コオロギ

 いつからだったかしれないけど、ご主人はぼくの前に現れるようになってぼくをじっと見つめるのだった。いてくれる時間はいつもそんなに長くないし、なでなでしたり触ったりしてくれないことも多い。えさをくれたことは、そういえばご主人は一度もない。

 だからぼくがこんなにもご主人といっしょにいたいと思うのはただ単純にぼくがご主人を好きだからで、それこそ人が大っきらいで吠えまくって噛みつきまくって脅しまくった挙句とうとう保健所に連れていかれてしまったあいつが言ってたみたいな恋しちゃったってやつなのかもしれない。もう死んだんだろうけど、あいついたら、確認できたのかな。

 ぼくがぼくを自覚したとき、ぼくのそばにはあいつがいた。ぼくが眠そうにしているとあいつはいつでもぼくの顔をべろべろ舐めてくるから面倒くさかった。誰かに近づかれるのでさえ嫌って威嚇しまくってたくせに、ぼくにだけはすりすり甘えてくるのはどうかと思った。ただ、あいつはぼくが人からえさをもらうようになるまではずっとぼくにえさを分けてくれたし、かなりの部分人からだったと思うけど、外敵からぼくを守ってぼくを抱いて眠ってくれた。あいつは何も知らないぼくにあいつの知ってることの多くを教えてくれた。あいつの誤算は、ぼくがぜんぜん人嫌いにならなかったことだろう。たぶんあいつに守られ過ぎて、実際に人の怖いところとか嫌なところを見ずに済んでしまったせいだ。どれだけあいつにあいつらはどうしようもないクズだと教わっても、そのクズはぼくに危害を加えてこなかったし、それどころかえさをくれたりおなかをかいてくれたりしてとても便利だった。そんなことをあいつに言うとあいつは怒ってるような悲しんでるような傷ついてるような顔でぼくを見た。可哀想だからそんなときはぼくもあいつにやさしくしていた。

 ぼくにとってもちろんあいつは大切だった。それは間違いなかった。でも、ご主人に対してとこれとはまったくの別物だった。次元が違った。

 今日もひとりでご主人を待っている。もしかしたら来ないかもしれない。でも待っている。別に来ないのならそれでもいいのだ。ただ、ぼくがご主人を待ちたいだけ。

 ご主人を待っていたらみよちゃんが来た。みよちゃんは小学生だ。平日のこの時間にはほぼ毎日ここにやってきて食べ残しの給食をぼくにくれる。みよちゃんはいつもぼくにえさをくれる度にないしょだよとかないしょだからねとか言ってなるべく影になっているところにぼくを誘導してぼくを他から隠そうとする。みよちゃん曰く、本当は給食は残してはいけないものだから、見つかったら怒られるのだそうだ。

 ぼくが食パンとその間に挟まっている切り刻んだ野菜にがっついているとみよちゃんはしろはかわいいねとぼくの頭を撫でた。みよちゃんは他のこどもと違ってそっと触ってくれるのでうれしい。

 ぼくが食べ終わっておすわりをしているとみよちゃんはいつもありがとうと笑って、もう一度ぼくの頭を撫でてからまたあしたねしろと言って帰っていった。

 あいつが生きていたとき、あいつはみよちゃんを食い千切ろうとした。ぼくに近づいたから。

 あいつの目を盗んで、そのころぼくはよく人からえさをもらっていた。味を占めて、ちょっと気が緩んでいたのだと思う、その日うっかりあいつのいる前でみよちゃんからえさをもらってしまったのだ。

 みよちゃんは泣き叫んで走って逃げていった。あいつはそんなみよちゃんの後ろ姿を見えなくなるまで睨みつけて吠え続けた。あんなちっぽけなこども相手にそこまで怒らなくてもいいのにと夜になってあいつを諌めたら、でも、とあいつにしてはとてもめずらしいことに言葉を濁したので、見上げてなにって聞いたら、真面目な顔でぼくを見た。ついでにべろりとぼくの顔を舐めてお前かわいいからと言った。

 ぼくがかわいいかどうかというのは、客観的な判断ってむずかしいところだけれど、人目線で言えばぼくがよくしろとかちびって呼ばれているのに対して、あいつはオオカミと呼ばれて恐れられていたから、人ウケは圧倒的にぼくが上だったに違いない。あいつはでかくて黒くて耳も大きくぴんと立っていて、おまけに眼は青っぽい灰色をしていて、実際にオオカミを見たことはないけど、きっとこんな感じなんだろうって納得できる風貌をしていた。

 雨が降ってきた。ぼくは首を振って水滴を飛ばした。すぐに新しい水滴に濡らされてしまう。なんとなくご主人が現れそうな予感がして、顔を上げて道の先を見つめた。

 ぼくの予感はあてにならないことをぼくはじゅうぶん承知している。あいつが車に乗せられて殺されに行ってしまったときだって、当然ぼくもいっしょに連れて行かれるものだと思ったのに、ぼくはその車を見送る羽目になった。車の中であいつが吠えまくって暴れている音が外にも聞こえて、ぼくは閉ざされたドアに向かってあいつに呼びかけた。あいつのはっと振り返った眼と見上げたぼくの眼が窓越しに一瞬だけ重なって、それが最後だった。

 その日、初めてひとりで夜を過ごした。いつもぼくを包んでくれていた硬くて暖かい毛皮をもう二度と感じることはできないのだと冷たい風にさらされて思い知った。お前はかわいいな、お前はあったかいなと、機嫌のよい甘ったれた声でじゃれついてくるあいつは、ぼくから遠く離れたところで死んでしまった。

 その翌日、みよちゃんはいつものようにえさを持ってやってきた。あいつに脅されて以来全然来なくなっていたみよちゃんはその日、とてもうれしそうだった。

 みよちゃんから給食の残りをもらってがっついていると、みよちゃんは「怖いのいなくなって良かったね」といってぼくの背中を撫でた。食事中に触られるのは気になるからやめてほしいなと思ってみよちゃんを見上げたら、「ね、しろもそう思うよね」とさらに撫でてきたのでもう放っておくことにした。


 道の先から、車が一台やってきた。見覚えのある車だった。ぼくは期待を込めて尻尾を一往復させた。

 期待通りに、その車はぼくのそばまで来ると止まった。そして助手席から、作業着姿のご主人が降りてきた。

 ぼくはうれしくてうれしくて飛び上がった。ご主人は無表情でぼくの体を受け止める。ご主人の後ろからもう一人、同じ作業着姿の若い人間が運転席から降りてやってきた。ぼく用のものだろう、持ってきた檻を地面に置いて、鍵を開けようとしたところをご主人が止めた。ご主人はぼくを抱き上げて再び車に乗り込んだ。

 ぼくはご主人に会えて、ご主人に抱っこしてもらえたことがうれしくてずっと笑っていた。運転席の若い人間には悲しそうな、ご主人からは困ったような視線を向けられたけれどそんなことは気にならないほどぼくはうれしかった。

 この車からは当然あいつのにおいがしている。恐怖など微塵もなく怒りにまかせた血のにおいを感じる。あいつがこの感情をぼくに向けることはついになかったけれど、まるであいつがぼくにしたみたいに、ぼくがご主人にでれでれしているのを見たらさすがにぼくを咎めるのだろうか。

 まあそれも、じきに分かることだ。

 あいつのところに行くまで、まだ少しあるから、それまでは存分に、ご主人にくっついて甘えていよう。

 ご主人の大きな手が遠慮がちにぼくの頭に乗せられた。ぼくはご主人を見上げて元気よく返事を返した。

 大好きです、と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

コオロギ @softinsect

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ