《 四日目 》
王子家の日めくりカレンダーは七月十五日から見放されたままである。日めくりとは言っても三十一枚しかないタイプの物で、画面の大部分には短い詩が書かれてある。相田みつを風の崩した書体のよくあるああいう物である。「十五日」の分にはこんな詩が掲げられていた。
「踏まれても、踏まれても、へこたれない、雑草の強さを学びたい。……ふーん」
どこか冷笑的な響きでホームレス須田がその詩文を読み上げた。黒涙病が日本に上陸してから四日目。男はその日も王子家にやって来ていた。
「大変いい言葉だが、実際には雑草も踏まれれば重症を負うし、死んでしまったりする。死んだ雑草のスペースに別の雑草が伸びて来てなに食わぬ顔をしているので俺達が気づかないだけだ。大輪のヒマワリはあたしさびしいのとうそぶいて人々の同情を買い、雑草は何も言わずに枯れて行く。この日めくりカレンダーの詩人さんの言う雑草の強さの正体は、つまる所一本一本の雑草の死に対する無関心に他ならない。……実に悲しい詩だねえ」
世の中の片隅の片隅に生きる男らしい幾らかひねくれた感想を香織は神妙に聞いていた。決して心を許したわけではない。「おじちゃんおじちゃん」と綾音が懐いてしまったので仕方もないことだった。香織は決して愛する夫の帰宅を諦めたわけではなかった。
それゆえに
「ちょっと奥さんの体に触りたい」
などと図々しいことを男が言った時に香織は激烈に腹を立てた。泣き出さんばかりに怒った。
「けだもの」
と男を罵った。ゴキブリのような男だと心から思った。
「私たちは病気のせいで目が見えなくなって苦しんでいます。あなたはそういう人の弱味に付け込もうとするのですか。それは人間のすることではありません。卑劣です。これ以上ないほどの卑劣です。最低の、薄汚い、人間のクズです」
「ふむ」
と須田は感心したみたいな顔で香織の言葉を聞いていた。薄暗い廊下の隅で、須田の手は香織の腰を抱いて、もう片方の手で淡い緑色のスカートに包まれた香織の尻をゆったりと撫でていた。
「言葉に真(まこと)あれば自ずと散文になり……って言ったのは宮沢賢治だったな。真のある言葉というのは美しいものだ。例えそれが罵倒であってもな。きれいごとを言うどこかの詩もどきとはまるで別物だ。もう少し続けてくれ奥さん」
「あ、あなたは下劣な人です」
「うむ」
「あなたは穢らわしい獣です」
「うむ」
「下品で、不潔で、どうしようもない人です」
「うむ」
須田は香織をぐっと抱き寄せてその黒髪に鼻を突っ込んだ。香織の滑らかな頬に自分の頬を合わせる。溜息のように熱い息を香織の耳に吐いた。まるでそうすることが当たり前であるかのように、流れるような手順で男の手は香織の片方の乳房をゆっくりと揉みしだき始めた。
「あ、あなたは、あなたは……」
「混じり気のない純粋なる心からの言葉。何という美しさだろう。夏の澄み切った青空のその山の端に立ち昇る純白の入道雲を見るかのようだ。もう少し続けてくれ奥さん」
「さ……最低の、薄汚い、人間のクズ」
「うむ」
白いブラウスに包まれた香織の胸の膨らみの質量を確かめるように男の右手が左の山を下の方から力強く持ち上げた。歩くだけで揺れる香織の乳房は、夫以外の男の手によって悲しくその目方を量られた。須田が一言二言その量感を褒める。軽い調子でブラジャーのカップを問う。香織はプイとそっぽを向いて答えない。男は笑って香織のことを可愛いと言った。香織は首を振って小さな喘ぎ声を漏らした。
「私は結婚しているんです。夫がいます。夫を愛しています」
「ふむ、あなたの心まで欲しいわけではない。ちょっとだけだよ奥さん。ちょっとだけ。どのような意味においても俺みたいな男があなたの旦那に勝てるわけもない」
「そ……それでしたら約束して下さい」
香織の目の縁には黒い涙が一杯に溜まっていた。その見えない目で香織は誇り高く男を見返した。圧倒されるように須田の身がわずかに離れた。
「何かな奥さん?」
「必ず避妊をすると約束して下さい。必ず」
香織は男に正対して、その顔をやや下の方から見上げながら、巫女のような厳粛さで言った。男はゆっくりと一度頷いて言った。
「分かった」
「それでしたら、あとは……あなたの自由にして下さって結構です」
香織の目から黒真珠の如き涙が一滴こぼれて、その美しさに堪えかねたように男の口が涙を吸い取った。
「奥さん」
と言いながら男の手が香織のスカートに包まれた尻を撫でさすった。良人を裏切る悔恨の念に、香織の柔らかな体が男の腕の中で一度ぶるっと震えた。
江東区の砂町である。
灼熱の永代通りを一人の男がヨタヨタと歩いていた。
王子達彦である。
白かったシャツは血や泥で汚れ、無精髭は伸びて、歩様にも乱れがあった。
片手に二リットルのペットボトルをぶら下げていたが中身は空だった。虚しくペットボトルに形だけ口をつけて、また男はヨロヨロと東へと歩き出した。
「俺はエリートだぞ。雑草じゃねえ」
とまるで老人のように独り言をした。強靭な意思の光を放っていたはずの目は、どこか焦点が定まっていなかった。
達彦は体調不良に悩まされていた。
下痢が止まらないのである。
昨日食べた物の一つの調理パンはやけに酸っぱい味がしたが、あれが腐っていたのだろうか。水のような便が続き、情けないことにズボンの中にも少しもらしてしまった。
(ああ、どこかでズボンを取り替えたい)
(喉も渇いた)
(腹も減った)
(足が痛い)
(ああ……)
午後の何時頃なのであろう。男の上空で積乱雲が急激に発達し、天が墨汁をこぼしたようにどす黒くなり始めた。
遠くで雷が鳴るのが達彦の耳に聞こえた。
どこぞから冷たい空気が流れ込んで来る。
感覚が達彦に自身をとりまく環境の急変を知らせていた。
(夕立か)
ありがたい。これで暑さも喉の渇きも癒せる。そう思っている矢先に、どっと埃っぽい臭いに包まれた。大粒の雨がぼつりぼつりと落ち始めた。達彦は天に向かって万歳をした。
引き裂くような雷鳴が轟き、雨はあっという間に土砂降りになった。達彦は踊り始めた。命の雨、希望の雨、光の雨であった。
「香織」
最愛の妻の名を叫び、ついでのように神様と叫んだ。川のようになった永代通りに寝転んで、達彦は笑いながら泣いた。
ああ必ず帰る。生きて帰る。絶対に帰る。
暗雲も突き抜けよとばかりにもう一度「香織」と叫んだ達彦の声は、同時に響いた雷鳴の中にすっかり飲み込まれて誰の耳にも届かなかった。
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