《 五日目 》つづき

「香織」

 と呟いて、達彦はそのスマートフォンを自分の血まみれの額に押し当てた。どこか遠くの方でウミネコが鳴いているのが聞こえた。

 あれは一週間ぐらい前だったろうか。達彦はささいなことで香織と口論になり、感情的に声を荒げてしまったことがあった。実にささいなことで、子供っぽくである。そのことを今になって達彦は悔いた。

 俺はいつもあの優しい香織に甘えていて、自分勝手で、幼稚で、馬鹿だった。あの時も俺は怒った風な様子で香織を困らせてやりたかっただけなのだ。何てガキなのだろう。今になって香織に謝りたい。ほんの一目だけでも、会って、香織に謝りたい。ほんの一目だけでも……。

「ああ香織」

 どことも知れない橋のたもとで、男はスマートフォンを額に押し当てたまま顔を伏せていた。誰かが遠くから見ていたら、その姿は祈りの姿勢に見えたかも知れない。

「香織あのとき……俺は怒ったんじゃなかったんだ」




「おれは怒ったんじゃなかったんだ」

 夕食の後で、ホームレス須田は綾音に本を読み聞かせていた。宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』だった。

 須田の朗読は朴訥なものだったが、香織の胸に深く響いていた。何のてらいも飾り気もない男の声は不思議なほどの真実味が籠り、まるで宮沢賢治その人が朗読したらこうであろうと思わせるような。

 綾音もすっかり満足したようで早めに寝入ってしまった。香織は少し気になることがあったので私室に行ってみた。ドアを入念に調べてみるが、確かに鍵はかかっている。

 リビングに戻ってみると、隣のダイニングから須田のブツブツとした独り言が聞こえた。

「……マルゴーにラフィット……かーっオーブリオンまであるぜ。ボルドー五大シャトー全部揃えてやがるのか、俗物が」

 ダイニングの一隅に据えられたワインセラーの前だった。香織は男の背中の辺りまで歩いた。

「それは夫の大事なコレクションです。勝手に飲んだら犯罪ですよ。夫が一番大事にしてるんですから」

「ふーん、そいつあ嘘だな」

「え?」

「もし俺があんたの旦那なら、一番大事なのはあんただ」

「もう」

 この男ちょっと口のうまい所がある。気を許してはならない。根は品性下劣なホームレスなのである。

「二番目が綾音ちゃんだとすると、ここにあるブドウの搾り汁どもは三番目以下だ。飲んじまおうぜ。どうせこの暑さで放っておくと傷んじまうからな」

「須田さん、うちの人と決闘するつもりですか。うちの人は柔道の黒帯で体も大きいですからあなた負けてしまいますよ。あたし助けてあげませんから」

「俺みたいなのはどうせ負け続けの人生だから今さらもう一つ負けた所でどうということもない。さあ奥さん。シャトームートンにシャトーラトゥール、何でも飲み放題だ。何にする?」

 何だかんだと押し切られて、香織は苦笑しつつワイングラスを探しに行った。目は見えなくとも家の中のことならば大体把握してあるのだ。

 それにしても……と香織は思う。あの男ワインのラベルが読めるのであろうか。フランス語のはずであるが。

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