《 その後 》
黒涙病は原因不明の病気であり治療法もない。人生の謎だ。だからその罹患者の一人である香織がどうして治ってしまったのかも勿論分からない。もしかしたら黒涙病とは決して不治の病ではなく、日本中に、世界中に、同じように自然治癒した人も沢山いるのかも知れない。明けない夜はなく、諸行は無常であり、やがて復活の日もやって来るのかも知れない。
毛瀬賢作は一週間で彼の『夏の花』を書き上げた。読者は一人だけだ。けれどもその一人は王子の帰還を祝福するのに不足のない一人だった。
「お庭を畑にしようと思います。何か食べられる野菜を栽培出来ればいいのですが」
香織は毛瀬にそう言った。すでに野良着姿をしてやる気満々のようである。何を着ても美しい女であるな、と毛瀬は夏の風に目を細めながら思った。
「それじゃあ俺は川に魚でも釣りに行こうか。多少泥臭いのは奥さん方に我慢して頂くとして」
「いいえ、旦那様には私のボディガードをして頂きます。これからスーパーに行くのです。野菜の種とかもスーパーに置いてあったはずですから」
香織は澄まし顔をして、ちょっと下の方から毛瀬の顔を見上げる。これは敵わないなと毛瀬は思った。自分の愛らしさを十分に計算に入れているかのようである。今の香織に対してNOと言える男など日本中どこにもいないに違いない。
王子家にはクルマがあり、香織は免許も持っていたが、スーパー『レンゴク』へは歩いて行った。いつガソリンが切れるかも知れないし、やはりクルマは非常用として使いたい。毛瀬は護身用に金属バットをぶら下げていた。野犬化した犬も、あるいは生き残った人々も共に凶暴化して、アトノセカイには未だに危険は多い。
スーパーの中は荒廃し切っていた。電気の切れた店内はうっそうとして暗く、商品は荒らされ放題だった。食品だった多くの物が腐り、醤油とか酢とか色々な物が床にぶちまけられて、すさまじい臭いを放っている。おまけに人間の死体までいくつも転がっているのだ。いくら目が慣れているとは言っても、女一人でこんな所に来られるはずもない。
「春にじゃがいも、秋にさつまいもが収穫出来れば大分助かると思います。お芋は保存が利きますし、私も綾音も大好きなんです」
ビニール袋に小分けされ、その袋に入ったまま芽を出しつつある芋類をしげしげと見つめながら香織は言った。生のままでは食いにくいこういう物は、まだいくらか食い残されていた。
「うんうん、それは結構だね。俺はほとんど好き嫌いのない人間なのだけどね、ただその芋類だけはちょっと苦手なのだ。ははは」
「まあ賢作さん、駄目ですよそんな好き嫌いなんか言って。男の人ってみんなそうなんですね。達彦さんも同じようなこと言って芋類はほとんど食べないんです」
「まあ何なのだろうね。あのモサモサとした感じがどうも……そう言えば南瓜とか栗とかも苦手だなあ」
「もう、まるっきり達彦さんと同じようなこと言って。駄目です駄目です。こんな時代なんですから好き嫌い言ってたら生き残れませんよ」
「はいはい、今の俺は奥さんの奴隷でござい。何でも言う通りにするでござるよ」
毛瀬は片手に芋類の入ったレジ袋、片手に金属バットをぶら下げて、暗い店内を香織と並んで歩いた。所どころに人間の死体も倒れているが、それらはすでに風景の一部となってしまっていた。屍臭にすら慣れてしまっているのは悲しむべきことなのか、あるいは強くなったと喜ぶべきことなのか。
ここは地獄ではなかったが……けれども無人島でもなかった。そんな当たり前のことを、うっかりこの二人は忘れてしまうことはなかったか。
「そういえば南瓜も切らしていたから持って帰りましょう。これは夏野菜の代表選手で栄養価も満点です」
「へいへい、それにしても重いなあ。今度クルマで来た時にした方がいいんじゃないかなあ奥様」
「そうやって私のこといつまで奥さんて呼ぶ気ですか賢作さん」
香織は立ち止まって男を真正面から見た。ちょっと唇をとがらせた顔は少女のように可憐で男は気恥ずかしくなって目を逸らせた。
「どうして名前で呼んでくれませんか。私は香織といいます。名前で呼んでくれた方が嬉しいです」
毛瀬はぐっと顔をしかめてたじろいだ。両手にした野菜もバットも重たげに、もじもじと横を見て、下を見て、上を見てから諦めて言った。
「じゃあ、ええと……香織」
「か……お……り」
木霊が暗い店内に響いた。闇の中で何かが動いた。毛瀬を見つめている香織の目が急に見開かれた。驚愕の表情だった。その目が自分ではなく、自分の背後の空間を見ていることに気づいた毛瀬は恐る恐る後ろを振り返った。
「お……お……お」
闇がそこに立ち上がっていた。死体だったはずの物が立ち上がっていた。巨体は骨と皮ばかりに痩せこけて、顔ばかりが鬼のように赤黒く腫れ上がっていた。傷だらけにして、泥まみれ血まみれの皮膚は土色となり、その表面を子供のゴキブリが這い回っていた。下半身には何も穿いていない。上体にまとった汚ならしい布はワイシャツだった物だろうか。もう黒い涙を流し切った目は血走ったまま見開かれて、目の前の男に注がれた。
「か……お……」
深淵の底からの声が喉から漏れて、両腕が突き出された。その鉤爪のように曲げられた両手が恐怖に凍り付いた毛瀬の喉に食い込んだ。
「うおおおおっ」
毛瀬が手にしていた金属バットが床に落ちて大きな音が響いた。袋の中に入っていた芋類が床に飛び散った。香織の悲鳴が上がった。
「おおおおおお」
地獄から這い上がって来た如き怪物は巨体を利して毛瀬を組み倒し、その首を締め上げた。まるで柔道のような技だった。死にかけたその体にその腕に、どこにこれほどの力が残っていたのか。突き進む意志は毛瀬の惑乱を圧倒して、雪崩の如くその生を誇示した。その意志にとって目の前の男はゴールに辿り着く前の最後の障害物に過ぎなかった。
「ぐおおおっ」
ぎりぎりと首を締め上げられて毛瀬の意識が薄れかかる。何もない空間に手を伸ばしてもがく毛瀬の視界がふっと白くなった時、その頭にガツンと衝撃が走った。一発、そして二発と。怪物の膂力が弱まった。
「この化け物」
香織が叫びながら、手にした金属バットを怪物の頭に振り下ろしていた。火のような三発目が打ち下ろされた時に怪物の巨体は毛瀬から離れた。ふらふらと首を振って、まるで微笑に見えるような不思議な表情を残してから、怪物はゆらりと音もなく大地に崩れ落ちた。
「あなた、賢作さん」
香織が毛瀬を抱き上げる。男が息を吹き返して女は涙する。闇の底に咲いた花のように美しいその横顔を見ながら、もう一人の男がぼんやりとした薄れゆく意識の中でどれほどの至福に浸っていたかなど毛瀬にも香織にも知る由もない。
か・お・り……と男が口にした最期の言葉は音にならなかった。それでよかった。その名前は男にとって光であり喜びであり、それだけで幸福を意味する命の言葉だった。
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