《 三日目 》 つづき
王子達彦は月の下を歩いていた。
白いシャツは血や泥で汚れて痛々しいが、その足取りは悪くなかった。夜歩くのはそういう戦略だった。炎暑の中を歩くよりも遥かに消耗は少ない。目論見通りの成果に達彦は満悦した。けれども困ったこともあった。
道を尋ねるべき人の数が少ないのである。動物的本能で夜はどこかにもぐり込むのであろうか?
そうだ。達彦本人も夜は屋内のソファーなどで寝ていたではないか。あの虫ども思い出すだけで虫酸が走る……。
人間というのは屋外には住めない生き物なのだ。体毛が薄すぎて、外界との接触に敏感過ぎるのである。人間は進化した猿などと言われるが、その割りにはどうしてこんなに弱い皮膚が出来上がってしまったのだろうか。敏感な皮膚が役に立つ局面などごく限られていると思うのだが……。
たまに道端に人がいても「うるせえ」と罵られたり、あるいは全く反応がなかったりする。そういえば三日目の夜のはずである。そろそろ餓死や衰弱死する人が出て来てもおかしくない。
また前方に人だかりの気配があった。スーパーがあるのであろう。
このごろ音や臭いに敏感になっている。まるで野性動物のようだと達彦は自分自身の変化を苦笑した。
いつものように達彦は争奪戦に加わった。しかし少し様子がおかしかった。
女の声である。
押し殺そうとしているのに勝手に漏れてしまうという種類の声である。喘ぎ声であった。右の方からも左の方からも聞こえた。
あいつらは一体何をしているのか。
(ふざけている)
と困惑と怒りが同時に達彦を包んだ。
達彦のすぐ前にも女がいた。やや前屈みになって、食べられそうな野菜を探しているらしい。後ろから押されて達彦の体が女の体にきつく押し付けられた。女は張りのある尻をしていた。甘酸っぱい牝の汗の匂いが達彦の鼻をくすぐった。その匂いは鼻から背骨まで染み透って、電撃的に達彦の脳を震わせた。ふっと達彦の頭が真っ白になった。
相変わらず左右から女の声が聞こえる。呻き声、喘ぎ声、すすり泣きが聞こえる。退廃とはゆっくりとした自殺であると誰かが言っていた。その声の発信源たちは、半ば生を諦めて、最後の歓楽を尽くさんと欲する絶望者の群れであったのか。
達彦はすぐ前の女の腰を両手で握った。女は薄手のワンピースを着ていた。痩せ型の体であるが臀部がよく発達している。目が見えなくなってから指先の感覚――触覚が鋭敏になって来ていたが、今達彦の手は握っただけの女の体からまるでレントゲン写真のように女の骨格を見ていた。タラバガニの脚のように張り出した骨盤はいわゆる安産体型というものである。痩せ型ではあるが成熟した女なのだ。
(いい女だ……)
達彦の触覚は達彦の脳にそう伝えていた。その豊かな尻をぐっと引き付けて達彦は前屈みになり女のうなじに吸い付いた。達彦の下腹はすでに激しく充血している。白くなった頭の中で男はぼんやりと何かの詩を思い出していた。
おお兄弟たち
国境も、宗教も、財産も放棄しよう
共有しよう
兄弟たち、世界を共有しよう……と。
女ははじめ抵抗していたが、やがてその抵抗は形ばかりのものになった。達彦の手によってワンピースとその下のスリップを背中の方までたくし上げられ、下着を膝まで下ろされると女は大人しくなった。剥き出された裸のウエストに男の十本の指が食い込むと、女は背中を落とした。男が入りやすいように二本の脚を鳥居のように開いた。この女ももう何かを放棄してしまったらしい。達彦は固くなった物をズボンの中から取り出すと女の中心部に宛がった。目をつぶって深々と沈めて行った。
「ああ香織」
味わうようにゆるゆると動いていたのが、次第に激しい動きになって行く。女が泣き始めた。男の爪が女の張り出した尻に食い込んだ。
「ああ香織、香織」
たまらなかった。女のワンピースとスリップをさらに大きくたくしあげて背中を裸にさせた。滑らかな皮膚の感触が陶酔的だった。ブラジャーの背中のホックを外して、後ろから胸の膨らみを揉んだ。妻とは違う薄めの胸の感触がフレッシュで逆に男を昂らせた。
「香織」
愛する妻の名を叫びながら、男は見知らぬ女の子宮の中に自分自身を漏らした。腰骨の震えは驚くほど継続的だった……。
あちこちで女が声を上げている。潰れた果物の甘い香りが辺り一面に漂っていた。闇と熱の底で、法もモラルも秩序も、何もかもがゆっくりと腐り始めていた。汗まみれの肌を露にしてコンクリートの上で蠢く男と女の群れを、満月に近い月光が冷ややかに、冷ややかに、冷ややかに照らしていた。
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