曇天というにも濃過ぎる雲が、村の上に覆い被さっている。

 その下を、少年は――フィロルは、足早に歩いていた。

 辺りの空気が、消える寸前の蝋燭のようにじりじりと音を立て、揺らめいている。陽炎の類ではない。薄い玉虫色を帯びた透明な壁が、ある点を境にして、村を分断しているのである。

 フィロルは、ちらりと横目に、障壁を通した向こうの村の風景を見た。

 歪んでいる。

 連なって並ぶ、醜くおぞましく変異した家々。屋根がとろけて垂れ下がっていたり、窓一面に黒ずんだ斑点がびっしり浮かんでいたり、ねっとりとなった扉が壁と接合して開かなくなっていたり――その様子は、まるで腐った骸のようだ。

 障壁からこちらの家々――と言っても、もはや四軒しかないが――は、まだ、そんな状態には至っていない。せいぜい、材木が萎縮しかけている程度である。

 しかし、地面、足元の方は、そうはいかなかった。

 障壁の向こう側もこちら側も関係なく、大地には、ところどころに、血管に似た網目が走っている。そして、その土は柔らかく、靴で踏みしめると、じうっ、と音を立てる。微生物が悉く死に絶え、腐って沸騰して、爛れている証拠だった。

 フィロルは、足元を見つめながら、そして時々障壁の向こうの家々に目をやりながら、社屋――障壁から一番奥に位置する建物――へと向かっていた。口を引き締め、歯を食いしばるようにして、黙々と足を動かす。

 フィロルは、元々、村の人間ではない。

 生まれたばかりの頃、中央政府の学者であった父と母に連れられ、この村に来たのだが、滞在中に事故に遭って、両親は落命してしまった。フィロルだけが一人、生き残った。

 その後、村人たちは、哀れな乳飲み子をどうするか話し合った。

 村というのは排他的な共同体である。内にある者同士の連帯は強いが、外からの参入者は極端に嫌う。こと、政府からの学者などに対しては良い感情を抱いてはいない。事実であるかないかは関係なく、地方に散らばる村には、中央よりも自分たちが下であるという劣等感が強く根付いている。

 それに、そもそも、村は裕福ではなかった。自分達の日々の生活を守るのに、精一杯な人間ばかりだった。新たにもう一人、自分の家庭に抱え込む、それがどれだけの負担か―――。

 誰も、引き取ろうと申し出る者はいなかった。ただ、 産布うぶぬのに包まれたフィロルを囲んで、押し黙るばかりだった。

「いなかったことにしてしまえ」――口には出さなかったが、そういう雰囲気が蔓延し始めた。

 そんな時、ふいに進み出てフィロルを抱き上げ、自分が育てると言い出したのが、村長だった。

 村人達は驚いた。まさか、共同体の長である村長自らが、よそ者の子供の養い親を買って出るとは思わなかったのである。しかし、彼らは、特に強く反対もしなかった。

 こうして、フィロルは、村長の家で、村の一員として、育てられることとなった。

 村の、他の子供と同じようにとは行かなかったが、取りたててひどい迫害を受けることはなかった。見捨てようとしたことへの良心の呵責もあったのだろう、村人達は、それなりの態度でフィロルに接してくれた。もちろん村長は、養い親として、暖かい愛情を注いでくれた。

 何も知らず育ってきて、三年前、両親のことを初めとするこれらの事情を知らされた時には、さすがに打ちのめされたが、それも乗り越えて、フィロルは村の中に溶け込んで行った。この村は、フィロルにとってかけがえのない居場所となったのだ。

 だが、今、村は半ば崩壊し――消えようとしている。フィロル自身をも巻き込んで。

 社屋の建物が見えてきた。フィロルはおもむろに、首から下げていた小指ほどの大きさの片眼筒―― 小型望遠鏡モノクル――を取り上げ、目にあてがった。拡大された社屋の周辺風景には、危惧していたものの影はなかった。一通り、神経質過ぎるほど、そのことを確認してから、フィロルは社屋へと近づいて行った。

 村の他の家とは違う、横長い作り。頑丈な鉄製の扉。その前に立って、ノブを握りかけた手を、フィロルはふと止めた。そして、社屋の裏手に目をやった。

 苔生した門が見える。

 フィロルは、引き寄せられるような足取りで、ゆっくりとそちらへ回った。

 門の少し向こうには、もう一つ門があり、そこにも、玉虫色の障壁が巡らされている。だから、その向こうの風景は、障壁の揺らめきと、鬱蒼と繁る草木のせいで、判別できない。

 フィロルは、手前の門の所まで歩いて行き、門柱に手をかけて、

「……ユリ……」

 そっと、呟いた。

 門に背をもたせかけ、泣きそうな顔を伏せている少女の姿、そしてその髪飾りの鈴の音が、フィロルの脳裏にフラッシュバックした。

 二週間前、他の村人達と共に、村を出て行った―――一歳違いの、幼馴染だった。

 物心ついた頃から一緒にいて、遊んで、喧嘩して、笑い合ってきた。フィロルが傷つくと、いつも、そっと傍に来て、励ましてくれた。よそ者だという事実を知って、打ちのめされた時も、気にしない、関係ないなどと余計な言葉を並べることはせず、ただ、いつものようにそばにいてくれた。そんな大変なことを、自然にしてくれる女の子だった。

 だから、ユリと一緒にいる時は、感情を隠しがちなフィロルも、自分を偽らないで過ごすことができた。村長とはまた別の部分で、自分にとって大切な存在だと感じていた。

 村人の大半が村を捨てることを決めた時、ユリはフィロルに、一緒に行こうと言った。村長と共に残ると言うフィロルを、なんとか連れ出そうとして、それがどうしてもできないと知ると、今度は自分も残ると言い出した。

 うれしかった。でも、そんなことは無理だということもわかっていた。自分が行くことも、ユリが残ることも。

 フィロルにとって、自分が存在できる居場所は、村長のいる、この村だけだった。逃げることはできても、その時、自分は自分で無くなる。死ぬのと同じことだった。村長が離れられないのならば、自分も離れられない。そして、よそ者の自分がユリを引き止めることを、ユリの家族が承知するはずもないことも、痛いほど理解していた。

 目の前に “ 別れ ” が横たわっているのを、どうしようもなく感じたあの日、二人はこの門で、最後の話をした。取りとめもない内容だったから、よく覚えていない。ただ、気に入っていた、小さな鈴の髪飾り――フィロルがあげたもの――をつけて、涙をぼろぼろこぼしているユリの姿だけが、頭の中に、鮮明に焼きついている。

 そして、フィロルはユリを、村人たちを見送った。小さくなって行くトラックを眺めながら、その時初めて、自分がユリに抱いていた感情の正体を知った。ユリは、どうだったのだろうか―――しかし、それを確かめる手段が、おそらくはもうないだろうことも、なんとなく感じていた。

 ため息をついて、フィロルは、門柱から離れた。そして、門と――そこに焼きついたユリの姿に背を向けて、来た道を戻り始めた。


 扉を開けて中に入ると、社屋の中は、少し埃っぽかった。昨日と同じだった。フィロルは少し咳込みながら、部屋の奥に歩いて行き、事務机の上に詰まれた紙の束の整理にかかった。この村の事務や生活に関する記録がほとんどだ。

 これらの文書を保存することに、果たして意味があるのか、そして、保存自体が果たしてこの状況下で可能なのか、それは疑問だったが、村長はとにかく、やってくれと言った。だから、なにも言葉を差し挟まずに、フィロルは従う。

 村として、残せる物を残しておけば、後の者に役立つから――という理由は、後付けではないだろうか、と、フィロルは考えていた。本当に村長が残しておきたいのは、書類などではなく、村のために最後に何かをした、という事実なのかもしれない。

 誰に対する言い訳なのか。村人達か、いや、それとも――――。

 亡くした娘か。

 人形を取りに行くんだろ、と問いかけた時、あまりにもわかりやすく震えた村長の後ろ姿を、フィロルは思い出していた。

 村長が自分を引き取ったのが、ちょうど、病弱な一人娘を亡くした直後だったということは、ずっと前に聞かされていた。よそ者の子供を引き取ったりしたのは、穴埋めのためだ――口さがない連中がそう言うのも何度か耳にした。彼らはこんなことも言った。それが証拠に、村長は、娘に買ってやった人形を、今でも時々持ち出しては、まるで娘そのものであるかのように愛でている――と。

 その時は、何だか、無性に悲しく、悔しくなった。だからフィロルは、村長に問いただした。自分を育ててくれているのは、迎え入れてくれたのは、前に亡くした娘の代りとしてなのか、と。拳を握り締めて、凄い剣幕で。

 村長は肯定も否定もせず、ただ悲しげに、自分は娘になにもしてやることはできなかった、と言った。そして、お前のことは、他の誰としてでもない、お前として本当に愛している、とも言った。

 何とも言い返せなくなったフィロルの頭に手を置いて、村長はそれから、噂になっていた人形というのを持ってきて、見せてくれた。

 それはとても綺麗な人形だった。顔から手足から服から、全てが精巧な作りで、凡庸な表現だが、フィロルはその時、まるで生きているようだ、と感じたものだった。

 村長は、これは娘が死ぬ少し前に買ってやった人形で、その時はそれほどでもなかったのだが、娘が死んでからは、確かにこれが娘であるかのように思えてきた――と言った。そして、頭を下げて、フィロルに謝った。傷つけて悪かった、と。ただ、自分にはこれを壊すことはできないから、物置の奥にしまっておいて、なるべく持ち出さないようにする、と。

 そこまで言われては、フィロルはもう文句を言えなかった。逆に、躍起になっていちいち苛立っていた自分が恥ずかしくなったくらいだった。

 話はそこで終わり、それ以来、村長とその話はしていない。

 ただ、フィロルは、村長がそれでも時々、あの人形を持ち出して、眺めているのを知っていた。それを見るたび、胸のどこかがひどく締めつけられるように感じるので、なるべく気づかないふりをするようにしてきた。

 ――忘れることができないのは、わかっている。こんな状況なら、なおさらだ。今ごろ、義父さんはきっと、家で、物置の扉を開けているだろう。

 そんなことを考えながら整理作業に没頭していたフィロルは、紙の山の中に、ある書類を見つけて、ふと手を止めた。

 清潔感を感じさせる、真っ白な紙の質感。きっちりと綴じられて、数枚。表紙には、簡素な書体の文字が一行、タイプされている――――『 Sign 発症・感染拡大時における対処の手引き』。

 そこに視線を滑らせると、フィロルは、途端に顔を歪め、書類を引っ掴んで床に叩きつけた。

「嘘吐き……」

 思わず、言葉が口から洩れる。

 Sign ―― しるし ―― 。それは、病の名 だった。

“ 死 ” から生まれ、あらゆるものを蝕み、変異させる奇病。

 意志持つ呪い。命ある悪意。

 村を、人を、全てを壊した元凶―――。

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