第四節 尊尚 (3)
(12年前)
まだ雪が散らつく朝。外を覗く啓穂の目が、輝いていた。
これは、連れ出されるな。
「ねぇ、啓太。今日の午後は稽古もないでしょ?ちょっと山に行ってみない?」
「なんで。」
「息抜き。ね?」
「体は大丈夫なのか?」
「大丈夫、今日は調子が良いの!」
たしかに、今日は随分と顔色が良い。
「はぁ、わかったよ。」
「ありがとう!璃奈ちゃんにも聞いてみる!」
啓穂は、電話を求めて部屋を飛び出す。
「待て!あいつだって……聞いてないな。」
あいつだって、そんな雰囲気はないが、
山を挟んで向こう側に、山辺家の村がある。当主は璃奈の母親。山辺家の当主は女性であることがほとんどらしいが、特に決まりがあるわけではない。あの家の受け継いできた剣は、女性の方が扱い易いからだ。香川家の剣も力や速さにあまり頼らないものだが、山辺のはもっと極端だ。当主に1度稽古をつけてもらったことがあるが、自分の力がすべて返ってくるような、不思議な剣だった。
雪が止んだ午後。冷たい空気が頬を痺れさせる。
今年は特に寒いな。
突き抜けるような青空は、昨晩までの雪を溶かすには遠すぎる。
雪を踏みしめながら、いつも待ち合わせに使っている小屋へと向かう。もう使われていない小屋の前に、璃奈が立っていた。
「おーい、璃奈ちゃーん!」
啓穂が走り出す。
「走るな!転ぶぞ!」
まったく、どっちが年上だかわかったもんじゃない。
啓穂は産まれてすぐに、紫石への親和性が低いということがわかった。当主の実子、しかも長子であるにも関わらず、後継ぎはおろか、指南役候補になる機会すら、父上は与えなかった。それでも啓穂は、俺と同じく鍛錬に励んだ。しかし半年前、啓穂の身体に異変が起きた。それからというもの、俺の身の回りの世話に徹してくれている。
「行こう!今日はきっと、寒椿が咲いているよ。」
そのためか。
啓穂は草花が好きだ。山や空の様子から、何の花が咲いたか言い当てることも珍しくない。そして、特に気に入っている花が咲いたと感じたら、俺と璃奈は連れ出される。
強めの風が吹き抜ける。
「寒っ……」
「今夜は吹雪そうだね。」
空を見上げた啓穂が呑気に言う。
「え?こんなに晴れているのに?」
「こっちに来てごらん。」
啓穂が璃奈の手を取り、坂を駆け上がる。啓穂が指差している先、向こうの山の上に、薄暗い雲が見える。
ずっとこの調子だと良いんだが。
体調が悪いと、起き上がれない日もある。村から出て、紫石の影響のない場所で暮らした方が良い。しかし、本人がここにいたいと主張し、父上もそれを了承した。この山が、家族といることが、啓穂にとっては重要なのだろう。自分の命を削ってまで残る理由が、俺にはよくわからない。
「啓太、早くー!置いていくよー!」
「はいはい。」
啓穂は躊躇うことなく山を進む。
小さな山の中腹。木々の間に、雪を被った赤い花が見える。
「やっぱり!」
得意げにそう言うと、啓穂は手袋を外した。少し屈んで、花を覆う雪を払う。
「啓穂さんは、なんで寒椿が好きなの?」
「椿はね、種を残すために冬に咲くの。すごいと思わない?こんなに厳しい環境を選ぶなんて。」
「そうか?どっちかって言うと、選ばざるを得なかったんだろ。他の花と争わないで、確実に花粉を運んでもらうために。」
「もー、啓太ってば考え方が意地悪だよー。でもさ、他の花も木もぜーんぶ葉を落としてるのに、白い雪の中で、緑の葉と赤い花があるのを見ると、なんだか嬉しくならない?山が眠っていても、生きてるって感じがして。」
「あ、それわかるかも。」
「でしょー!璃奈ちゃんは啓太と違って、良い心を持ってるなぁ。」
「良い心を持ってないから、次から啓穂には付き合わない。」
「そんなこと言わないでよー!」
まだ柔らかい雪の上には、いくつか花びらが落ちていた。
手袋に雪が落ちてくる。
「啓穂、璃奈、降り始めたぞ。」
「そろそろ帰りましょうか。啓穂さん?」
啓穂がキョロキョロと辺りを見回し、焦った表情を見せている。
「どうかしたのか?」
「ない……」
「何が?」
「手袋がない!」
辺りを見回す。たしかに、来るときは着けていた赤い手袋が見当たらない。あれは──
「父上から貰ったものなのに……」
──今年の冬の初め、父上が啓穂に渡していた。手袋を渡しているのに、あまり外に出るなと言っていた。おそらく、啓穂の体を案じていたのだろう。少し意外だった。父上は啓穂に関心がないような態度だったからだ。
「ここに来た時には、着けていたわよね?」
「うん……」
「一旦帰るぞ。今夜は吹雪くんだろ?」
「だから、今のうちに見つけないと」
「ダメだ。ここで探し始めたら、最悪帰れなくなる。それは俺よりも、啓穂の方がわかっているはずだ。」
啓穂は泣きそうになりながら、頷いた。
「でも、すぐに見つかるかもよ?」
そんな様子を見た璃奈が、同じく辺りを見回しながら言う。
「璃奈、少なくともお前は帰らないとダメだ。」
「そう、だね。うん、帰ろう。もう雪は降り出してるし。明日探しに来れば、きっとこの辺りに……」
啓穂は不安げにそう呟くと、歩き出した。
山を下る時も、啓穂は辺りを見回し、手袋が落ちていないか探していた。
当主の子としての役目を果たせない啓穂にとって、父上から貰った手袋は、自分を見てくれていることを示す証だ。それを失くすということは、俺が考えている以上に、啓穂にとっては重大なことなのかもしれない。
「あっ!?」
「啓穂!」
斜め後ろから啓穂の叫び声が聞こえ、すぐに手を伸ばす。しかし指先は服を掠めただけだった。伸ばした手の先で、啓穂の体が道脇の斜面を転がる。雪が柔らかかったおかげで、それほど下までは落ちず、すぐに顔を上げた。
「大丈夫か!?」
「ごめん、足滑らせちゃって。」
啓穂が近くの木に手をつき、立ち上がる。道に戻ろうと一歩踏み出すが、顔を顰めて止まってしまった。
「啓穂さん、足痛めたのかも。」
「璃奈、ちょっと待っててくれ。啓穂!そこで止まってろ!」
啓穂の元まで斜面を下る。登れないほど急勾配ではないが、簡単に上がれるほど緩やかでもない。雪が敷かれ、足を痛めた状態の啓穂なら、1人で登るのは厳しい。
「大丈夫か?」
「うん……ひっ、ごめん……」
「泣くな。ちゃんと足元を見ろ。さすがに背負って登るのは無理だ。ほら、肩に掴まれ。」
雪が強くなってきた。ここから道に戻った後、あの小屋まで送っていては、璃奈が山辺家に帰るのは困難だ。だが、今から独りで帰らせるのも、安全とは言えない。
ゆっくりと、着実に坂を登る。啓穂が右足を踏み出すたび、肩に回された手が力む。
このことが父上に伝われば、1番に責任が問われるのは、俺たちを連れ出した啓穂だ。父上と、おそらく山辺の当主も、今はJSOに出向いている。上手く誤魔化さないとな。
時間をかけて道に戻った時には、既に雪が斜めに吹いていた。
「璃奈、今から帰るのは無理だ。ウチに来た方が良い。」
「ごめんね。お邪魔しても良いかしら?」
「謝るのはこっちの方だ。というか、
「ごめん、ねっ、璃奈ちゃん……」
「大丈夫ですよ、啓穂さん。足、痛みますか?」
「だ、大丈夫……うっ……」
「大丈夫じゃないだろ。ほら、道を歩くのなら、負ぶってでも山を降りられる。」
「うん、ごめん……」
降りられる、が、時間はかかる。人を背負って冬の山道を
3人で香川家に戻った頃には、吹雪になりかけていた。
俺が母上と使用人に事情を説明しているうちに、璃奈も山辺に電話をしていたようだ。
「悪いな、璃奈。母上からも連絡を入れるって。」
「うん。啓穂さんは?」
「治療してもらっている。璃奈は先に風呂に入った方が良い。呼び出して帰せなかった上に、風邪まで引かれたら言い訳のしようもない。」
使用人に璃奈を案内させ、俺は啓穂の部屋に向かった。
「啓穂、入るぞ?」
「うん。」
部屋に入り、啓穂の寝ている布団の脇に座る。
「状態は?」
手当をしていた医者に聞く。
「だいぶ腫れているので、靭帯を痛めているかもしれませんね。歩くことはできるようなので、骨折ではなさそうですが、一度、外の医者に診てもらった方が良いと思います。」
「行くとしても……」
風と雪が、窓を震わせる。
「吹雪が止んだらすぐに診てもらえるよう、連絡を入れておきます。」
「ありがとう。」
医者は部屋を出ていった。
「朝には止めば良いが。璃奈も帰さないと。」
「ごめん、啓太……」
「まぁ、起きたことはしょうがない。」
「ほんと、ごめんね。私が行こうって言って、転んじゃって。啓太に助けてもらって、璃奈ちゃんも帰れなくさせちゃって。手袋も、失くしちゃうし……」
啓穂の目からぽろぽろと涙が落ちる。
「なんで私っ、何も、できないんだろう……なんにもっ……皆を困らせて、ばっか……」
「そんなことはない。」
「あるよ!啓太はなんでもできるから、私のことなんてわからないんだよ!」
驚いた。啓穂が、そんなことを言うなんて。たしかに啓穂より、俺の方ができることは多いのかもしれない。でも、そんなこと、気にしたこともなかった。啓穂も俺と同じように、気にしていないと思っていた。
ずっと、隠していたのか?
「あっ……ごめん、違うの、今のは……」
「……ちゃんと安静にしとけよ。」
なぜだか啓穂の顔を見られず、部屋を出た。
啓穂は香川家の長子として産まれた。しかし、家を継ぐのは弟である俺だ。紫石との相性が悪く、刀の祠のあるこの村にいれば、寿命は長くない。体調も、思うようにはいかない。それ故、当主の血を引くが、次代の指南役にすらなれない。改めて考えると、啓穂がこの家にいるのは、心身ともに苦痛が多いことがわかる。父上は家に居ないことがほとんどだし、母上も優しく啓穂と接している。だが、他の人々はどうだろうか。啓穂はそれを、どう感じ取っているのだろうか。俺は……
(同日)
夕食の後、使用人に頼み、啓穂さんの部屋まで案内してもらう。
「啓穂さん。」
「璃奈ちゃん?」
「入っても良いかしら?」
「う、うん。いいよ。」
啓穂さんは独りだったようだ。目が赤く腫れている。
「足、痛むの?」
「ちょっと。でも、動かさなければ大丈夫。」
「明日の朝には止むといいわね。」
「うん……」
「手袋も、すぐに見つかるわ。」
頷いた啓穂さんの目に、涙が溜まっていく。
「啓太と、何かあったの?」
啓穂さんは驚いて私を見る。その拍子に、両目から涙が零れた。
「夕食の時、啓太の様子が少しおかしかったから。」
「………啓太に、酷いこと言っちゃった。」
その時のことを思い出しているのか、啓穂さんは掛け布団をぎゅっと握り締めた。
「啓太には、私のことなんてわからない、って。そんなこと、ないのにね。啓太は、私にできない役目を全部背負って、私が側にいることを許してくれた。私の前で平気な顔をしているだけで、本当は凄く大変なんだって、わかってるのに。自分が何にもできないのが嫌になって。そんなことない、って言ってくれた啓太に、八つ当たりしちゃったの。最低だよね。」
啓穂さんは涙を流しながら、無理に笑みを作った。
彼女の言う〝何にも〟とは、おそらく香川家の長子としての役目のことだ。
でもね、啓穂さん。あなたが思っているより、啓太はあなたを大切に思っているのよ。
今よりも少し幼かった啓太の、満月に照らされた目を思い出す。複雑な思いを抱え、自分を騙しながら、足掻いていた彼を。
「ねぇ、璃奈ちゃん。私からのお願い、聞いてもらえる?」
「えぇ、私にできることなら。」
「啓太を、助けてあげてほしいの。」
「助ける?」
「うん。啓太は、あんまり自分のことを気にしないから。役目や周りばかりが目に入って、自分がどんなに傷ついても、お構いなしだから。だから、啓太を護ってほしいの。私には、〝姉上〟じゃなくなった私には、できないから。」
啓穂さんの言葉には、さまざまな感情が溶け込んでいた。不安、悲哀、自責、そして何より──
「わかった。」
「うん、ありがとう。」
──大切な家族への、愛情が。
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