《熱発のストロービング》


 身体が重くて、頭がぼーっとして、おでことほっぺたが妙に熱くて、喉が痛い。

 ――風邪である。起きてすぐに分かった。


「最っ悪……」


 最近ちょっと暑かったから、早めのエアコンを解禁したのだが、それがどうやら仇となったらしい。

 数日前にエアコンを付けっぱなしにしたまま、勉強机で居眠りをしてしまったのだ。

 体調不良はそこからで、本格的に身体が壊れてしまったのが今朝……ということである。


「もうじきテストなのに……」


 独りごちた声は掠れている。口の中はカラカラに渇いていた。

 今年受験生のあたしにとって、授業の一つ一つは大事にしなくちゃいけないものだし、テストで良い点を取ることは最重要課題だ。なぜなら、内申点を良くして、指定校推薦を狙っているから。


 あたしはこれでも、学年だと結構な優等生の部類であるという自信がある。

 そりゃあ、生徒会長の咲宮さんには色々と劣るし、何でもこなせる物凄い秀才ってわけでもないけれど――ああ、比較対象になりがちな幼馴染が、超が付く程の劣等生扱いだから、尚更そう思ってしまうのかも。


 まあ、そういうわけで、なるべく欠席はしたくない。が、そんな真面目なあたしを嘲笑うかのように、あたしの身体は腹が立つ程に正直だった。

 どうにもダル重くて、今日はマジで、無理っぽい。


「じゃあ、学校にはママから言っておくから。今日はお薬を飲んで、ゆっくり休みなさいね」

「うん……ごめんなさい、ママ」

「ここのところ、莉嘉ちゃんは頑張ってたもの。謝らなくってもいいのよ」


 ――結局、部屋から動けずにいたあたしに気付いたママが、さっき様子を見に来て、そしてあっという間に今日は学校を休むことになった。


「あ、そうだ。にも言っておかなくっちゃ! 莉嘉ちゃんが風邪引いちゃったって!」

「い、言わなくていい……。っていうか、自分で言うし……」

「だーめ。莉嘉ちゃんのことだから、よしくんには心配しないでいい、って言うつもりでしょ?」

「そうだけど……」

「それだと、よしくんは本当に心配してくれないわよ? だもの、よしくん」


 いや、それは単にアイツがあたしに興味ないだけだと思う。

 ってか、別に心配して欲しくないし。アイツは素直じゃなくて薄情だし。ママが妙にニコニコしてるのが気になるし……。


 あー、もう、何かどうでもよくなってきた。薬も飲んだから、寝よ。どうせ休むなら、しっかり休んで、明日はちゃんと学校に行かなくちゃ。

 あたしは、よしくん――幼馴染の伊之よしゆきのことを頭の片隅に追いやるように、めいっぱい布団をかぶって、ぎゅっと目を閉じた。



* * *



 ――もう、十年くらい前になるだろうか。

 今でこそ健康そのもののあたしだけど、実を言うと子供の頃は身体が弱かった。すぐに高熱が出たり、扁桃腺が腫れたり、それこそ月に一回は学校を必ず休んでしまうぐらい。


 だからその度に、ママは学校へ連絡した後に、伊之の家にも電話を入れて、ついでに何かをアイツにお願いしていた。

 それが何のお願いなのかは今も知らないし、別に興味もない。


 けど、休んだ日は必ず伊之があたしの部屋に来て、その日配布されたプリントとか宿題を置いていった。ってことは、多分、ママはそういうお願いを、伊之のママと伊之に頼んでいたのだろう。そこは素直に、アイツに感謝しておく。


 が、問題はここからで、子供の時からアニメに狂っていたアイツは、何を考えていたのか、体調不良で寝込んでいるあたしの部屋で、そのまま自分の好きなアニメを勝手に観始めるのだ。

確かに、学校を休みがちだったあたしの部屋には、昔からテレビとプレーヤーがあったけど……当時のあたしは、それが伊之なりの不器用な優しさだと勘違いしていた。


 実際は本人曰く「当時の俺の部屋にはテレビすら無かったからな」とのことである。

 要するに、プリントとかを持ってくるのはおまけで、そっちがメインだったってこと。


 ……いやもう、ほんっと最低じゃない?

 純粋過ぎたあたしもあたしだけどさあ。今でこそ幼少期のアレな思い出話として処理してるけど、やっぱり思い返したらムカつく。不意に枕をばんばんと叩きたくなる。


 結局、中学に入ったぐらいから段々とあたしの身体も強くなり、風邪なんて一年に一回引くか引かないか程度になった。

 伊之も部屋にテレビを置いたし、無理にあたしの部屋でアニメを観る必要も無くなった。


 だから、アイツがあたしの部屋に来る用事なんて、今はこれっぽっちも――――


「ん…………」


 落ちるようにして眠っていたらしい。いつの間にか、窓から差し込む光が茜掛かっていた。

 薬を飲んで長時間眠った分、少しは身体が軽くなった気がする。まだ頭はぼーっとするけど。

 あたしは上半身をむくりと起こして、何の気なしに伸びをした。


「何だ。起きたのか」

「…………………………んんん?」


 ぐきっ、という変な音が背中から響いた。思わず伸びをしすぎたみたいだ。

 ――ボサボサの黒い髪と、度の強い銀縁の眼鏡。鼻筋は通っているのに、目付きは睨んでいるかのように鋭い。昔に比べると、ちょっとは男前になったとはいえ、それでもあたしにとっては見慣れた顔。


 くだんの幼馴染の伊之が、どういうわけかあたしの部屋で寛いでいた。


「なっ……なんで」

「何でって、阿呆あほうかお前は」


 起きがけに罵倒されたが、苛立ちよりも先に戸惑いが来ているので、反応することも出来なかった。

 一方で伊之は「ふん」と鼻息を一つ鳴らして、手提げ袋を持ち上げてみせた。


だ」

「差し入れって……誰からの?」

「決まっているだろう。我がアニ研の面々を置いて、誰がお前に差し入れするんだ」

「あたし友達結構居るんですけど? あんたと違って」

「まずは坂井からだ」


 無視かい。このマイペースさだけは、子供の頃から一貫して変わってない。

 と言うより、伊之の中身って、子供の時から一切変わってない気がする……。


 そんなあたしの微妙な表情を読み取ることすらせず、伊之は手提げ袋から何かを取り出している。

 そして、どん、と机の上に置かれたのは、スポーツドリンクだった。


「普通……いや、嬉しいんだけどね」

「坂井だからな」


 彼は何というか、フツーに平凡な少年である。実に無難な差し入れのチョイスだった。

 当然ありがたいのだが、こういうところで弾けることが出来ないのが、坂井くんという人間の良さであり、むしろ無二の個性のような気がする。

 いつの間にか強烈な個性の持ち主が集い始めているアニ研において、彼のような人材はむしろ貴重なのかも……。

 

 色々とあたしが考えていたら、次に伊之は、真っ赤なお守りをベッドの上に放り投げてきた。


「岩根からだ」

「……これ、『交通安全』って書いてるけど?」

「岩根だからな」


 それで納得しろというのか。

 ああ、でも……何か納得だわ。多分、あの子としては、純粋な善意でこれを選んだのだろう。お守り、という単語に全てを託した感じで。


 問題は、その場でお守りなんて用意出来ないはずだから、これは間違いなくあの子の私物で、何より交通安全と風邪に関連性はほぼ存在しない、ということかしら……。


「今日大切に使わせてもらって、明日返すわね……」

「好きにしろ。次は雛人形からだ」


 伊之が茶封筒を取り出し、あたしに手渡した。

 もう人形なら何でもいいのかって感じのあだ名だけど、つまりは田中さんからの差し入れなのだろう。


 茶封筒から出現したのは、間違いだらけの悲惨な英語の小テストと、小さなメモ書きに書かれた「田中を嘲笑って元気を出してください!!」という、後ろ向きに前向きなメッセージだった。


「誰かあの子のこと救ってあげて……」

「そういう芸風だから放っておけ」


 芸風て。仮にも部長でしょうに、あんた。

 そんな一言で片付けていいものじゃないが、明日きちんと田中さんにテストを返却し、さらっと勉強を教えてあげようと心に決めて、ひとまず先送りする。

 伊之はさっさと次の差し入れ――一冊のノートを開いて渡してくる。


「これは……今日の授業の板書?」

「そうらしいな」


 とても綺麗な字で、今日の授業の内容が科別に纏められている。

 しかも、ただ単に写し書きしただけじゃなくて、書いた本人なりの解説が、あたしに向けて記されていた。

 このノートは、伊之が書いたもの――ではない。それだけは間違いない。内容的にも、筆跡的にも。


「あんたの字じゃないわね……誰から? クラスの子?」

「咲宮からだ」

「…………。ふーん。なんで? 生徒会長様が、わざわざあたしに? なんで?」

「もうあの阿呆も部員みたいなものだろうが」

「入部届書いてないから部員じゃないし」

「細かいことを病人が気にするな。使えるものは使っておけ」


 こいつ……。確かに、咲宮さんは最近ちょこちょこアニ研の部室に出没するようになったが、でも凄いモヤモヤする。

 まあ一応ノートは借りるけど。明日絶対返すけど。お礼も言うけど。


 ……って、あれ?

 差し入れの半分以上、明日返さなきゃダメじゃないの、これ?


 何とも恐ろしい事実に気付いてしまったが、あたしはなるべく冷静さを保って話を続けた。


「それで、あんたからは?」

「はあ? 何がだ」

「差し入れ。あるんでしょ?」

「あるわけないだろうが。強いて言うならば、各種差し入れをここまで運んだことが、俺なりの差し入れと考えろ」

「………………」


 いや、もう、ほんっっっっと最低じゃない?

 差し入れをせがむのもどうかと思うけどさあ、それでも後輩とかクラスメイトが何かしら厚意を見せる中で、「運んでやったから」みたいな言い方って、そんなの有り得なくない!?

 ちょっと怒りで熱が上がってきた気がする……。さっさと帰れ、もう。


「さて。じゃあ、後は寝るなり何なり好きにしろ」

「そうする。じゃあね」

「ああ」


 そう言って――伊之はプレーヤーにDVDをセットして、いつもの部活動のような流れで、あたしの部屋でアニメを観始めた。

 ……これっぽっちも、帰る気配はない。

 思わず呆然とするあたしを背にして、伊之は机に頬杖をつきながらリモコンをいじっている。


「おい」

「……なに」

「『ドラえもん』と『クレヨンしんちゃん』、どっちがいい」

「は? いきなり何よ。別に、どっちでも……」

「じゃあ『クレしん』だな」


 それだけ言って、伊之は黙ってしまった。

 アニメを観る時、伊之は必要以上に喋ろうとしない。観る時は静かに、騒ぐのはその後で、というのが、こいつの視聴スタイルだ。

 アニオタとしてその姿勢は概ね間違ってないのだろうが、この場合は質問に答える気が一切無いとも言える。

 今の伊之に適当な雑談を吹っ掛けたところで、スルーされるのが目に見えるよう。


 じゃあいっそ眠るにしても、近くにこいつが居たら安眠出来ない。

 かと言って他にすることもないし……そういうことだから。あたしもいつの間にか、テレビ画面に集中してしまっていた。


 ――やがて、気付いたことがある。


「ねえ。これ、何か前に観たことある気がするんだけど」

のは、視聴期間を空けたアニメを観る時の鉄則だ」


 ぼそりと呟くような言い方だったが、それを聞いてあたしの頭の中に、火花のような何かが散った。

 でも確信は無いから、一応伊之に訊ねてみる。


「この『クレヨンしんちゃん』って、何年前に放送されたやつ?」

「六年前」

「……なんで? 最近のやつでいいじゃん」

「何がだ。黙って観ておけ。この回はひろしの顔芸が面白いぞ」

「じゃあ、独り言にするけど。あたしが風邪を引いた時、あんたって絶対に、あたしの部屋でアニメを観てたわよね。それに、今考えたら、ほとんど『ドラえもん』か『クレしん』しか流さなかった気がする。それって、理由とかあるの?」

「…………」


 独り言に対して、律儀に答えるつもりは無いみたいだった。

 それはアニメを流しているからか、それとも伊之なりに照れているからか、あたしに背を向けていて顔が見えないから分からないけど。


 まあ、独り言だし。熱がある時って、ちょっと頭が冴えるものだから。

 続きを勝手に言ったところで、別に構わないだろう。


「昔、ママになんて言われたの?」

「…………お前、静かに観たらどうだ。病人への特効薬は睡眠とアニメだろうが。知らないのか」

「それ、昔ママに言ったんだ」

「…………。覚えてないな」


 ああ、そういうこと、か。

 本当に――この幼馴染は、素直じゃない。

 だけど、多分きっと、ううん――間違いなく、ずっと昔から


「そっか。ま、いいや。ねえねえ、しんちゃんって、ホント可愛いわよねー」

「黙って観ろ」

「はいはい。……ありがとね、伊之」

「熱でもあるのか」

「あるから言うの。アニメを観てお礼を言うなんて、普段のあたしじゃ有り得ないもの」

「……それもそうだ」


 あたしがまた眠くなるまで――あたしと伊之は、黙ってテレビを見つめていた。

 もう、お互いに何かを言うことはなかった。

 ……ひろしの変顔で、あたしは笑っちゃったけどね。



* * *



 ――懐かしい、夢を観た。


『よしくん』

『なんだ。アニメは集中して……』

『つぎ。ドラえもんか、クレヨンしんちゃんがみたい』

『おい。おれは、おれが観たいものを観てるだけだぞ』

『そうなの?』

『そうだ』

『じゃあ、大丈夫だね。あたしがみたいものは、よしくんもみたいものだから――』



* * *



 明けて、翌朝。すっかり熱が下がったあたしは、いつもより早起きして朝食を食べていた。

 その折に、あたしは台所に立っているママに向かって、自然な感じで訊ねてみる。


「ねえ、ママ。あたしが風邪を引いた時、いっつもママはアイツに何て言ってたの?」

「ん? そうねえ、簡単なお願いよ。『莉嘉ちゃんが好きそうなアニメを、一緒に観てあげて』って、それだけ。そしたらよしくん、二つ返事で『分かりました。アニメは風邪への特効薬ですからね』って言ってくれてたのよ~」

「ふーん。そうなんだ」


 当時のあたしは、結構な寂しがり屋だったことを思い出す。

 両親は共働きだから、ママもパパも仕事に行ってる間、風邪を引いたあたしは家でずっと一人だった。

 二人はどう頑張っても、帰ってくるのが夕方以降になる。

 だから、あたしは風邪を引くのがとても嫌だった。しんどいのが、じゃなくて――多分、もっと単純に、ひとりになることが。


 それを、アイツがどう解釈したのかは、分からないけど。


「ね、莉嘉ちゃん」

「なに?」


「よしくんって、昔からほんっとうによね~」


 朗らかに、今のアイツをあんまり知らないママがそう言った。

 あたしはちょっとためらって、「そうかもね」と、はにかんでおいた。



《おしまい》

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