《始点のディフュージョン》⑨


 結局、あれから伊之は一言も喋らず、上の空のままだった。

 らっこは食堂に満足したおかげなのか、体調がやや回復しており、帰り道では饒舌だったけど……食堂は結構ビビッときたみたい。最終的には実りある学校見学だった、とのことである。


 今日は塾もないので、あたしは家に帰ってごはんを食べて、部屋で勉強していた。塾の課題を終わらせる必要があったのだ。

 あたしは黙々と数学の問題を解いていく。頭の中が数式と図形とXYZで満ちていき、今日あった色んなことが、するりとどこかへ抜けていった。


「おい」


「っひゃあああ!?」


 ……そのするりと抜けたものを拾い上げ、全力でぶつけてくる来訪者に、あたしは悲鳴に似た大声を出した。

 両親ではないその声は、ある意味聞き違えることはない。


「よ――伊之!? なんであたしの部屋に!?」

「野暮用がある」

「そんな理由で、無許可で入ってくるって、あんたどういう神経してんのよ……!」

「今更なことを言うな」


 家にあったものを適当に選んだのであろう、クリーム色のエコバッグを床に放り投げ、伊之はあたしのベッドに腰掛けた。

 こうも堂々と居座られると、逆に文句を言い辛い。多分、ママは普通に歓迎したんだろうし、追い返すわけにもいかないだろう。

 あたしは一旦、問題集を閉じて、椅子をくるりと回して伊之の方に向き直った。


「勉強中なんだけど。用事があるなら、さっさとしてくれない?」

「……。あれから色々考えた。あの人達がどういうつもりだったのか、俺なりに。だが、全くもって俺には分からない。俺は新地先輩を裁くべきだと思うし、彼女を庇い立てする理由など無いと思う。何より――俺は、自分が間違ったことをしたと、考えられない」


 ぽつぽつと、伊之が言葉を紡いでいく。

 傍から見れば、それは何でもないことのように思えるかもしれない。

 けど、まあ、こいつの手綱の近くにいる、あたしは分かる。

 これは、伊之なりの、弱音なのだ、と。


「何もかもに、納得がいかない。こんなこと、今まで無かったんだ。津臣先輩が言うように……お前は俺が分からないことを、知っているのか?」

「……どうだろ。だって、こういうのって、問題集とは違って答えなんてないもん。あたしが言うことが合ってるかどうかなんて、誰にも判断出来ないし」

「それでもいい。教えてくれ」


 真剣な目をして、伊之があたしを真っ直ぐに見つめてくる。

 目を逸らさずに、あたしは自分が思っていたことを、伊之へとぶつけた。


「――アニメって、気持ち悪いじゃん」

「…………。喧嘩を売っているのか?」

「売ってない。これ、別にあたしの考えじゃないから」

「じゃあ誰の考えだ」

。けど、の考えよ」

「何が言いたい」


 ――ああ、やっぱり。

 伊之は、強い。肉体的な意味じゃなくて、心が、とても強い。

 それは、独りで生きているそのスタイルからも分かる。誰かの目を気にしないし、誰かの声を気にしないし、誰かの考えを気にしない。


 恥、という概念が、他の人に比べてあまりにも乏しいのだろう。

 自分自身に、誇りを持っていると言えるのかもしれない。

 だから……他人の弱さが、見えないんだ。


「あたしはアニメに、大して興味もないし思い入れもない。はっきり言えば、どうだっていい。あんたが、誰に何を言われようと、そう言うのと同じ」

「実際、どうだっていいだろう。取るに足らない意見など」

「そうは思えない人が、多分この世界にはたくさんいるのよ。多数派がそれだとしたら、あんたは間違いなく少数派なの。新地先輩は、きっと多数派の人間だったんだわ。アニメのことは好きで、アニメーション研究部も、その部員の人達も好きで、だけど――」


 少しだけ間を置いて、あたしは自分の一方的な考えを、伊之に見せた。


「――だけど、


「…………。理解、出来ん」

「でしょうね。だから分からないのよ。あの人は、ひっそりとアニメーション研究部で楽しむことが、一番大事だった。けど、部の方針で目立つことになって、それが嫌だった」

「阿呆の考えだ。正針部長と一路副部長が目立とうとしたのは、部員の確保の為だろう。あの部は人数が少ない。あの人達が卒業して抜けたら、いずれ廃部になる可能性が出てくる。それを未然に防ぐために、積極的に動こうとしたんだ。それが何故、分からないんだ」

「廃部になっても構わないから、でしょ。新地先輩と塚井先輩は、きっと、正針部長と一路副部長と津臣先輩がいる、あの部活が好きだったのよ。裏を返せば、あの人達が居ない部活に、価値を見出だせない」


 正針部長達は、部の存続を見越して行動した。

 新地先輩と塚井先輩は、今の部だけが好きだった。

 お互いの考えに齟齬があり――そして何より厄介だったのは、お互いがその考えを、ある程度理解していたから。


「アニメオタクって、後ろ指を指されるようなタイプじゃない。目立ったら目立った分だけ、そのリスクが高まると思うの」

「そんなもの――」

「だから、『そんなもの』なんて言って、気にしないで生きていける方が、珍しいんだってば」

「………………」


 強く、そして正しい。じゃあそれは、誰からも理解を得られるものなのか。

 ――多分、得られない。

 強くて正しい伊之が、結果的に孤独というものを背負っていることが、何よりの答えだと思う。

 たとえ、それは自分で望んでいるものだとしても。


「正針部長と一路副部長は、部のことを考えて動いたけど、一年生二人のことをあまり考えられなかった。それが負い目で、だから庇った。自分達が悪いんだ、って。新地先輩と塚井先輩も、自分達の考えを先輩達に示すように、盗難なんていう行為に及んだ。もちろん、本気で盗んだわけじゃないだろうし、あんたが言ってたように後日ちゃんとDVDは返すつもりだったんだろうけど。それも言ってしまえば負い目で、あの人達も先輩達のやったことはある程度理解してたんだと思う。突発的な行為だったのは、つまりはそういうことでしょ。鍵さえ掛かっていれば、我慢するつもりだったんだから」


 そして、その四人の間に立つようにして、全部を眺めていたのが、津臣先輩。

 やっぱりあの人って、すごく頭が良いんじゃないかって思う。

 どちらの味方でもなく、またどちらの敵でもないような立ち回りって、一番難しい気がするし。


 あたしの意見を聞いた伊之は、ずっと顔を伏せていた。

 そんな伊之の姿を見るのは、実を言うと初めてだったので、取り繕うようにあたしは続けた。


「あ、でも、あたしは別にあんたが悪いとは思わないから。っていうか、あんたは何も悪くないから。むしろ、あんな堂々と動けるのって、すごいことだと思うし――」

「莉嘉」

「な、なに?」


「なら俺は、どうすればよかったんだ」


「……それは、分かんない。ごめん」

「いや……謝る必要は、無いだろう。妙なことを訊いて悪かった」

「…………。あたしは、分かってるから。あんたが純粋に、アニメーション研究部の為に動こうとしたって。今回はたまたま、それが上手くいかなかっただけでしょ。あの人達だって、多分びっくりしてると思う。単なる見学に来た中学生が、あそこまで首を突っ込んでくるものなのか、って。悪い意味じゃなくて、そのくらい真っ直ぐなやつってことね。入部届をもらったのって、そういう意味が込められてるんじゃない? 今日の学校見学で、もう入部届を渡されたやつなんて、きっと全見学者の中でもあんただけよ」


 実力テストが壊滅的な点数のやつに、嫌がらせ以外の目的で入部届を渡すってことは、それだけ伊之の中にあるものに期待したのだろう。

 それは、間違いないことだ。

 伊之は、今度は天井を見上げている。


「あたしがちゃんとあんたのフォローをすれば、もうちょっとうまくいったかもね」

「……そういう性分じゃないだろう、お前は」

「ま、そうなんだけど。あたしはあんたほど、はっきりと他人に意見を述べられないし。なら、あんたに必要なものって、正しくなくても、答えが分からなくっても、それでも誰かの考えを理解して寄り添える、心優しい友達なのかもね」

「どういうことだ」

「独りで何でもかんでも出来ると思うな、ってこと。あんたに足りないものを埋めてくれるような、そんな人がいたらいいねって話! あ、あたしは無理だから。先に言っとく」


 あたしは手綱係だ。

 突っ走るこいつを、何とか後ろで引っ張り留めるのが役目である。


「多少は――俺も精進する必要があるな。今回の一件で、それが分かった気がする。やはり納得も理解も出来ないが……しかし霧は晴れた。ありがとう、莉嘉」

「へー、そんなセリフがあんたから出るなんて、ホント学校見学に誘って良かったわ」


 自分で言うのも嫌になるが、これはあたしの照れ隠しだった。

 いきなりありがとうって……そんなの言うキャラじゃないでしょうに。やめてよ。


「そうだな。じゃあ、これから毎日頼む」

「…………なにが?」


 気が付けば、伊之はいつもの調子に戻っていた。

 持ってきたエコバッグを引っくり返し、バサバサと何かを取り出す。

 出てきたのは、筆記用具と、ノート。


「俺が昇陽高校に行くには、学力が足りないらしいからな。なので俺に勉強を教えてくれ。ああ、心配するな。塾のある日は、塾が終わってからでいい」

「ふ……ふざけんな! 勝手に何決めてんの!?」

「お前の母からの許可は得ている」

「ママ関係ないし! ってゆーか、あんたも塾に通えばいいでしょ!」

「はあ? 金の無駄だろうが、あんなもの。親がもしそんな金を俺に出すくらいなら、小遣いを増やせと主張する。まあ受験が終わるまでで構わないし、土日はアニメを観るから来ない。あくまで平日だけで充分だ」

「あたしに何のメリットもない!」

「損得で動くな」

「ここぞとばかりに偉そうに……!」


 ――そういうわけで、あたしと伊之のアニメーション研究部にまつわる、最初の話。

 それは決して、綺麗に気持ち良くは、終わらなかった。


 考え方の違う人と人が集まるからこそ、生まれる不和。

 しかし、その中で培われる絆。

 どちらか片方だけではなく、両方が同居していたからこそ、読み取れなかったもの。


 コミュニティに属さず、孤独に生きていた伊之がぶつかった、最初の壁。

 結果として、その壁がこいつをもう一段上の、更に厄介な人間に成長させたことは、間違いないだろう。



 あたしは頭を抱えながらも、伊之にこれから何から教えるべきか、考えていた――


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