第一節 躓石 (2)
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目を覚ます。身体は重く、頭も働いていない。眠気、というよりは、疲労を感じる。なんだか悪い夢でも見ていたようで、気分も良くない。
……ここ、どこだ?
体を起こす気にもなれず、ベッドに横たわったまま天井を眺めていると、何か音がした。
誰か、入ってきたのか?
左の方から靴の鳴る音がする。視線だけをそちらに向けると、女性が歩み寄ってきていた。
「おはよう、真人くん。」
優しく微笑む長髪の女性。なぜだか心が軋んだ。
「調子はどう?どこか痛いとか、不快感がするとか。」
「……よく、わかりません。」
上手く声が出ず、空気が漏れたような音になる。
なぜここにいるのか、そもそもここはどこなのか。眠る前に何かあったのか、何があったのか。
言いようのない喪失感だけが心を埋めていて、記憶を掘り返すことができない。
「ここは、どこですか?」
「JSOの施設内よ。」
JSO──日本治安維持組織。その名前を知らない人は、もういないだろう。毎日のようにニュースを賑わせる、彼らが所属する組織だ。
「どうして、俺はこんなところに?」
「あなたはある事件に巻き込まれて、私たちが保護したのだけど、覚えていないのね?」
「思い出せないんです。頭が、冴えなくて……」
「無理に思い出す必要はないわ。まずは身体を休めて?落ち着いたら、指揮官から事情を説明されるわ。」
「あの、」
体を起こそうとすると、全身に鈍い痛みが走った。
「いっ!」
「まだ起きない方がいい。大した怪我はしていないけど……」
俺が横になるのを促すように、女性の腕が伸びてくる。
〝──!〟
「やめろ!」
パンッ、という音。右手への衝撃。反射的に女性の手を払ったらしい。理由はわからない。一瞬、女性と何かが重なって見えた。自分が怖れ、怒り、憎む何か。しかし、それはすぐに埋もれてしまい、思い返すことができない。
「真人くん、大丈夫?」
返事ができなかった。心臓が激しく動き、目眩がする。
「もう少し休んだ方が良いわね。」
「俺は、大丈夫、なんでしょうか?何もわからないんです。思い出せない……」
「今は身体を休めることに集中して。疲れていたら、わかる話もわからないでしょ?」
「でも、怖いんです!わからないから、余計に。だから、俺に何があったのか、教えてほしいんです。」
「……真人くんの意思は、指揮官に伝えておく。次に目が覚めた時、ある程度の回復が見られれば、話を聞けるかもしれないわ。」
「……ありがとう、ございます。」
「おやすみなさい。」
女性は微笑みながらそう言うと、部屋から出ていった。
しばらく自分の記憶を探っていたが、やはり上手くいかない。焦りと恐怖から逃げるように、再び眠りへと落ちた。
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重い瞼を開ける。見えるのは、眠る前に見た天井だ。当たり前といえばそうだが、眠る前の出来事が、夢の中であったかのように思える。
まだ眠気を感じ、目を閉じる。
〝JSO〟って言ってたよな、あの人。ってことは、彼らが出動するような大きな事件に巻き込まれたのか?
眠ることはできなかったため、体を起こしてみる。筋肉痛のような感覚はあるが、眠る前よりはマシになっている気がした。
周りを見渡してみる。ベッドのすぐ右には医療機器だろうか、なにやら機械がいくつか。左には、棚が1つと椅子が1つ。足元側の壁の左手には、扉がある。
病室、なのか?
病室にしては扉が重々しい。それに、窓がない。とても圧迫感のある、寒々しい部屋だ。
左の方から音がした。扉が開いている様子が見える。金庫の扉のように、かなり分厚い。
「おはよう、真人くん。」
眠る前に話した女性だ。栗色の緩く波打つ長髪に、色白の肌。優しい目をした女性。
「おはようございます。」
「身体、良くなったみたいね。」
「はい。あの、」
ギュルルルルル……
俺の言葉を謎の音が遮る。
「っふふ、先に食事にした方が良いらしいわ。」
「あっ、はは、お願いしますー……」
空気読め、俺の腹!
女性がベッドから少し離れて、食事を頼んでいる。少しして、棚の隣にあった椅子を持ち出し、ベッドの脇に座った。耳に何か付けている。通信機のようだ。
「食事は20分後くらいになるそうよ。先に飲み物だけ持ってきてもらうから、少しだけ我慢してね。」
「ありがとうございます。」
「何か聞きたいことがあれば聞いて?答えられることは、少ないかもしれないけど。」
眠る前の女性の言葉を、なんとか思い出す。
自分に何があったか聞いても、ここじゃ答えてくれなさそうだよな……
「えーっと、ここってJSOの中、なんですよね?じゃあ……あなたもJSOの人なんですか?」
「えぇ、そうよ。そういえば、自己紹介がまだだったわね。私は
手を差し出されたので、握手をする。人の温もりを感じたのが、とても久しぶりな気がした。
「
「ふふっ、〝山辺さん〟なんて初めて呼ばれたかも。璃奈でいいわ。私たちは下の名前で呼ばれることがほとんどだから。」
「璃奈、さん?」
「〝さん〟もいらないわよ?私も真人って呼ぶことにする。敬語も要らないわ。」
「は……うん。」
璃奈がにこっ、と笑う。
俺より年上だろうけど、とても親しみやすい人だ。
「それで〝あの人たち〟っていうのは、1部隊のことかしら?」
JSOの実働1部。黒い制服に身を包み、不思議な力を使うことができる。実働2部と共に、凶悪な事件をごく少人数で解決する姿を、画面越しに何度も見た。心強い一方で、恐ろしくもある。賛否両論はあったが、今では彼らを支持する人の方が多数だろう。
「うん、あの……すごい人たち。」
「えぇ、よく知っているわ。」
「どんな人たちなの?」
「どんな?そうね……たしかに、人並外れた能力を持ってはいるけど、それ以外はけっこう普通よ?性格もバラバラだし、一言で表すのは難しいわね。」
「実はサイボーグだとか、」
「え?」
「食事は完璧なレーションだけとか、」
「そうなったら反乱が起こるわ。」
「不眠不休で戦い続けられるとか!」
「ずいぶんなイメージを持たれているみたいね……」
「そんな噂が立つくらい、常人離れしてるってことだよ。だから、やっぱり恐い人たちなのかな、って。すごくカッコいいけど、あり得ないくらい強いから。」
「……じゃあ、私は恐い?」
「え?璃奈は恐くないよ?」
「じゃあ恐くないってわかったわね。」
……へ?
「私もその、あり得ないくらい強くて恐そうな人たちの1人よ。」
……え"っ!?
璃奈が口に手を当てて笑いを堪えている。驚きで固まってしまった俺は、相当マヌケな顔をしていたのだろう。
璃奈の通信機から電子音がした。
「ありがとう。」
応答した璃奈は立ち上がり、扉の近くの壁に向かった。そこには四角い金属のプレートがあり、向こう側から音がした。璃奈がプレートの窪みに手を掛けて上にスライドさせ、ペットボトルとコップを取り出す。どうやら、あそこから扉を開けずに物を受け渡せるようだ。
病室っていうより、牢屋みたいだ。なにか犯罪でもしたのか?璃奈の言い方だと、被害者っぽかったけど……
やはり思い出せずに悶々としていると、水が注がれたコップを手渡される。
「はい。しばらく眠っていたから、ゆっくり飲んでね。」
「ありがとう。」
水を口に含む。常温ではあるが、冷たさが滲みる。
「しばらく、ってどれくらい?あれ、そもそも今日って何日だ?」
「今は3月27日のお昼頃。前に目を覚ましたのは昨日の夜で、あなたがここに運び込まれてきたのはそのさらに3日前、23日の夕方よ。」
「……やっぱり、何があったのか聞けない?」
「一応、指揮官からの許可は出ているわ。あとは保護官からの許可が出れば、今日中にも案内する。」
「保護官?璃奈じゃないの?」
「私は違うわ。本当は彼がここに座って真人の様子を見るべきなんだけど、なんというか……あなたを過度に刺激しかねないから、私が代わりに。」
「どういうこと?」
「理由はいくつかあるけれど、1つは性格かしら?少し……ストイックすぎるところがあるから、慣れていないと、ね?」
「そうなんだ……」
言葉をなんとか選んだ璃奈は、顔色を窺うように、天井脇の辺りをちらりと見た。
しばらくして、再び璃奈の通信機から音がする。水の時と同様に食事が運び込まれ、ふんわりと良い匂いがする。
「おかゆにしてもらったけど、良いかしら?」
「うん、ありがとう。」
「熱いから気をつけてね?味は保証するわ。ここの食事は、どれも美味しいから。」
〝おかゆ〟というものはあまり食べたことがない。いたって健康体で風邪ひとつひかず、食べる機会がなかった。
そういえば、母さんが熱を出した時に……一度……
「真人?」
母さん?俺の、母親……?
いたはずだ、俺の母親が。ずっと一緒に暮らしてきた、大切な人が。
「真人!」
血の気が引いているのが、自分でもわかった。
「落ち着くのよ、深呼吸して。」
「……母さんは?」
弱々しい俺の声に、璃奈は応えなかった。璃奈の腕を掴む。
「母さんはどこ!」
「あなたの母親は、この施設内にいるわ。」
「会いたい……」
「それは、指揮官と話した後になると思うわ。」
言い知れぬ焦りが渦巻く。
「ゆっくりでも食べた方が良い。口から栄養を摂ることは、大事なことよ。」
無言で頷く。
疑問が1つ明確になったところで、思い出せないことに変わりはない。もどかしさが増しただけだ。
スプーンを持つ手が、震えていた。
時間をかけて食事を終えた頃には、少し落ち着いていた。
自力で思い出せないのなら、話を聞かなければ、状況もわからない。母さんにも、会えない。たぶん保護官や璃奈は、体の状態だけじゃなくて、精神的なところも見ているんだと思う。なら、ここで取り乱すのは良くない。
「ごちそうさまでした。」
「食べてくれて良かった。」
璃奈がトレイを下げると、彼女の耳元から電子音がした。
「……わかった。真人、これから30分後に迎えに来るわ。指揮官のところに案内する。」
「……うん。」
「これに着替えておいてね。」
璃奈は棚から服を取り出して俺に渡すと、部屋から出ていった。
何があったのか、知りたい。でも、怖い。
自分の中にある恐怖、怒り、焦り。その原因を、きっとこれから知ることになる。
また少し震える手を、拳にして抑え込んだ。
扉が開く音がした。見ると、璃奈に加えて見知らぬ男が入ってきた。怪我をしたのだろうか、右頬に肌色の傷テープをしている。真っ黒の髪に、鋭い眼つき。
「真人、今から総指揮官室に行くけれど、大丈夫かしら?」
「うん。」
腰掛けていたベッドから立ち上がる。
たぶん、この男が保護官だろうな。たしかに、気難しそうというか……
「
「よろしく……」
怖っ!
「行きましょう。」
エレベーターで3階から4階へと上がった。出ると、左右に廊下が続いていた。窓から陰った空が見える。
「こっちよ。」
廊下を進み、ある扉の前で立ち止まる。璃奈が時計を確認し、ノックをする。
「どうぞ。」
中から男の声がした。
「失礼します。」
璃奈が先に入り、それに続く。
中には見覚えのある男がいた。JSOの総指揮官だ。テレビの中で記者の質問に答えていた、眼鏡をかけた細身の男が、デスクの向こうに座っている。
「どうぞ、座って。」
左手のソファに促されるまま座る。対面のソファに総指揮官が移動し、その斜め後ろに間沙が立つ。
「失礼します。」
璃奈が俺を一瞥した後、部屋の扉を閉める。俺と、総指揮官と間沙だけになった部屋の空気が、重くなる。
「はじめまして、清水 真人くん。僕は
柔和な笑みを浮かべた初老の男は、その表情を歪めた。
「今から、君の身に何が起きているのか、話そうと思う。ただ、とても衝撃的だ。君の常識を覆すだろうし、精神的なダメージも大きいと思う。どうか、覚悟して聞いてほしい。」
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