《 四日目 》つづき
須田はベッドの傍らに立つと香織を抱き寄せた。熱い息を香織の髪やうなじに漏らした。
「へっへっへ、いい匂いがするぜ奥さん。牝の匂いだ」
「やめて。変なこと言わないで」
五歳の綾音は雷鳴を怖がったこともあって、一階の部屋で早めに寝付いていた。時間はたっぷりとあるが、香織は出来るだけ事務的に、迅速に済ませたかった。普段の夫との夜の営みも三十分ほどである。ほんの三十分だけ我慢をすればいいのだ……と。
ひょいと抱き上げられた。
無重力状態のように香織は浮き上がって、そうしてベッドの上に寝かされた。まだブラウスにスカートという普段着のままだった。
すぐに男が体を重ねて来た。
首筋が舐められ、耳元が舐められた。男の舌はねっとりと下降して行って、ブラウス襟元に達した。胸元のボタンが外され、そこをきつく吸われた。香織は息を飲んだ。
「キ、キスマークは付けないで下さい」
「いいじゃねえか。誰が見るわけじゃねえし」
その通りだった。もう夫の目は気にしても意味がないのだ。香織は今さらのように暗い気分になった。香織の表情の変化が見えたのか、男が不意に優しげな声を出した。
「旦那のこと思ってる?」
「当たり前です」
「うん、いい奥さんだ。あんたほどの女にそこまで思われて彼も幸せだな。きっと明日あたりひよっこり帰って来て……俺はオサラバのハッピーエンドだ。今晩だけ思い出を貰っておくよ、可愛い奥さん」
いつになく神妙なものの言い方に、男の言葉が香織の頭の中で反芻される。
今晩だけ……
明日あたり夫がひょっこり帰って来る……
そうだといいと思う反面、それは全く希望的観測だとも思う。「あんたの旦那はもう死んでいる」とはっきりと言ってくれた方が楽になるような気がする。そう言わないのは、これでこのホームレス男は優しい男なのだろうか……?
香織は何だかよく分からなくなって来た。男が口づけして来たので、反射的に夫に返すように香織は口を開いた。
夜の八時が九時になり、いよいよ本当の売春婦になる瞬間が近づいた時、香織はためらった。
これで間違いなく夫を裏切ることとなる。
心の底から申し訳ないと思う。
ただその一方で、このホームレスが香織と綾音の命の恩人であることもまた確かであり、何らかの意味においてこの男に返礼しなければならないという義務感も香織は持っていた。この男が香織の持っている家庭的なものを欲しがっている以上、その夫婦の寝室で応接することもまた致し方ないと思えた。香織は夫以外の男を一人も知らなかったので、それは清水の舞台から飛び降りるような大変な冒険だったが……。
廃墟を照らす月光は冷ややかに寝室にも注がれ、雷雨の後の涼風が秘めやかに窓から流れ込む。白いベッドの上で、桃色の肌をした香織の肢体がたおやかに揺れた。その動きは機械的であるのに柔らかく、また厳粛であり、さながら巫女の行う神聖な儀式のようであった。
「上手だ奥さん」
男の誉め言葉を聞いて、香織の汗まみれの顔の筋肉がふっと緩んだ。三十分のつもりであったのに……いつの間にか香織は時間を忘れていた。
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