一
その部屋は、薄暗かった。
夜でもないのに、日の光があまり差しこんでこない。
光源らしい光源は、細い、頼りない、蝋燭の火だけで、それすらも辺りの闇の中になかば吸い込まれてしまっている。
二人の人間が、そんな部屋の中で、机を挟んで座り、向かい合っていた。
じりじりと、蝋燭が音を立てて燃えている。
灯りに照らされた顔は、少年と、老人だった。
「…すまん」
老人が、目を細めながら、ため息と共に、そんな言葉を吐き出した。
老人の視線は、机の上に広げた地図に向けられていた。それは、山を背にした、小さな村――すなわち、今、二人のいる家の位置する村――の地図だった。机と同じように色褪せたその表面には、しかし真新しい赤で、いくつものバツがかきこまれている。
「すまん」
老人はまた、言った。
少年は地図の上に走らせていたペンを止めた。そして、老人を見た。
「父さん」
「……逃げ場は、無いのだろう」
目を閉じて問う老人――この村の村長に、少年は、少しうつむいてから、答えた。
「うん……塞がれてるの、正門だけじゃないんだ。もう、西の出口も、東の出口も…。それに、どんどん数が増えてる」
少年は、地図を示した。
集落の絵を、びっしりと赤いバツが囲んでいた。
「遠目で見ただけだから、実際はもっと沢山涌いてると思うけど」
「……そうか……」
「それにね、父さん。この、村の周りのやつには、壁みたいになってるのもあったよ」
「…私たちを出すまいとしているのだろう」
村長は、じっと地図を――そしてそこに記されたバツを――見つめながら言った。
「高いから、僕たちじゃ越えられないよ、たぶん」
少年は、指でバツをなぞった。臆しているような様子はなかった。落ちついた、静かな口調だった。
「すまん……」
三度、村長が言った。
「…やはり、お前まで道連れにすることになったな……」
「やめてよ、父さん」
少年は、笑った。
「…みんなが出て行ったのに、父さんも行けって言ってくれたのに……残るって言い張って聞かなかったのは僕なんだから」
「しかし……」
「本当に、後悔してないんだ」
一言一言、噛み締めるように、少年は言った。
村長はその顔を見つめ、何とも言えないような表情になった。そして、呟いた。
「せめて……今からでも、発症源が何なのかさえわかれば……」
「駄目だよ」
遮るように、少年は言った。
「こんな状況じゃ、見つかりっこない。それにもし、見つかったとしたって――僕らには、どうしようもないじゃないか」
「………私たちには………か」
村長は組み合わせた手の上に額を凭せ掛け、少し黙った後、
「………盾の様子を、見てくる」
呟いて、席を立った。
「もういいよ」
少年が顔を上げずに言った。村長は首を振った。
「そうはいかん。私は仮にも、この村の〈長〉だ……最後まで、諦めるわけにはいかないのだよ」
言葉とは裏腹に、どこまでも虚無的な表情が、その顔に浮かんでいる。
「もしかしたら、明日にも…な。〈ドーム〉からの使者が現れるかもしれん」
一呼吸置いて、扉を向いて歩き出した村長の背に、少年は、
「来やしない!」
叫ぶようにして言葉をぶつけた。
「もう何回も、裏切られたじゃないか!あいつらは、この村を、僕たちを見捨てたんだよ!とっくに切り捨てたんだ!」
何かの糸が切れたかのようにまくし立てるその目には、激しい悔しさと絶望の色が燃えていた。
「いいかげん認めようよ、父さん……!!」
村長は、返事をせずに、ゆっくりと扉に向かった。そして、振りかえらぬまま、少年に言った。
「…社屋に行っていろ。あそこは、まだしばらく安全だ」
「父さん……でも」
「すぐに戻るから。昨日のように、資料の整理と、周辺の様子の確認を頼む」
「………」
「頼んだぞ、フィロル」
名を呼ばれて、少年は、少しうつむいた。村長は背を丸めて、扉に手をかけ、ゆっくりと開いた。ぎいい、と、呻くように蝶番が鳴った。
そこでふいに、少年が問いかけた。
「……人形……取りに行くんだろ?」
村長の背がびくりと震え、ドアノブを握っていた手が止まった。
追いかけるように、突然蝋燭が揺らめいて消えた。
急に暗さが増した部屋の中に、少しの間、嫌な沈黙が流れた。
しかし、少年は、それ以上続けることなく、うつむいたままで言った。
「……気をつけて、父さん」
何も言わず、村長は出て行った。扉が、ゆっくりと閉じた。
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