第21話 不可侵の観念
アイネがシオンと合流するおよそ二日前。すなわちアダルット地区炎上のあった日である。シオンに孤児院のことを託されたアイネは、ガルネゼーアに護衛してもらいながらノイアと共にラリマー孤児院を目指していた。
この日は前日の雨が響いてかどんよりと重い雲が空を覆っていた。
砂利道のあちこちに濁った水たまりができており、足を踏み入れると水と共に砂も足にまとわりついた。
アイネは横目でガルネゼーアをみる。
健康的な褐色の肌がよく似合っており、化粧も不自然でない程度に自然にしておりまさに大人の女性という印象を抱いた。
アイネはガルネゼーアに聞きたいことがあった。
セリアンスロープについてである。
シオンがカースの攻撃を躱したときの反応速度は明らかに人間の領域を逸脱していた。
あれはセリアンスロープによるものなのだろうか。そして仮にそれがセリアンスロープによるものだとしたら、なぜシオンにだけその力が真っ先に出たのか。考えれば考えるほど未知の領域の深みにはまり、疑問の沼に浸かっていく。
「どうかした?」
隣を歩いていたガルネゼーアがアイネの様子が変わったのに気付いたのか声をかける。
アイネは逡巡するも、聞かないのもおかしな話なので思い切って尋ねることにした。
「あの、セリアンスロープについてなんですけど……。シオンがドセロイン帝国の敵と戦ってるとき、異常な、人間では考えられないほどのスピードで攻撃をかわしてたんです。あれってセリアンスロープの力なんでしょうか」
「そうね……。実際に私が見たわけじゃないから何とも言えないけど、セリアンスロープっていうのは力を引き出す時に必ず≪ある印≫が体のどこかに浮かび上がってくるの」
「しるし?」
アイネとノイアは口をそろえていった。
「そう、印。私たちは
アイネはハッと思い出した。
シオンがカースに立ち向かう際に顔を苦痛に歪ませながら首筋を押さえていた光景がよみがえる。確かに指の隙間から確かにあの時アザのようなものがのぞいていた。
「……ありました、シオンの首筋にアザが」
「なら十中八九セリアンスロープによるものね。今の話を聞く感じだと≪完全変身型≫じゃなくて≪特殊生態型≫かも」
「でもなんでシオンだけに……? 私たちはほとんど同じタイミングで
アイネは未だに自分の体に変化がないことを不思議に思う。
「セリアンスロープっていうのは想いや観念の強さに比例してその力を発揮することができるの。自分だけの ≪不可侵の
「なるほど」
とどのつまり、あの時あの場所で誰よりも想いが強かったのがシオンということだった。
その後、孤児院につき地獄を見た。
ノイアは思わずうずくまり吐き出し、アイネは院内を周り墓を作った。
朝に出発したにもかかわらず、帰り道は日がとっぷり暮れていた。
わずかに顔を出している日の光を頼りに、来た道を足取り重く戻る。
ある程度覚悟はしていたものの、想像よりもはるかに悲惨な状態だったことにアイネとノイアはショックを隠し切れなかった。
雰囲気も重く、それを反映しているかのように空にも重苦しい雲がところどころに見受けられた。
アイネは少し先を歩き、その後ろからノイアとガルネゼーアがついていく。
「あの……、ガルネゼーアさん」
そんな雰囲気の中、口を開いたのはノイアだった。
その声は先に行くアイネには聞こえないくらい小さく、そして隣にいるガルネゼーアにはっきりと聞こえるくらい大きいものだった。
「ん? なに?」
「ガルネゼーアさんは……怖くないんですか。マセライ帝国を敵に回して、いつ孤児院のみんなみたいに殺されるかわからないじゃないですか」
「……怖いさ、怖いに決まってる。でもさ、何もしないで悪い奴らのウイルスに侵されて死ぬのってなんか気に食わなくてさ。
私はこう見えて拳法やってたから、だったらせめて死ぬ前に悪代官どもをこの鍛え上げた拳で一発ぶん殴ってやろうって思ってるわけ。その怒りのほうが恐怖よりも断然強いんだ」
「……そう思えるだけですごいです。僕なんて覚悟したつもりでいたのに、結局はあの光景観た瞬間に腰抜かして吐いてしまいましたから。
その点、アイネは強いです。しっかりと僕なんかよりも想い覚悟を背負って、皆の死を受け入れてて……」
「私はあんたの方が人間らしくて好きよ」
「えっ……?」
「だってまだあんたたち毛も生えそろってない子供でしょ。親しい人たちの死体の山をみて動じない方がどうかしてると私は思うけど」
「それは……」
「それに、さっきから『僕なんて、僕なんて』って言ってるけど、あんたはあの子じゃない。考え方も、想いも、覚悟もすべて違って当然。もっと自分に素直でいたらいいんじゃない? まー、今は心の整理とかのほうが優先だと思うから、いずれ、ね」
「素直に……」
ノイアはガルネゼーアの言葉を咀嚼するようにして呟いた。
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「私の≪不可侵の観念≫は後悔しない生き方をすること」
アイネが言った。
「目の前で困ってる人がいたら助ける。泣いている子がいたら寄り添う。誰かが楽しそうにしてたら一緒に笑う。その一瞬を全力で生きることこそが私という人間の生への原動力よ」
アイネは自分の目元から頬にかけて浮き出ている
「まっ、だけど、顔にこれが出ちゃうのは女の子としてはいただけないかしら。シオンみたいに首とかならよかったのに」
「原住民族みたいでかっこいいと思うぞ」
「そりゃどうもっ!」
アイネはそう言ってシオンの腕をつねる。
次第に二人が身を隠してる車の揺れが大きくなってくる。
シオンは腕をさすりながら言う。
「そろそろこの車も限界だ、いつまでも隠れてられない。反撃に移るぞ、アイネ」
「オーケー、いつでも準備はいいわよ。最後は私に任せて!」
まず、最初にシオンが車の陰から飛び出した。
この時シオンは初めて相手の顔を見た。見覚えのある顔だ。
扉の前で絡んできたギンガ率いる五人組の中にいた男であった。五人の中で一人だけ老け顔だったのが妙に印象に残っていた。
男はシオンにガトリングの銃口を向ける。
瞬間に何十発もの銃弾が雨あられのごとくシオンめがけて放たれる。
しかし、シオンの目には、カースと戦った時のようにすべてがコマ送りに映って見えた。すなわち、銃弾の一粒一粒の軌道がはっきりと認識できた。
隙間を縫うようにして、シオンは相手との距離を詰めていく。
男は目の前の信じられない現象に目を見開き、表情をゆがませる。
「ぐっ……! まさかお前もギンガと同じ……!」
その一瞬のスキを見逃さなかった。
陰で待機していたアイネが勢いよく男めがけて走り出す。
シオンに気を取られ、気づくのが遅れた男は、すぐさま銃口を向ける標的をアイネに変えようとする。
「
射程範囲がわずかに外れたその瞬間に、シオンの動きが加速する。
運動エネルギーをそのまま利用し、ガトリング銃に体全体を投げ出し飛び蹴り入れる。
男の手を離れ、重い金属音が地面を転がっていく。
「いけ、アイネ」
シオンが合図を出すころには、すでにアイネは男の目と鼻の先にまで来ていた。
「子供を囮にするなんて、この卑怯者!!」
アイネの手が男に触れた。
その瞬間、激しい閃光が稲妻のごとく周囲を駆け巡った。
近くにいたシオンの髪は重力に逆らうように逆立った。全身の筋肉が何かに反応するように意思に反してピクピクと痙攣する。
シオンは戦っていた大柄の太った男を見る。
ところどころに焦げ跡が見え、身体全体を痙攣させていた。喀血し、白目をむいたかと思うと、そのまま仰向けに倒れ、仮想空間から消え去った。
「ちょっと、やりすぎちゃったかしら」
そう言ったアイネの髪の毛は、寝ぐせのようにぼさぼさに跳ね上がっていた。
☆
「ハッ! しょーもねーぐらい情けねえな! 弱い! 弱い弱い弱い!! それでよくレジスタンスに入ろうと思ったな!!」
ギンガが怒りをまき散らすようにノイアに向けて言った。
ノイアは重い一発をみぞおちにもらい、呼吸ができなくなっていた。
胃の中が濁流のように激しくうねり、口から吐しゃ物をまき散らす。
「おいおい、何もったいないことしてんだ? 俺がガキの頃はそれすらも大切な食糧だったんだぜ」
そう言ってノイアの頭を踏みつける。
「おら、食えよ」
ノイアは自分の吐き出したものを顔に感じながら遠く思う。
―――……僕だって、本当は強く在りたかった。アイネやシオンのように強く、自分を犠牲にして他人を救うことができるヒーローのような存在になりたかった。
理想はこんなに卑屈じゃなかった。こんなに無力じゃなかった。……でもだめだった。光に憧れれば憧れるほど僕の影は濃くなっていく。近づけば近づくほど僕とかけ離れていく。
ノイアは下唇をかみしめる。
―――そんな現実が嫌で、僕は目をそらした。アイネから、シオンから、すべてから。痛みを恐れて傷つくことを恐れた。どうせ、なれもしないヒーローのために苦しむことはないんだと、無意識のうちに殻にこもっていた。
だから何のためらいもなくあの時シオンを囮に使えたんだ。自分の気持ちに目を背けた人が、人間らしい判断をすることなんて不可能だというのに……。
ギンガの踏みつける足が徐々に強くなっていく。
「お前らみたいなやつ見てるとイライラすんだよ。力のないやつが、傲慢にも力で世界を変えようとする。身分不相応の高望みしてるその様がよ!」
―――……なら、せめて謝ろう。ヒーローになり損ねた僕だけど、それでも憧れは抱いていいはずだ。僕は彼らのそばにいたい。光のそばにいたい。決して自分には手に入れられないものだけど、影としてなら一緒にいられる。アイネたちを支えてあげられる脇役でいい。僕は身分相応に高望みしてやる!
ギンガは踏みつけている足に違和感を覚えた。
見ると地面に押し付けていたはずのノイアが足を押し上げるように立ち上がろうとしていた。
ギンガはそれを冷たく見据える。その瞳にはかつて同じ立ち位置で這い上がろうとしていた力なき己の姿が重なって映っていた。
「……これだけの力の差を見せられて、立ち上がるのか」
「僕はヒーローにはなれない脇役だ。脇役は常に引き立て役だけど、それでも絶対に諦めることはしない。なら僕は脇役を名乗る以上、力の差が歴然でも、ここでおとなしく諦めるわけにはいかないんだ!!」
踏みつけられていた足を弾き飛ばすようにノイアは立ちあがった。
反動でギンガはよろめいて後ずさる。
お互いの目と目が合う。
「……ハッ! やろうと思えばいい雄の目できんじゃねえか」
ギンガは高ぶる闘争心を押さえつけるようにいった。
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