第五節 鳴噪 (1)
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俺がJSOで訓練を始めてから、1年と2ヶ月が経っていた。この日、トレーニングは次の段階へと移る。
「おはよう、
「おはよう、
「おはよう。」
仁美も、挨拶を自然に返してくれるようになったと思う。初回のトレーニングの時に、手を差し出した俺に対する仁美の反応を思い出し、こっそり笑った。
「この調子なら、1年もかからずに仮加入までいけそうね。本当に凄いわ!」
「たしかにそうね。
「でも、それを達成してきたのは真人よ。自信を持っていいわ。」
「筋肉痛じゃなかった日の方が少ない気が……」
3人で苦笑する。本当に、ここまで来たんだ。あと1年足らずで、1部隊に入れる。そう考えると短いが、折り返し地点と言われると、まだまだ長いような気もする。
「これからのトレーニングは、主に実戦形式よ。だから、体を追い込むような辛さはないと思うわ。」
「そうなの?」
「まぁ……比較的ね。」
璃奈は少し言い淀む。それを補足するように、仁美が口を挟む。
「相手にもよるんじゃない?
担当する人によって、内容が違うのか?
「簡単に言うと、私たちとの稽古を繰り返す。その中で、真人の戦い方を確立させる。1部隊の6人も、同じ一族とはいえ、それぞれの戦い方がある。それこそ、私と仁美じゃ全然違うでしょ?」
たしかに、2人の剣はかなり違う。仁美はとにかく速くて、どんどん相手に斬り込んでいく。一方の璃奈は搦手を突くのが上手くて、攻め込みにくい。
「いろいろな剣を知って、真人にあった戦い方を完成させていくの。」
璃奈の言葉に疑問符を浮かべる。
「まぁ、やっていく内にわかるようになるわ。」
仁美は実践あるのみ、と言わんばかりに、コートへと降りた。
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今日の午前は座学だ。担当は
「おはよう、真人。」
「おはよう……」
「大丈夫?昨日の担当、啓太だったんだよね。」
「最初に仁美が、啓太だったらキツいって言ってた意味を身をもって知ったよ。文字通り……」
あれでも、手加減はしてくれているんだろうけど……
当然だが、俺と1部隊員とでは実力差がありすぎる。そのため、俺のレベルに合わせて稽古をしてくれている。ただ啓太の場合は、優れた観察眼にあの性格だ。俺の感じる〝限界〟を、2段階ほど更新させられた。
座学の方は順調に進んでいる。今日は紫石の基礎知識と制御についての総復習。その応用として、物体の進行を妨げる方法も少し教えてもらった。空気の密度や流れを操作するイメージで扱うため、〝流体操作〟と呼ばれている。
「流体操作に関しては、できなくても大丈夫だよ。無理に意識すると、かえって隙になるしね。それじゃあ、今日はここまで。」
「ふぅー、今日の午後は休みだ……」
「何か予定は?」
「無理。」
「だよね……」
そのまま宏文と共に食堂へ行くと、啓太がいた。
「げっ……」
「なんだ、真人。調子はどうだ?」
啓太がニヤリと笑う。
「ぜ、絶好調です……」
「それは良かった。」
「啓太、あんまり真人をイジめちゃダメだよ?」
「別にイジめてるわけじゃない。効率重視なだけだ。」
確かに効率は良いかもしれないが、明らかに啓太のブラックさが出ていた。
「じゃ、俺は戻る。そうだ、春虎の尾が咲いてたぞ。」
「本当?後で見てみる。」
啓太は食堂を出ていった。
「春虎の尾?」
「うん。真人も一緒に見に行く?」
特にやることもないしな。
「そうする。」
食堂を出て、廊下を進む。
〝春虎の尾〟って、聞いたことないな。〝咲いてる〟って言ってたから、たぶん花の名前だろうけど。
名前のまま、トラの尻尾が鉢植えから伸びている様子を想像した。
さすがに違うか。
「どこに咲いてるの?」
「談話室だよ。行ったことない?」
「実は……」
「1年以上いるのに?けっこう良い場所だよ。飲み物にお菓子、雑誌とか新聞もある。大きいソファがあって、リラックスできる。」
訓練プランをこなす毎日の中では、行く機会がなかった。それに、外から見ると駅前のオシャレなカフェっぽい雰囲気が出ていて、そういう所に1人で入ろうとは、なかなか思えなかった。
談話室は建物の角に位置している。JSOの建物は四隅が丸いフォルムをしているため、部屋の形はほぼ四半円だ。
中に入ると、大きな窓ガラスが視界に飛び込んでくる。照明も柔らかで、たしかにリラックスできそうな空間だ。
「けっこう眺め良いね。」
「ここは7階だから、特にね。」
窓際にはイロハ草が咲いている。
懐かしい……
イロハ草と共に都会の街並みを眺めていると、ジョウロを持った宏文が、給湯室から出てきた。
「これが春虎の尾だよ。」
「え、イロハ草じゃないの?」
「春虎の尾は、イロハ草の和名だよ。」
「そうだったんだ。」
宏文がイロハ草を日向から外し、ジョウロで水をやる。
「母さんがね、育ててたんだ。イロハ草。」
ジョウロの水が止まる。
「……そうなんだ。花が好きだったの?」
「どうだろう。育ててたのはこれだけだったから。」
宏文の沈黙に、自分の発言を少し後悔する。
「ごめん、なんか」
「いや……」
宏文が何か考えている。
母さんの話をしたから、空気を重くしてしまったのでは、と思ったけど……?
「それは、いつから育ててた?」
「んー……わからない、けど、俺が覚えているうちには、もう育ててた、と思う。」
宏文は、ジョウロから垂れそうになっていた水滴を雑巾で拭いた。
「俺たちの、
「そうなの?」
「最後の夜霧が大切にしていたらしくてね。夜霧の弟子の末裔であることを忘れないためにも、育てているんだ。」
「じゃあ、やっぱり母さんは、夜霧と関係があったのかな?」
「わからない。偶然かもしれない。けど、関係していると考える方が、自然だとは思う。」
イロハ草──春虎の尾が、水を零す。
「まぁ、ここで考えてもわからないし、そういう難しいことは指揮官に任せよう。ほら、次に行こう。」
「他の場所にもあるの?」
「各地上階の談話室にあるよ。」
1フロアずつ降りながら、春虎の尾に水をあげていく。そもそも林の中に咲く花で、花が咲いた後は日向から外した方が良いらしい。
4階の談話室には、見覚えのある後ろ姿があった。
「
「ちょっと真人さーん?まずは、ごきげんよう、じゃないの?」
師さんはねっとりとした口調で言うと、小指を立てて紙カップを持ち、目を閉じてコーヒーを味わう。
「真人にまでそんなこと言われて、恥ずかしくないの?」
「なんだよ、宏文。奥さんみたいなこと言ってー。」
「師さん、彼女すらいないじゃん。」
「うげっ!なんで真人がそれを!?」
「はやとから聞いた。」
「くっそ、あいつめ……俺は仕事が恋人なの!」
「放ったらかされて可哀想だよ。」
「放ったらかしてねーよ?午前は書類作ってた!準待機だから、今は優雅なアフタヌーンを過ごしているわけさっ!」
なぜかドヤ顔なのがイラッとくる。
「水やりか?」
「そう。真人にも付き合ってもらってるんだ。」
「水なら今さっき、仁美があげてたぞ。」
「そうだったんだ。」
窓際の春虎の尾を見る。たしかに土が濡れていて、場所も日向から外されている。
「仁美のことだから、たぶん1階から順にあげていってすれ違ったのかな。じゃあ、任務完了。真人は部屋に戻る?」
「んー、宏文は?」
「俺はちょっとここにいようかな。」
「じゃあ、俺も。せっかく初めて来たし。」
ソファに座る。予想よりも柔らかく、体が少し後ろにのけ反ってしまう。
「俺はそろそろ行くかな!」
「え!?どうしたの師さん!?」
ソファの柔らかさと師さんの発言で、二重に驚く。
「おい真人、その世界の終わりみたいな顔は止めろ?クマさんパンチを喰らエッ!」
立ち上がった師さんの手の上から、クマさんのパンチが俺の額を捉える。
「師さん、指揮官のところに行く?」
出ていこうとした師さんを、宏文が呼び止める。
「ん?あぁ。」
「じゃあ、ついでに頼まれてくれない?」
(同日)
ノックへの返答の後、指揮官室に入る。
副官は居ないのか。
「失礼します、指揮官。ほい、4月前半の書面版。」
「ありがとう、おつかれさま。」
「
「オペレート室にお使い頼んでる。」
「俺も宏文からお使いを頼まれた。真人の母親が、春虎の尾を育てていたらしい。」
書類を捲ろうとした智也の指が、ほんの一瞬だけ止まる。
「……まぁ、不思議なことでもないね。」
「書面にするほどではないが、一応の報告だ。」
「んー、夜霧と関係があると判断するには不十分だけど、見すごすこともできないね。」
「お前……」
「なに?」
智也はさして表情を変えず、今しがた渡した書類をチェックしている。
真人が保護されたあの事件で、彼女が斬られた瞬間を、智也はモニター越しに見ていた。あの智也が、わずかだが、本物の感情を顔に出したように見えた。そこそこ長く一緒に働いているが、俺の知る限りでは初めてのことだった。あの一瞬の躊躇いに気付いた者は、他にいないだろう。だが、たしかにあの目は、彼女の死を拒絶したがっていた。
「変わらねぇな、智也。」
俺の言葉に、智也が視線だけを上げる。腹の読めない微笑を浮かべると、すぐに手元の資料へと視線を戻した。
「君は老けたね、
「悪いが今の俺は肉体派だ。気に食わなかったらぶん殴る。だが腐ってもインテリ出身だ。殴るのは、ぜんぶ暴いて納得がいかない時の最終手段にしてやる。拳を受け流す練習でもしとくんだな。」
「ちょっとは手加減してよ、ヒーローイエロー。」
「それはお前の身の振り次第だ、親玉殿。」
部屋を出る。
気に食わなかったらぶん殴る、なんて言ったが、どうせ俺にはできない。俺は智哉には敵わない。あいつはどんな時でも、人より数手先を読んでいる。凡人には、考えていることなんてわかるはずもない。
俺はあいつを、信用している。
次の一手が俺にとって気に食わないものでも、あいつの思惑通りに実現した結末は、俺の望んだものとほとんど一致している。全てを救い上げることはできない。それを、あいつはよく理解している。だから、より多くの人間にとっての最良の未来のために、どう切り捨てていくべきかを、常に考えている。
そしてあいつは、真っ先に自身を捨てた。
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