第六節 回向 (5)
(8年前)
次の日の朝、修練場に入ると、既に先客がいた。
「おはよう、はやと。珍しいな、この時間に。」
「たまにはね。」
特に言葉を交わさず、各々で朝の日課をこなしていく。終わりがけになり黙想をしていると、はやとから話しかけてきた。
「昨日は、ごめん。」
「何が。」
「急に、怒鳴ったりして。」
目を瞑ったまま、はやとの言葉を聞く。隣に座った気配がした。
「なんか、俺もよくわかんないけどさ、間沙が全部悪いわけじゃないだろ?こんなこと言いたくないけど、先に手を出したのは間義さんだ。紫石に呑まれていたとしても、間沙は自分の身を守るために……それなのに、追放、って。じゃあ間沙は、死んでも良かったの?」
はやとの語尾が、わずかに震える。
「そんなに単純な話じゃない。」
もし、紫石に呑まれなければ。もし、父上を止められれば。こんな結果にはならなかった。もし俺が、もっと強ければ……
「でも、やっぱり納得いかない。俺には関係のないことだけど、理不尽だと思う。」
はやとの怒りは、俺に向いていなかった。おそらく、天野家や、父上に対して憤っている。なぜだろうか?
「なんで間沙は、闘えるの?」
昨日と同じ問いかけを、はやとは俺に投げかける。
「……わからない。」
「え?」
乾いた笑いが落ちる。
わからないことだらけだ。間義様の意図も、身の振り方も、はやとの怒りも、進み出す
「夢を見るんだ。」
瞼の裏に赤い光景が浮かび、目を開ける。
「血溜まりに足をとられて、泣いている妹に引き止められるうちに、誰かに……間義様に、背後から殺される。」
視界の端で、はやとが俺から視線を外す。
「俺が闘う理由は、紫石の管理者として相応しくあるため。そして、その〝血溜まり〟から抜け出すためだ。だが、どうして闘えるのかは、わからない。紫石の管理者ではなくなるかもしれない。進み出したとしても、その先は約束されていない。それでもこの道に留まり続ける理由は、よくわからない。ある気はするんだが、言葉にできない。」
はやとは黙っている。無言のまま俯いていたが、しばらくして立ち上がった。
「決めた。」
はやとがこちらを向く。その目には、闘志、尊敬、悲哀、そして、少しの敵意。
「間沙に負けた2戦分、絶対取り返す。」
「2回目はお前の勝ちだろ。」
「いや、俺が気を抜いたから負けた。でも、もう容赦しない。本気で勝負して、間沙に勝ち越す。だから──」
視界の端から木刀が迫る。脇に置いた自らの木刀を手に取るが、既に木刀は眉間についていた。その先で、はやとは笑っている。
「──俺より弱くなって、幻滅させるなよ?」
修練場の扉が静かに閉められる。
「……はっ──」
少しだけ、心が軽くなる。
「──望むところだ。」
己を消そうとするはやとを見たとき、俺は無性に哀しくなった。だが、自らの進むべき道さえ見えていない俺は、かける言葉など持ち合わせていなかった。
どうしても決まり手が見えると、刀を振りかざす父上の姿が頭を過ぎる。その光景から目を逸らすうちに、刀から己が消える。
そうして鈍った俺に、はやとは激昂した。何度か剣を交えるうち、はやとの苛立ちの意味がわかった。
あいつは、変わろうとしている。俺との立合いが、はやと自身と向き合う契機となった。しかしその変化は、容易く受け入れられるものではない。俺に、はやとを導く言葉はない。ただ、ここまで気付いてしまった以上、ほんの少しでも背を押してやりたい。全力でぶつかれば、なんとかなるだろう。あと1歩、半歩でも進めば、後は自力で走り出す。
はやとの言う通り、人に構っている余裕なんて、ないはずだった。
しかし、指揮官から追放されたことを聞いた時、その憂いは不要なものになった。どうせ俺は、このままじゃ進めない。ならば、はやとの背を押す役目も、気負いなく果たせる。
……俺は、進み出したはやとに、手を引いてほしいのかもしれない。
掴んだままになっていた木刀を静かに置き、また目を瞑る。
振り返ったその目に、俺が映ったのなら。その時は……
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上がった息を鎮める。はやとにもあまり余裕はなさそうだが、体力面ではこちらが劣るため、これ以上長引かせたくはない。
「意外と粘るね、間沙。」
「悪いな、楽させてやれなくて。」
俺の言葉に笑い、踏み込んでくる。斬撃を躱し、去なし、間合いを切る。
「ぐちぐち考え事してると、真人に負けるよ?」
「……そうかもな。」
「はぁ?そんなんだから、啓太に殴られるんだよ。」
1週間前に啓太から受けた傷は、わずかな痣を残すのみとなっていた。
「知ってたのか。」
「知らないよ。けど、俺じゃないなら啓太くらいだろ、殴りそうなの。相当ダサいこと言ったんでしょ。」
啓太はあまり他人の意見に介入しない。気にかけてはいるが、変えようとはしない。それこそ、手を出すなんて稀だ。今回は、俺の中の躊躇いが危険だと判断したのだろう。
「ダサい……そうだな。」
役目を怖れている自分がいる。いかに頭で割り切っていても、根底に刻まれた傷が疼き、震えが抑えきれない。その度に歯を食いしばり、拳を固く握る。
「今の俺は、どう見える?」
漏れ出した、か細い呟き。それを掻き消してくれるものは、この空間にはない。
「どうって、別に、いつも通りだろ。」
はやとは構えることなく、飛び込める距離まで歩いてくる。
「脳筋、変態、鍛錬バカ。石頭のくせに女々しくて、俺の話を全っ然聞かない!」
構えていないような状態から、叩きつけるような斬撃が放たれる。
正面から受けてしまい、ビリビリと重さが伝わる。
「人が相手してんのに、違うことに悩んで、違うことを怖れて。失礼しちゃうよね、ほんと。最初の頃は、事故ってことで斬っちゃおうかって考えたこともあったよ。夜霧ではほら、そういうのも許されるでしょ?」
鍔越しに、はやとの圧が高まるのがわかった。
「でも、結局できなかった。なんでだと思う?」
問いに気を取られ、体勢を崩される。右からの斬撃を飛び退って避ける。はやとは刀を高く保ち、すかさず飛び込んでくる。
答えは浮かばない。はやとに斬られてもおかしくないと思ったことは、何度かあった。
迫る刀の軌道が変わる。予測できていたはずの、左から斬撃。しかし、反応が遅れた。防御は間に合うが、無理のある体勢になる。
目が合う。その目には、俺が写っている。
はやとの刀が俺の刀を撃ち、絡め取る。巻き上げられ、隙ができる。腹部に刃が押し付けられる寸前、はやとが刀を手放す。刃の代わりにはやとの右手が、脇腹につく。
動きを止め、互いを見た。
自らも刀を手放し、紫の光の中へと返す。
「……ま」
俺の降参は聞かれず、投げ飛ばされた。床に落ち、睨むと、はやとは笑ってみせる。
「俺の勝ち、だね。」
はやとが手を差し出してくる。その手を借りようと腕を伸ばすが、途中で動きを止めた。
「それで、理由は?」
床に座り直し、腕を自らの膝に預ける。
「何の?」
「さっきの、俺の気を逸らした質問のだ。」
「……正しい選択じゃないって、思ったから。」
はやとは差し出していた手を引き、汗を拭った。
「間沙が来たばっかりの頃、
こめかみから顎へ、汗が伝う。
「でも俺は、父上を……加えて、ただ怖ろしいという理由だけで、進み出せずにいる。そんな俺が」
俯いてしまっていた視界の中に、はやとの腕が伸びてくる。俺の腕を掴んで引き、強引に立たされた。
広くなった視界の真ん中で、はやとはいつになく真剣な表情をしていた。
「苦しいなら、怖いなら、逃げ出せばいい。過去なんてかなぐり捨てて、行先なんて気にもせずに、道から外れてしまえばいい。」
「それは、できない。」
「その理由は、今でもわからない?」
「……ああ。」
「でも、確かに存在はしているんだろ。それが何であれ、紫石を宿したまま、この道に立ち続けてる。前に進めなくとも、逃げ出さない姿を、誰が否定した?誰が斬り捨てようとした?そんな分からず屋は間沙、お前自身だけだ。」
「俺、だけが……」
思考が滲む。言葉の輪郭はぼやけ、微かな震えとなって、息と共に零れる。
「もし間沙が相応しくないのなら、俺はともかく、次期当主様方は放っておかないでしょ。間沙との今までが、俺たちの応えだよ。あとは、間沙自身の問題。ビビって立ち上がれなくなったら、真人は〝親役〟を斬ることになる。それが嫌なら、死ぬ気で踏ん張りなよ。」
はやとが俺の腕を離し、パンッと両手を打つ。
「さてと!さっさと掃除して、ご飯にしよ!」
はやとは背を向け、軽やかな足取りで用具室に向かう。
「そうだな。」
俺の返答に振り向き、満足げに笑った。
(同日)
誰かが、横たわる俺を揺すり、声をかけている。泣き顔がぼんやりと映り、声も届き始めた時、右頬に雫が伝う感覚に気づく。
自らの右頬に触れる。まだ色彩に疎い視界にも、その赤は、はっきりと見えた。同じ色が、自分と、刀と、辺りに撒かれている。それは、背後から流れ出していた。
怖い……でも──
立ち上がろうとする。血溜まりは足に絡みつき、身体を持ち上げることすらままならない。
俺の腕を、誰かが掴んだ。
「兄上……」
少女の声が響く。
「どうして?」
腕を離さない声に、目を向ける。焦点が合わず、少女の顔がぼやけて見える。
「間沙……」
背後から、男の声がする。
少女の名を呼ぼうとするが、音にならない。
「よくも俺を──」
少女の手に触れるが、感覚が麻痺しているのか、よくわからない。
「──殺したな?」
いつもと同じところで、目が覚める。貫かれた感覚が、心臓を乱している。
起き上がり、洗面台に向かう。右頬の傷テープを剥がすと、鏡に映る男に、残ってしまった縫合痕が走る。
8年、か……
顔を洗う。冷えた水が、嫌な汗を流していく。
こんな状況だが、俺は天野家の次期当主候補のままだ。候補者が複数いる中で、自らの意思を示すことは、村の存続を脅かす可能性がある。
水を止め、顔を拭く。新しい傷テープを取り出し、痕を隠す。
──それでも、向き合うと決めた。少なくとも、この道に立ち続けたいと想う理由がわかる、その日まで。
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