その病が確認されるようになったのは、わずか十数年前からである。

 発生の原因、経緯は不明。さらに、病原体、感染条件、この病を構成する要素のほとんどが、中央の学者たち総出で解析が行われたにもかかわらず、未だ判明しないままだ。

 わかっているのは、それが人の死体を根源として発症するということ、そして、生物・無生物に関わらず感染するということだけだった。

 世界は混乱に陥った。それは、従来の病とは全く異なる凶悪性を持っていた。

 感染したものが、奇怪な形状変化を余儀なくされるのである。無生物も大きく変形するが、特に生物は、変異後、即座に死亡するか――或は、自我を失い、発症源の虜(とりこ)となり、ただ発症源存続のために行動するようになる。変異後の形状は、奇怪なことに、発症源となった人間の生前の概念・精神に準ずる形を取る。だから、やがてこの病は、「徴候、しるし」を表す―― “Sign” と呼ばれるようになった。

 Sign は、まさに、狂気の病と呼ぶにふさわしかった。ある者は死者の呪いだと言い、ある者は空から飛来した新種のウイルスだと言い、またある者は奢り過ぎた人類に対する神の裁きが下されたのだと言った。

 しかし、結局のところ、そんなことはどうでもよかった。正体が何であれ、現に、病は各地で発生し、被害は拡大していったからだ。頻度自体はそれほどでもなかったが、一度の発症で、その周辺の生態系が壊滅に追いやられることがほとんどだった。

 せめて、発症条件がわかっていれば、心構えだけでもできるのだが、 Sign の発症は全くのアト・ランダムのようだった。『より強い情念を残して死んだ者が発症源となる』――『埋葬場所の気象条件が関係している』――『埋葬方法に原因がある』――――数年の間に様々な仮説が立てられたが全て覆され、結局人々は、病の影がいつもどこかに潜む中で、暮らすしかなかった。その不安は、 おこりとなって世界をも震わせ、混乱の中、当時の政府が一度倒れるという事態にまで発展した―――――。


 床の書類を眺めながら、村において教えられた、それら Sign に関する基礎知識を頭の中で回想し、同時にフィロルは、村で Sign が発症した時のことを思い返していた。

 ちょうど一ヶ月前の、蒸し暑い快晴の日。誰かが上げた悲鳴から、それは始まった。

 確か、村内墓地の方からだったように思う。フィロルはその時、村長の家で、本を読んでいたのだが、すさまじいその叫びに、思わずページをめくるのをやめ、窓の方を見た。村人達が何事かと話し合いながら、駆けていくのが見えた。

 そして、その後すぐに、続けて、たくさんの新しい悲鳴が起こった。

 フィロルは思わず窓際に駆け寄ったが、何が起こっているかを見ることはできなかった。そのうち、重なった幾筋もの声は、徐々に人のものとは思えないような、おぞましい響きへと変わっていった。

 思わず村長の方を見ると、村長は顔を強張らせ、フィロルに、ここにいろ、とだけ言い残して、出ていった。それからしばらくは、言われたとおりに待っていたフィロルだったが、いつまでたっても村長が戻ってこないので不安になり、外へ飛び出した。

 悲鳴の数は増しているようだった。フィロルは、墓地の方に向かって走った。そして――。

 初めて変異体を見たときのことを、フィロルは忘れることができない。

 パニックになって逃げ惑う村人達と、混乱を鎮めようと奮闘する村長の向こうに、それはいた。萎縮した家の陰から、半身を覗かせて。

 真っ白い――と、一番初めに思った。艶のある、どこか無機質な純白。明らかに人間の肌の色ではなかった。服は着ていないように見えたが、そうではなく、皮膚と一体化してしまっているのだった。そして、よく見ると、真っ白い全身の所々に、青黒い斑点のようなものが浮かんでいた。姿勢は醜く捻じくれ、四肢は奇妙な風に強張っていて、関節部分に継ぎ目ができていた。

 だが、フィロルが悲鳴を上げたのは、それらの顔を見た時だった。

 皆、一様に同じ顔だった。数体いる全部が。歪んだ姿の中で、そこだけ一点、貼りつけたように整った、しかし表情のない顔立ちが笑っていた。そして、顔は笑っているのに、それらは体をがくがくと震わせながら、搾り出すような呻き声を上げていた。

 その時フィロルは、目の前の生物を、元村人である変異体だなどとは考えなかった。ただ、化け物だ、と思った。知識はあったにもかかわらず、頭が無意識に否定していた。ありえない、こんなこと、起こるはずない、と。自分の知っている誰かがなった姿だとは、どうしても思えなかった。他の村人達も、おそらくそうだったのだろう。皆、半狂乱になって、石を投げ付けたり、罵声を浴びせかけたりしていた。

 そう、 Sign の存在を、各地で現在進行形で続くその被害を知っていたとしても、〈話〉として聞いているうちは、どこかのおとぎばなしのような、現実感のない災害に過ぎなかった。自分の生きる領域に、実際に現れてこないと、本当にその恐ろしさを認識することができない―――人間は、そういう生き物だ。

 事実、発症源を生む死体の埋葬場所である墓地は、居住区から一定以上離れた場所に置くことが勧告されていたが、フィロル達の村では、そんな余裕が無いこともあり、村内にあるままにしてあった。

 結局、村長が〈盾〉と呼ばれる、あの玉虫色の障壁を発生させて、皆を避難させるまでに、六人もの村人が犠牲になった。

 そしてようやく、村人達は、 Sign 発症を認識した。

 村長は狼狽しながらも、適切かつ迅速な処置をとった。中央政府からの支給品である〈盾〉は、しばらくの間 Sign の侵食を食い止めるが、変異体と接触するたびに磨り減る為、あまり長くはもたない。だから、すぐに、 Sign 発症時のマニュアル――今、フィロルの足元にある書類――の記述に従い、中央への救援要請を行った。すなわち、 Sign 対策機関〈ドーム〉への、連絡を。

〈ドーム〉――――。

 政府直属の機関であり、そして、現時点において唯一、 Sign に対する抑止力を擁している組織である。

 そこには、 Sign を源から消滅させる力を持つ兵器があり、そして、それを扱う人員がいる。だから、 Sign が発症した地域では、〈盾〉で病の侵食を防いでいる間に〈ドーム〉への派遣要請を行い、変異体及び発症源の抹消を行わせるのが常となっている。

〈ドーム〉という機関、そして対抗兵器は、前政府の崩壊後、幾多の思考錯誤の末誕生したものであるらしい。また、兵器の使用には多大な負担が伴うため、限られた人間にしか扱えないこと、さらに、中央においてしかそれらの制御ができないために、〈ドーム〉は政府直属の機関となっていることなどが公表されている。しかし、詳しい部分については謎が多く、ほとんど明らかにされていない。

 だが、 Sign と同じで、結局そのあたりはどうでもいいことだった。大事なことは、 Sign への対抗手段を持っている機関があるという、その一点である。それさえ確かならば、正体など二の次――だから、〈ドーム〉はまさに、この世界の救世主だった。

 それなのに。

 フィロルたちの村には、救いの手は差し伸べられなかった。

 村長は、社屋の机に向かい、懸命に、連絡装置のキーを打った。幾度も、幾度も打った。指に 肉刺まめができるまで。それなのに、いつまでたっても、救世主はおろか、〈ドーム〉からの返事さえも返ってこなかった。そうこうしている間にも、〈盾〉はじりじりと押され、どんどん村人は感染していき、生き残っていた者も、村を見捨てて次々と逃げ出し始めた。フィロルは、目の前で壊れていく自分の居場所を、ただ見つめている しかなかった。

 ――――なぜだ。

 ―――なぜ、私達だけ。

 ユリと別れ、村人達を見送って、ふらふらと社屋に帰って来たフィロルを見て、村長は力なく連絡装置に向き直り、そう洩らした。

 そして、救世主の来ないまま――村は、 Sign によって完全に包囲された。

 もはや、逃げ出すことを望もうが望むまいが関係無くなった。どの道、誰も出られない。百体近い変異体が、周囲を囲んでいるのだから。

 変異体の異常増殖について、村長は、墓地にあった他の多くの遺体が Sign に感染したのだろう、と言って、こんなことならば、財政を破綻させてでも、墓地と遺体を遠くへ移しておくのだった、と虚ろに笑った。

 その時も、フィロルはやはり、黙っているしかなかった。

 今も、こうやって、書類を前に回想することしかできない。壊れてしまった村の中で―――。


 ふと、どこか遠くで爆発音がした。


 フィロルは、顔を上げた。もしかすると、変異体によって、〈盾〉が破られたのかもしれなかった。しかし、反射的にモノクルに伸ばした手を、フィロルはそっと下ろした。来るべき時が来ただけだ、と思った。それに、もう、なるべく、変異体の姿は見たくなかった。おぞましく変貌してしまった村人達。彼らとは、社屋の中に雪崩れ込んでくるその時まで、対面の時を引き伸ばしたかった。

 フィロルはゆっくりと後ずさりして、壁に背をつけた。不思議に、怖くはなかった。ただ、少し寂しかった。

 ――――父さん。

 すぐ行くと言ったのに、あれから、来る様子を見せない。まさかもう、やられてしまったのか。

 ―――それとも―――。

 あの家の中で、最期の時を迎えようと考えたのかもしれない。娘の思い出が残る人形と共に。

 どっちにしろ、フィロルは一人だった。生まれた時と同じ、一人きりだった。

 ―――もしかしたら、これは罰なのだろうか。

 ふと、そんな風に思った。

 ―――僕が、本当の父さん母さんを置いて一人生き残って……そして、よそ者なのに拾われて、村の一員になりたがったから……だから、罰が当たったんだろうか。 Sign っていう形で……。

 そう考えると、涙などとっくに枯れたと思っていたのに、視界が滲んできた。目を拭う。

 そして、もう一度、天井に視線を戻した時―――――。

 こんこん―――。

 今度は、ノックの音だった。今の状況、雰囲気に似つかわしくない、突然で、そのくせどこか遠慮がちな響き。

 フィロルは、慌てて扉を見た。

 こんこん。

 確かに、外から誰かが扉を叩いている。

 村長か、と思った。だからフィロルは、すぐに扉に駆け寄ろうとした。しかし、途中で思い直した。村長なら、ノックなどせずに声をかけるはずでは――――。

 ――――変異体?

 こんこん。

 確かに、ノックは、一定の間隔を置いて、機械的に響いている。

 ――――でも、用心してるだけかもしれない。

 判断がつかなかった。村長かもしれないし、変異体かもしれない。だから、フィロルは、ちょっと考えて―――そして、サムターン錠に手をかけた。

 ――――どっちでもいい。

 もし変異体だったとしても、最期の時が、少しだけ早まるだけだ。

 指でつまみを回す。がちゃり、と音を立てて鍵が外れる。

 ノブを握る。フィロルは、ゆっくりと扉を開けた。

 しかし――――そこにいたのは、ねじくれた体に造られた笑みを貼りつけた、真っ白な変異体でも、背を丸め、疲れた顔にいくつもの皺を刻んだ村長でもなかった。

 戸口に、立っていたのは――――背の高い、黒服の少女だった。

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