《 五日目 》
ぼんやりと光を感じている。
小鳥の鳴き声が聞こえる。
朝のたゆたいの中で、香織は自分が変わってしまったことを悲しく自覚していた。
夫を完全に裏切ってしまった背徳感と体の奥の方の火照りがない交ぜになり不思議な感覚だった。
「すっかり明るくなっちまったなあ」
須田が茫洋とした声音で言った。暁の交わりの疲労で、男はしゃべるのも面倒臭そうだった。
「今何時ですか?」
須田の腕枕に頭を乗せて香織は訊いた。口元にはまだ少し須田の白い体液が残っていた。飲んだのである。夫以外の男の体液を飲んだのは生まれて初めてのことだった。今は香織も須田も身に一糸も纏っていなかった。
「うーん、もうじき六時だな」
「綾音に朝ごはんを出してあげないと。用意出来ますか?」
「ちぇっ、もうお母さんモードかい。はいはい、そういう約束だったな。じゃあ俺っちは朝飯を作って、そのあと一風呂浴びようかな」
「逆でいいんじゃないかしら。先にシャワーを使われたら」
「そうかい? じゃあそうしようかな」
須田は香織の額に軽くキスをしてから全裸のまま階下へと降りて行った。夫婦のような振る舞いに香織も思わず苦笑する。何て図々しい男なのだろう。
それにしても今須田の言った「もうお母さんモードかい」には少し違和感を覚えた。いや違和感というよりデジャヴー。前にもどこかで聞いた気がするのである。映画かテレビだったろうか? いや違う。香織の愛読書の『オペラ座の黒猫』の序盤で夫が妻に言うセリフなのである。まあよくある言い回しではあるが。
香織も起き上がって、身に下着を着け始めた。寝室にも朝の光が満ちて来るのが分かる。見えないはずの朝日が妙にまぶしく感じられて香織はふっくらと微笑した。
乱れ切ったベッドのシーツも洗濯しないといけない。
(あの人は家事を手伝ってくれるのかしら……)
と香織はぼんやりと考えていた。
橋の上であるらしい。
緩い登り勾配である。
開けた空間だ。
水の匂いがする。
他より冷たい空気が通っている。
たとえ目は見えなくとも色々なことが分かるものだ。
達彦はその橋の上でしばし彼方を眺めた。朝日が右手より当たるから北の方角を向いている。静かだった。
いっそこの水に飛び込んで楽になってしまおうか……などと馬鹿げたことは考えない。自殺などというのは社会の落ちこぼれのすることだ。この俺様はそんな奴らとは違う、と達彦は思った。
俺はエリートだ。優秀なのだ。こんな状況の中でも取りあえず生き延びているのは俺の強さの証明に他ならない。ざまあみろ。
弱者どもめ。お前たちは泣きながら「助けてえ」とか言いながら死んで行くがいい。俺は違う。歩く。自分で道を切り開く。
歩き始めた達彦は数歩で何かにつまずいて転倒した。どこかに額をぶつけた。痛みで思わず首を振る。手首もひねったようだ。
畜生めと達彦は大地に毒づいた。何につまずいたのかはすぐに分かった。死体である。またどこかの弱者様がこんな所で死んでいるらしい。
「クソッタレ」
達彦は忌々しげに吐き捨てた。立ち上がろうとしたが足に力が入らなかった。無理をして体に力を入れると、その拍子に水のような下痢便をズボンの中に漏らした。
笑おうとして笑う気力も湧いて来ないことに達彦は気づいた。とりあえずズボンだけを脱いで、そしてまた達彦は立ち上がった。
五六歩歩いて、ふとズボンの中にスマートフォンを入れっぱなしだったことを思い出して、戻って来てその小さなマシーンを抜き取った。おそらくもう電池は切れているだろうが……それでも達彦はこの小さな板状の機械を捨てることが出来なかった。
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