《 五日目 》つづき

 須田がグラスに注いでくれたマルゴーはたちまちの内にダイニングを夢見るような熱帯の花園に変えてしまった。何という豊麗な香りだろう。香織はゆっくりとグラスを口元に運んだ。

「素晴らしいわ。森の中のお花畑みたい……」

「むう……ここで何か格好いい修辞でも言いたい所だが、正直な所あまりにも高級過ぎてオイラにはよく分かんねーぜ」

 香織がクスリと微笑して、一口二口とワインを飲む。頬がほのかに紅潮して来る。

「……ねえ須田さんは何をしていらしたの。何かお仕事はしてらしたのでしょう」

「俺はご覧の通りのホームレスだよ。社会の落ちこぼれ。人生の負け犬」

「違うわ。フランス語はお出来になるの? さっきワインのラベルをすらすらと読んでいらしたわ」

「それくらいは別に珍しくないだろう」

「あの、綾音に『ゴーシュ』を読み聞かせて下さった時……あの時リビングには賢治の本はなかったはずです。私の私室にはあるのですが、ちゃんと鍵がかかっていました。仮に本があったとしても電気が止まっていますから暗くてとても読みにくかったはずです。あなたはどうしてあんなに滑らかに朗読が出来たのでしょう」

 花の香りの漂うダイニングにわずかな沈黙が訪れた。

「もしかしてあなたは『セロ弾きのゴーシュ』を全て暗記なさっていたのですか?」

 香織にとってそれはちょっとした神聖な問いであった。けれども男ははぐらかすように冗談めかして答えた。

「ふむ。確かに吾輩『ゴーシュ』は憶えておる。おっほん。あと芥川と太宰と菊地秀行も少々な」

 芥川と太宰。香織の頭の中で一枚の写真がぼんやりと浮かび上がる。悲しそうな目をした男。あれは誰だったかしら。菊地秀行という人の顔は知らないが。

「あの、あの、じゃあ須田さんは作家をしてらしたのですか」

「違うよ。作家を目指していたのが挫折して今こうしているわけ。ははは、情けないやね。俺はフリーのライターだったんだよ。出版業界の都合のいい便利屋。いや俺なんかの話をしても下らない。もう寝よう。ほら今度はベッドの上で俺が奥さんを質問責めにしてやるぜ」

「まあ」

 香織の顔がいい色に上気したのはワインのせいばかりではない。

「質問責めはいいですけどベッドの上はダメですよ。私生理が始まってしまったんです。生理中にするとシーツが血だらけになって本当大変なんですよ」

「ふーん、女の体は神秘的だねえ。満月と連動かい?」

「はい大体。私はとても安定しているんです」

「ふむ。で、そういう時に旦那が求めて来たらどうすんだい?」

「はい、あの……それは色々」

「色々では分からないよ奥さん」

「ぐ……具体的に話さないといけませんか」

「まあ夜も長いし。より具体的な方が男性ファンは喜ぶだろうね」

「あ、あの須田さん……もしかして今とってもニヤニヤなさっていませんか?」

「君は超能力者だね。そうオイラの顔は今とっても鼻の下が伸びておる。まさにカピバラだな」

「カピバラ化なさっているんですか」

「まごうかたなきカピバラだな」

 男は目をつぶって深々とうなずき、女は目を見開いて笑った。

「け、けだものなんですね、やっぱり」

「うむ。俺が今奥さんの体のどの部分を見ているか当ててみたまえ」

 酒のせいかどうか、香織はもう耳まで赤くなっていた。軽く顔を傾けて、少し上目づかいにして、対面の男を甘く睨み返した。

「私のどの部分をお望みなんでしょう、カピバラさん?」

「そうだね、とりあえずもう少し近くに来てくれると嬉しいかな」

「はい」

 香織は艶冶に笑って席を立つ。まるで目でも見えてるかのようにスムーズにテーブルを回って、そうして須田の前に座った。童女みたいに床の上にぺたんとである。香織はその日夏の黄色いワンピースを着ていたので、そういう風に座るとスカートの部分が床に広がって花のように見えた。

「来ました」

 とあどけなく笑う。さほどの量でもなかったはずのワインは香織の血管を回り始めていたようだ。カピバラ男はそんな花のような女をしげしげと溜息まじりに見下ろした。

「可愛いなあ」

「ありがとう」

「奥さんの全部が欲しい……と言ったらあなたは困るかな?」

「困ります。私は達彦さんのものなんです。須田さんには少しだけ上げます」

「ちぇっ」

「ちぇじゃないですよ、もう」

 香織は誰よりも愛らしい困り笑顔を破裂させて、それから自分のスカートの裾をほんの少しだけ持ち上げた。白い二つの膝が男の目に入るように。

「本当に少しだけですからね」

 そう言って香織はまた少しスカートの裾を引き上げる。男の鼻息が荒くなったのが可笑しくて、また少し持ち上げる。それからまた少し。男が大喜びしている。闇の中で浮かび上がる自分の太股の白さというものを香織は少しだけ計算に入れていた。

 どこまでスカートをまくった時点で「彼」が動き出すか……香織の心臓はトクトクと小刻みに鳴り響いていた。白い太股の内側の奥の方には、昨夜この男が付けたキスマークが赤々と残っている筈だった。あの行為の激しさを思い出して香織はくすぐったいように身をよじり、苦笑を漏らした。

「本当に少しだけですからね。私は頭のてっぺんから爪先まで達彦さんのものなんです」

 酔っ払った赤い目で男を見上げながら香織はまたスカートをじわりと持ち上げた。そういえば夫の達彦とはこういう夜の遊びをした記憶がないのが香織には不思議な感じだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る