

 断片的ながら話に聞いていた、抹消者―― Sign 対抗兵器を扱いて変異体を狩り、発症源を消し去る特殊執行員――のイメージと、目の前に立つ華奢な少女の姿とは、あまりにかけ離れ過ぎていて、容易には重ね合わせることができなかった。

 しかし、鈍く光る、白銀の幾何学円――円蓋ドームを表す偽造不可能なシンボル――と、そして何より、シスカの手の中で血のような紅を取り戻していくカードの色が、彼女が〈ドーム〉の人員であることを証明していた。

 どうしても信じ難いが、信じる他ない。

 この、細い体を黒一色の着衣に包んだ、いかにも 果敢なげな少女は 、確かに、フィロルたちがずっと呼び続けて、待ち望んだ、抹消者らしい。

 フィロルは突っ立ったまま、しばらく、作業に準ずるシスカを凝視していた。

「抹消者、だって……?」

 目の前の現状が理解できるようになって、ようやく、激しい怒りが、胸の内に湧き上がってきた。

 ――――まさか、今さら。

 ……今さら、現れるなんて。壊れ切って、誰もいなくなってしまったこの村に………抹消者が、今になって。

 怒りは急速に膨れ上がり、そして、弾けた。

「ど…どうして!!」

 フィロルは、遅れて来た抹消者に向かって、叫んだ。

「どうして……もっと早く来てくれなかったんだ!あんなに何回も、何回も呼んだのに!」

 膨れ上がった感情が喉を突く。

「今ごろのこのこやって来たって、もう遅いのに!!みんな、いなくなった!この村を見限って、出て行ってしまったんだ!もう……もう……手遅れなんだよ!!なのに、なんで、今さら……」

 絞り出した声は、後ろの方がかすれて、詰まってしまった。

 シスカは、驚いたような顔になって見ている。その表情が、いっそう、フィロルを逆上させた。そして、ぐちゃぐちゃになった頭の中に、暗い目をした村人達や、悲しそうに笑う村長、門柱にもたれてぼろぼろと涙を流すユリ、色々な顔が次々浮かんできて、気がつくとフィロルは、シスカの肩を掴んで、強く揺すぶっていた。

「何とか言えよッ!!き、君たちの……君たちのせいなんだぞ…村がこんなになったのは……ずっと前から、必死に助けを求めてた僕たちの声を無視して、何も、何も、してくれなかった君たちのッ……!!」

 語尾は、やはり、小さくなって消えていった。両目からは、押さえていた熱いものが、どんどん溢れ出していた。

 シスカは、そんなフィロルの激情に、しばらくされるがまま揺さぶられていたが、やがてゆっくりと顔を向け直すと、

「……どういう、ことでしょうか」

 静かな声で、尋ねた。

 フィロルは、また、頭に血が昇るのを感じた。

 ――――どういうことか、だって?――――。

「しらばっくれるのか」

 シスカを引き寄せて、怒鳴る。

「一ヶ月前なんだ!発症したのは!皆感染していって、たくさんの人が死んだ!だから僕たちは、すぐに助けを求めたんだ!〈ドーム〉に……君たちに……だけど、いくら待っても、駄目だった!!」

「待ってください」

「うるさいっ!!」

 フィロルはシスカを突き飛ばした。シスカはよろめいて、後じさった。

 ただ一つの居場所を壊された――その悲しさと悔しさは、抗いようのない Sign を通り越して、救いを与えてくれなかった〈ドーム〉へと向けられ、そして今、目の前の少女という具体的な対象を得たことで、フィロルの中で、凶暴な憎悪の感情となって渦巻いていた。

「……許さない……!!」

 フィロルは、両拳を握り締め、シスカを睨みつけた。喉の奥からは、さらなる罵倒、罵声が湧き上がってきていた。

 しかし、シスカは、そんなフィロルをじっと見つめると、

「…派遣要請を何度か行ったと、仰いましたが……」

 ぽつりと言った。

「それが何だ!」

「……それは…何かの、間違いでは」

「…え?」

 フィロルは虚を突かれて、思わず問い返した。

 シスカは少し躊躇するようにしてから、続けた。

「こちらからの、執行員派遣要請は、一度も出されていません」

「嘘だ!!」

 フィロルは叫んだ。しかし、シスカは、

「虚偽では……ありません」

 まっすぐに、フィロルを見て、言った。

「クローシェ村から〈ドーム〉へは、派遣要請はおろか、 Sign 発症の連絡すら、入っては…」

「嘘だ!!」

 シスカの言葉を遮って、フィロルは、もう一度叫んだ。

 ――――突然、何を言い出すんだ、こいつ。

 あまりに唐突な話だった。

 ――――僕たちは確かに、〈ドーム〉ヘ向けて、何度も連絡信号を送った。それを、連絡自体が無いだって?

 信じられるわけが無かった。

「嘘つくんならっ…もっとマシな嘘考えろよ!」

 土壇場で、責任逃れをしようとしている、と思った。

「……だいたい、それが本当なら、なんで、君はここへやってきたんだ!連絡がなかったなら、ずっと、誰も来ないまま…そうじゃないか!」

 しかし、フィロルの言葉にも、シスカは、表情を崩さずに、

「……三日前、偶然この近隣を通りかかった住民の方から、変異体を目撃したという情報が寄せられたのです。〈ドーム〉は、最寄りの観測地点へ調査員を送り、変異体の存在を確認した上で、シスカを派遣しました。ですから、 Sign 発症に関する、この村自体からの連絡は一度もないのです。そして、そのために、尚一層、事態の深刻さが危惧されて……」

「…っ…嘘だ!」

「……このことは、こちらの端末から、連絡履歴を呼び出していただければ、確認できると思うのですが……」

「う、嘘だっ……黙れよっ、この、大嘘つき!」

 諭すようなシスカの説明を振り切って、フィロルは罵声を浴びせた。

「信じない!信じないぞ!お前の言うことなんか……っ!!」

 やはり、信じられなかった。連絡がなされていなかったなど。そんな馬鹿なことが、有り得るはずはなかった。

 フィロルは、村長が連絡装置に向かい、懸命に救援信号を打つ姿を、何度も見ている。その結果、節ばった指にできたいくつもの肉刺も。そして、助けを待って必死に祈る、村人達の姿も。

 信じない、信じないと繰り返すフィロルに、シスカは、

「……信じていただけなくても、構いません」

 静かに言った。

「……もしかしたら……いえ、おそらく、今のお話を聞く限り……情報伝達の段階で、何かの手違いがあったのでしょう。そうとしか考えられません」

「………」

「ですが、シスカは……残された村の人たちを――つまり、あなたがたを――助けるために参じたのです。一刻も早く、事態を収拾できるよう努力します。ですから、お願いします。今はとにかく、協力を……」

「黙れ!もう無駄だって、言ってるだろっ!!」

 フィロルは壁を殴った。

 そう、何にせよ、もう、何もかもが無駄なのだ―――拳の痛みと共に、フィロルは考えた。今さら発症源が消えたところで、村はもう元には戻らない。もう、誰も居ないのだ。ここは、フィロルの大切な場所には、戻らない―――。

「もう……無駄……」

 諦めていたことのはずなのに、そうやって、改めて口に出すと、恐ろしいほどの空虚感と絶望が襲いかかって来て、フィロルの胸は押し潰されそうになった。じわり、と目が熱くなって、また涙がにじみ出てくるのを感じた。

「……ぐっ……」

 体の力が抜けてしまい、フィロルは膝を折った。

 ――――結局、罰だ。分不相応な幸せを望んだ僕への――――。

「危ない!」

 突然、シスカの鋭い声が飛んだ。同時に、フィロルの後ろで破砕音が響いた。

 はっとして振りかえると、背後の壁が変色して崩れ、そこから、真っ白な腕が突き出ていた。腕は、めきめきと音を立てて指を蠢かせ、中に入ってこようとしている。

 ――〈盾〉を越えて来た、変異体だ。

 フィロルはすぐに理解したが、体が、いつものようには動かなかった。むしろ、ようやくか、という気分だった。

 ――――元は村の誰かなんだ。

 伸びてくる白い腕を眺めながら、フィロルは全身の力を抜いた。

 しかし―――顔の十数センチ前で、変異体の腕は止まった。

 瞬き一回のうちに、氷か、水晶のようなものが、腕を薄く覆っていた。そして、フィロルの目の前で、それは急速に透明度を上げていき、同時に閉じ込められた腕も透き通っていって、やがてジュウと音を立てると、わずかな淡い煌きを残して、空気に溶け込むように消えてしまった。

 ぎいいいいいいいいっ、という、おぞましい悲鳴が上がった。崩れた壁の向こうに、右腕を肘の先から失って、のたうつ変異体の姿が見えた。

 フィロルが呆然としていると、肩を、細い手が掴んだ。

「囲まれています……ここから、出なくては」

 シスカだった。いつのまにかフィロルのすぐそばへ来て、変異体を見つめている――その瞳の色は、あのカードと同じ、血のような深い紅に変わっていた。

 促されて立ち上がったフィロルを、シスカはぐい、と抱き寄せた。そして、フィロルの口に自分の手をあてがって、言った。

「舌を噛まないよう注意して。耳も、塞いでください」

 そうしておいて、シスカは、何事かを呟き始めた。

 フィロルは言われるまま両耳を手で押さえたが、シスカの唇から洩れる羽音のようなノイズは、押さえた頭の中に食い込んでくるようだった。フィロルは、歯を食いしばった。

 そして、足元が急に熱くなってきたように感じた次の瞬間、フィロルは、シスカが舌を噛むなと言った意味を理解した。爆発音と共に、シスカが床を蹴ったのだ。

 その跳躍力は凄まじく、フィロルを抱えたままで、シスカは屋根を突き破った――――いや、ぶつかる前に、爆音と共に屋根が吹き飛んだので、そこを通り抜けたという方が正しい。

 あっという間に、二人は、屋根から、上空へと脱出した。

 上から見下ろした社屋は、数十体もの白の異形の群れによって包囲されていた。〈盾〉は完全に消滅したようだった。障害の無くなった変異体達は、建物を腐らせて中に入ろうと押し寄せ、ひしめいている。

 再び爆音がして、シスカは横へ飛んだ。

「ひとまず、あそこへ下ります――」

 指差したのは広場だった。

 三度目の爆音と共に、フィロルを抱えたシスカは、黒ずんだ地面の上へ着地した。

 フィロルはシスカから離れると、へたへたと地面に倒れこんだ。心臓がまだ激しく打っていて、動悸は不安定だった。

 胸を押さえるフィロルに、上からシスカの声が降ってきた。

「いきなり、失礼しました……ああするしか方法がなかったものですから」

「……い……今の――――」

 顔を上げ、言おうとしたフィロルは、その言葉を途中で呑みこんだ。

 一見、赤い目以外はそのままの姿に見えたシスカだが、よく見れば体が奇妙に変形していた。両肩の後ろと、両足。そこから、白熱する光輪を纏った突起がいくつも生え出ている。生体か機械かも判別し難い、ひどく歪な突起が。

 唖然とするフィロルの前で、やがて光輪は薄れて消え、突起も、すぐに萎縮して体へ吸いこまれてしまった。

 フィロルは、いいかげん混乱しきった頭で、かろうじて聞いた。

「…そ、れ……いったい……」

「 Signへの『対抗兵器』です。シスカたちの用いる兵器に関してはご存知でしょう」

 周囲を警戒しているらしく、深紅色の目のままで、シスカは言った。

「さ、 Sign 対抗兵器……?抹消者の……?」

 フィロルは、まじまじとシスカの姿を見た。シスカは、頷いた。

「…今のが……」

 フィロルのイメージとはかなり異なっていた。抹消者は、特殊加工された武器のようなものを携えているのだとばかり思っていた。しかし、シスカの「兵器」は、体から直接生えている――いや、体そのものが変化しているように見えた。これでは、まるで――――――。

「まるで……変異体…じゃないか………」

 フィロルは、へたりこんだまま呟き、少し後じさった。 目の前の少女のことが、急に不気味に思えてきた。

 そんなフィロルを見て、シスカは言った。

「……通常の執行員は、このような姿ではありません。独立した武器としてのツールを持っています。シスカが、特殊なだけです」

 特殊、などと言われても、そうそう納得できることではない。あれは、変異体の――化け物の姿に近かった。

 フィロルは、黙り込み、じっと睨むようにして、シスカを見上げた。

 するとシスカは、フィロルの視線をまっすぐに受けとめた後、少し、顔をうつむけた。

 フィロルははっとした。なぜか、胸が苦しくなった。

 ――――罪悪感?いや、そんな必要はないはずだ。僕たちを見捨てた奴なんだ。罪悪感なんて、感じる必要はない――――。

 慌てて、自分に言い聞かせたが、それでも、焼き付いた感覚は消えず、思わず、睨んでいた目を伏せてしまった。

 すると、それを怯えていると取ったのか、シスカは黒服の胸に手を当てて、言った。

「心配しないで下さい。シスカの兵器による危険は、ありません……〈ドーム〉の名において保証します。お気になさらずと言っても、困難なことでしょうが……どうか、少しの間だけ、ご辛抱下さい」

 そして、もう一度、深く頭を下げた。

 フィロルは、さっきまでのように言い返すこともできず、ただ、黙っていた。

 ざわざわ―――ざわざわ―――沈黙を埋めるように、彼方から、歪み果てた木々の騒ぐ音が聞こえてくる。まるで嘲笑うかのごとく。呻き声をあげるかのごとく。

 聞くともなしにその音を聞いて――――それからふと、フィロルは、シスカが、少し向こうにころがっていたトランクを持って来るのに気づいた。

 シスカは、トランクを足元に下ろすと、中から何かを引っ張り出した。

 半球形の機械だった。下部からはコードが伸びて、プリズムのようなものに繋がっている。

「……これは、小型の、〈盾〉発生装置です。持続時間は一、二時間程度ですが……そのかわり、耐久力、強度は、村に配布されているものよりも高いです」

 シスカは説明し、機械を、フィロルの前に置いた。そして、また、まっすぐにフィロルを見た。フィロルは目をそらそうとしたが、シスカは、いきなり、その細い手でしっかりとフィロルの顔を押さえ、前を向かせた。

 そして、ずい、と、顔を近づけた。

「うわ……」

 フィロルは、顔が赤くなるのを感じた。しかし、シスカは構わずに、

「変異体が、ここに集まってきます」

 言い聞かせる口調で、言った。

「〈盾〉の中にいてください。 その間に、 シスカが、やって来る彼らを迎撃します」

「……迎撃?」

 フィロルが聞き返すと、シスカは、少し言いよどむようにして、答えた。

「数を…減らすのです。変異体は、少数になると、発症源の元へ向かう性質があります。それを利用して、発症源を特定するのです」

「特定って……逃げるあいつらを、追っかけて、ってこと?」

「はい」

「なんで、わざわざ、ここで?」

「その問いは最もです。しかし、離れた場所で戦闘を行っていては、あなたの様子がわかりません」

「………」

「変異体がシスカとあなたの二方向に分散する恐れもあります。結果的に、危険性が増します」

「……気にしなくていいよ、僕のことなんか」

 フィロルは、そっぽを向いた。しかしシスカは、

「助けたいのです、あなたを」

 きっぱりと言った。フィロルはますますしゃにむになって、

「だから、いいよ、もう!」

 しかしシスカの視線は変わらなかった。

「いいえ。助けます」

「無駄だって言ってるだろ!」

「助けます」

 フィロルは、シスカの手を振り払い、叫んだ。

「なんだよ!本人が、もういいって言ってるんじゃないか!」

 しかしシスカは、振り払われた手で、またフィロルの手をとった。

「助けます、必ず」

「……ッ……」

 結局、フィロルは言葉に詰まってしまった。目の前の少女の、真摯な瞳を見ていると――ぶつけたいはずの罵詈雑言が、口から出ない。悔しいのに、恨んでいるのに、どう振舞えばいいのか、わからなくなってくる。

「変異体が来ます。〈盾〉の起動を」

 困惑するフィロルをよそに、シスカはそう言って、機械の側面に手を当てた。

 ぶううん、じじじ、と、音がして、プリズムが発光し始めた。やがて、そこから、村のものよりも鮮やかな玉虫色の波が放たれ、あっという間にフィロルの上を覆い、地面を滑って、ドーム状の障壁を形作った。抗議の声を上げる暇もなかった。

 フィロルが完全に〈盾〉に包まれたのを確認し、シスカは、建物の方へと向き直った。

 そこには――――すでに、変異体たちの姿があった。相変わらず、少しも変わらない顔で、体だけを苦しげに捩じらせている。

 シスカは、それら白い異形の群れを眺めて、小さく息をついてから、胸の前で両手を組み合わせた。

 そして、紅の眼を閉じて――――祈り始めた。

〈盾〉越しに、フィロルは、シスカの唇から、静かに、一定のリズムを持った聖文――宗教者たちが、神の教えを説き、神に話しかけるために用いる言葉――が紡がれていくのを聞いた。それは、毎月村に来る様々な巡礼団と接していたフィロルにとっては、馴染み深い韻律だった。脳裏には、巡礼団の司教がいつも唱えていた台詞が浮かんできた。

 ――『祈りは救済の道。聖なる言葉を用いて、神の慈悲に縋りなさい』――。

 だから、フィロルは、〈盾〉の内側から言った。

「…やめて。祈ったって無駄だよ。今さら、そんなものが、何になるっていうんだ。神様なんかに願いをかけたところで、何も、元に戻らない…」

 しかしシスカは、目を閉じ、両手を組んだままで、言った。

「……神への懇願では、ありません」

「え?」

「――彼らへの――――」

 その言葉の語尾はそのまま、短い聖文の、最後の節となって紡がれた。

 フィロルは、前を見た。

 ゆっくりとした動きで、こちらに迫ってくる変異体。かつては村人だった化け物。 Sign に呑まれ、望まぬ変化を余儀なくされた異形たち。

「執行員は、彼らに救済を与えることは、出来ません」

 組んでいた手を解き、シスカは、ゆっくりと目を開けた。

「消し去り、終わらせるだけです。 Sign の連鎖と共に、そこにあったはずの、一人一人の心や、人生まで――。だから、せめて、彼らが本当は化け物などではないこと、一個の人であること、その事実だけでも、忘れないように―――誓いと戒めの意味で、祈らなければならないのです」

 紅蓮の眼で、まっすぐに変異体たちを見据えて、シスカは前に出た。

 ぎぎぎぎ、ぶしゅしゅしゅ。変異体たちが、整った顔を奇妙に歪ませ、四肢を蠕動させている。

 その姿に向かって、

「――ごめんなさい――」

 シスカが、静かに呟いた。

 そして、それが合図であったかのように。

 変異体たちのうち何体かが、一斉にシスカへ跳びかかった。捩じれた体を、ばねのように撓ませて。

「危ない!」

 思わず叫んだフィロルは――――華奢な抹消者の唇から、今度は、聖文ではなく、奇妙な不協和音が紡がれるのを聞いた。

 閃光が走った。

 悲鳴のような叫びが上がり、そして途中で途切れた。跳びかかった数体の変異体のものだった。

 社屋で見たあの氷が、異形たちを覆っていた。

 氷は、シスカの右腕から放たれたようだった。そして、その腕を見たフィロルは、また、言葉を失った。

 差し伸べられた右腕は、服ごと透き通って硝子のような外観を呈しており、さらには、手首に、翼――広げられた、一対の透明な翼――が生えている。

 氷はそこから、舞い散る羽根の形を取って放たれていた。

〈盾〉越しに見つめるフィロルの前で、氷に覆われた変異体たちは、社屋の時と同じように薄れ、じゅうという音と淡い煌きを残して、消滅した。氷からはみ出していたわずかな部分だけが、黒ずんで地面に落ちる。

 それを見て、周りの群れの中からさらに数体が、蠕動し体を捩じって跳びかかったが、再び走った閃光と共に、氷中のオブジェと化して転がった。

 残された変異体たちは、臆する様子も見せず、むしろ勢いがついたように、四方八方から跳びかかり始めた。

 シスカはその全てを、身を捻り、右手の翼を羽ばたかせて迎え撃った。

 白い異形が、黒服の少女へと殺到し、幾度も、幾度も、閃光が走った。そのたびに、シスカの足元には、変異体を閉じ込めた氷が転がり、そして、すぐに消えていった。

 やがて、ものの十分もたたないうちに――――あれほどひしめいていた変異体のほとんどが、シスカによって消滅させられていた。

 残り三体となった変異体は、シスカの言った通り、攻撃行動を止め、方向転換して、ゆっくりとした動きで、逃げ出した。

 シスカはいったん、〈盾〉の傍まで戻ってきた。発症源特定のためだ。逃げる変異体たちの姿を、じっと見つめている。

 ふと、フィロルは気づいた。

 シスカの透き通った頬に、細い、二筋の跡があることに。


 ――――泣いてた――のか。


『変異体が人であることを忘れてはならない』。

 その言葉が、もう一度、頭の中に響いてきて、フィロルの胸は、自分でも知らないうちに、また、苦しくなっていた。

 その苦しさを振り払おうと、フィロルは、逃げていく異形たちの方へ視線を移した。

 そして、別のことに気づいた。

「あっちは……」

 思わず呟く。脳裏に、光景がフラッシュバックする。

 ――一ヶ月前――蒸し暑い、よく晴れた日――突然響いた悲鳴――白い変異体――全ての始まり。

「……村内墓地……」

 間違い無かった。あの方角だ。

「墓地、ですか?」

 シスカが、滑稽なほど緩慢な変異体たちの逃走を見つめたまま、〈盾〉越しに聞き返した。

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