《 六日目 》つづき

「しかしまあ何たる皮肉というのか、あの翻訳が俺の関わった本では一番売れた本になってね。あんなひどい本で俺はいくらか貯金が出来て、その貯金でこうして遊んで暮らしているわけさ。家賃が払えるほどの貯金ではなかったが」

 須田はいよいよ乾いた声で笑う。闇の底で静かに響いた。

「……文学賞の下読みってのもキツかったなあ。応募作が百篇あったりするとね、それをまず俺らみたいな便利屋が読んで、いい作品の十篇だけを大先生方に審査してもらうんだ。下読みとかは、大先生方は無論のこと編集者たちも日常の業務で忙しいから、そんなことしてらんねえんだ。何しろ応募作の半分ぐらいは全く問題外のガキのオナニーみたいな作品だからな。物書くしか取り柄のない坊っちゃん嬢ちゃんが上から目線で世の中や人間を見下してやがるんだ。おぞましいにも程がある。自分自身の醜い部分を鏡で見せつけられているような感じで……いや、あれは本当に苦しかった」

 須田はもう笑い声すら出て来ない。遠くを見つめる目は暗かった。

「……いや違う。本当にキツかったのは、もしかしたら俺なんかより遥かに大きな才能を落としてしまうかも知れない恐怖だった。百の内から十を選ばなければならないと、つまらない理由で、例えば誤字脱字が多いとか応募規定を遵守してないとか、そんな下らん揚げ足取りをして、もしかしたら大天才かも知れない人の作品を落とすのだ。『次を頑張って下さい』とか無責任な決まり文句を言ってな。この俺が人を選ぶだと? この俺に人を選ぶ資格があるのか? この俺に」

 須田はとうとう頭を抱えてしまった。須田の髪は艶もなく、地を舐めるが如き長い時間はこの男の髪から半分の色を奪っていた。

「……俺は何とかしてそんな便利屋生活から抜け出したかった。もっとちゃんとした物書き……作家になりたかったんだ。俺は小説を書いたんだ、二冊な」

 二冊。

 そうだ。

 と香織は思った。何かのパズルが完成しつつあった。なぜならば今この人が言っているのは、あの『オペラ座の黒猫』に登場するホームレスのスーダ爺さんが言っていることとほとんど同じだったからだ。

 力強い確信の時は迫りつつあった。須田は続けた。

「コネがあった小さな出版社に泣き込んで何とか本にしてもらったよ。俺の最高の自信作だった。下書きノートだけで三百冊。十年かかっちまったなあ。俺は自分の全てを賭けたつもりだった。力を尽くしたつもりだった。忘れもしない『オペラ座の黒猫』と『月と梅と夢』という本だった……」

 ホームレス須田の顔からはあのニヤニヤ笑いは完全に消えていた。そこに座っていたのは別人だった。秀でた額、端整な口元。悲しげな目をした白皙の美青年。そうだ。もし香織の目が見えていたならば、あの初めて会った日にすぐに判ったはずである。どれほど髭ヅラで、どれほど落ちぶれていようとも。香織はあの写真の男が好きだったのだから。あの毛瀬賢作を。

「……売れなかった。まったく売れなかったんだよ。小さな出版社が返本の山で埋まって……まあこういう児童書は当たり外れが大きいからなって社長も途方に暮れてやがった。俺は児童書を書いたつもりじゃなかったんだが」

 貴公子の面影は暗く翳り、眼差しは虚ろであり、声はかすかに震えて来た。どこも見ていない目にはわずかに涙が浮かんでいた。

「世界中のすべてから否定されたような気分だった。自分のすべてを賭けた作品が否定されたのだ。お前には才能などない。お前には用はない。お前はダメでクズでゴミなのだと。俺は、俺は……」

 耐えていたものが溢れ出した。須田は泣いた。

「俺はダメでクズでゴミなのだ。だから今こうしている。ゴミはゴミらしくこうしている。俺は……」

 香織は須田と一緒に泣いた。手を取り膝にすがって身を震わせて言った。

「須田さん、あなたはもっと書くべきでした。いえ今からでも書くべきです。一度や二度失敗したから何だと言うのですか。あなたには才能があります。もっともっと書くべきです。私はあなたをよく知っているのです」

「売れなかった、まったく売れなかった……俺の書いた物など誰も読みはしない。俺には『夏の花』を書くことなど出来はしないのだ」

 香織の頬を伝う涙はまるで十年分も一度に溢れて来たかのようで、とめどもなく流れた黒い涙は枯渇してしまった。代わりに香織の目から流れて来たのは清らかな透明な涙だった。

「私は知っている、私は知っている、あなたの顔を知っている、あなたの本当の名前を知っている、あなたの読者はちゃんといる……ここに……」

 胸を打ち震わせ、泣きながら笑い、火を噴くほどの情熱と天まで届くほどの誇りをもって、香織は自分がこのたった一言を言うために生まれて来たのだということを今や確信していた。

「ここにあなたのファンが一人います。足りませんか」

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