《 六日目 》つづき

 夜の八時過ぎ、綾音を寝かしつけた後で須田が珍しく香織を散歩に誘った。

「夜風が涼しいから」と。

 香織にとってあれほど恐ろしかった暗黒世界であったのに、二人で歩くと何でもない。ここは鈴木さんの家、ここは佐藤さんの家という具合に、いつもの風景が目に見えるようだった。静かな静かな夏の夜。月光と涼風と虫の音が香織を優しく包んだ。

「おっと奥さん、左に寄って。十メートル先に死体が一つ」

「怖いわ」

「随分いい身なりだな。成金丸出しといった感じだな。こういう人はもう一生分の優越感を味わったのだからもういいだろう」

 いつもの軽薄な口調で須田はそう言ったが、その声音にはいつもと違う乾いた響きがあった。少し歩くとまた別の死体が野犬に食われていた。

「これはまた随分派手な格好で。見るからにヤクザ。こいつらはやりたいことを犯りたいように殺って、もう何も思い残すことなどないだろう」

 前の方を見据えたまま、須田の目が虚無の色彩を帯びて暗く光る。虚無。この男自身が廃墟であったのだから、目の前に広がる情景はこの男にとって自画像のようなものであったのかも知れない。

「犬は太古からずっと人間の友であったが、今また都市のスカベンジャーとして我々の役に立とうとしている。健気なものだ」

 香織は少しうつむいたまま、何も言わず、隣を歩く男の手をやんわり握り返した。

 二人は近くの舎人公園まで歩いた。

 区内随一の面積を誇る広大な公園であるが、今は訪れる人もなく異世界のような静謐の気が満ちていた。白々とした月光の照らすベンチに須田と香織は二人座った。ゆるやかな風が男と女の髪を揺らした。

「涼しくて気持ちいいわ」

 その晩香織は白いコットンのワンピースに水色の薄手のカーディガンを羽織っていた。何を着ても美しい女だった。家から持って来た昨日のマルゴーの残りを二人でちびちびと飲んだ。

「ねえ、フリーのライターってどういう仕事をなさるの」

「ちぇっ、またその話かい」

 須田はグラスを手に、あからさまに不機嫌な顔をした。

「物書きだからね、物書く仕事は何でも引き受けた。ポルノとか、偽の体験談とか、有名人さんのゴーストライターとか。他にも翻訳とか、あるいはまた文学賞の下読みとか。まるっきり都合のいい便利屋だよ。笑っちまうよな。年収六十万円のゴキブリ男が年収六億円のスターさんの『自伝』を書いたりするんだ」

 須田が自嘲むき出しで笑う。香織はちょっと向きを変えてみた。

「翻訳とかもするのですか」

「うん、味気のない仕事でね。ポルノとか書くのはあれで創作の楽しさとかあっていいのだが、翻訳にはそういうものが全くない。原著に共感出来ない部分が多いと、ただもう苦役となってしまう。じゃあってんで拙速に訳すと今度は読者から苦情が来る。俺の翻訳ミスを一つ一つあげつらって、あなたの仕事にはやる気が感じられない。二度と翻訳などしないでくれ、とか言われちまう。手厳しいが全くその通りじゃねえか」

 須田は一つ長い溜息をついた。

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