《 三日目 》


 闇の中の生活が始まって三日目の朝なのだか昼なのだか――時間の感覚がぼやけていた。

「ロッキーちゃんはどこ、ロッキーちゃんはどこ?」

 綾音が悲しげに呼んでいる。そう、犬のロッキーがどこかに行ってしまったのだ。あの頼もしいロッキーが。

 暑いので窓を開け放していたのがいけなかったのか。一時的なものですぐに戻ってくるのか、香織には分からなかった。綾音が泣いていた。香織も泣きたい気分だった。

「すぐに戻って来るよ、パパと一緒にね。ちょっと迷子になっているだけ……」

 娘を慰めているのか自分を慰めているのか知れない。ひどい空腹でもう何もする気がなくなっていた。このまま死んでしまうのだろうか。死というのはこんなに呆気ないものなのか。ああ、夫の達彦はいつになったら帰って来てくれるのか。

 死にたくない……。

 見えない目を茫然と虚空に投げ出して香織は三途の川の舟上の人だった。その耳に音が聞こえた。

 ドンドン、ドンドン、と。

 玄関を叩く音である。

 ああ、ついに夫が帰って来てくれたのか?

 いや違う。またあのホームレス男がやって来たのだ。叩く音に癖がある。あの品性下劣な変態ホームレス……。

 ああ、でももし夫だったら……。

 香織は玄関までヨロヨロと歩いた。

「よう。追い返さないでくれよ奥さん」

 ホームレス須田であった。声ですぐに分かった。臭いがしないのは昨日うちでシャワーを使ったせいだろう。かすかに夫の匂いがするのは、おそらく昨日香織の用意した達彦のシャツやズボンをこの男が身に着けているためだと思われる。ニヤニヤとした下劣な笑みを浮かべた顔が目に浮かんで香織は腹が立った。

「お帰りになって下さい。あなたに用はありません」

 香織は精一杯の威厳を作って冷たくそう言った。ドアを閉めようとした。

「まあまあ、そう言うなって。今日はいいモン持って来たんだよ。これ携帯ガスコンロ。これでちょっとした料理も出来る。ラーメンとかカレーとかな。ああいうのはまだスーパーにいくらか残ってるんだよ」

 ホームレス須田はまた勝手にズカズカと上がり込んで、勝手にお湯を沸かし始めた。

「毛長川でよう、鮒でも釣って来ようと思ったんだが、あんたらの口には合わねえだろう。ありゃ泥臭えからな……おやおや? 綾音ちゃんは何で泣いてんだあ。おじちゃんが今おいしい物を作ってやるからな」

「ロッキーちゃんがいなくなっちゃったの」

「ロッキーちゃん?」

「うちで飼っている犬です。いつの間にかいなくなってしまって。いい子だったのに」

 香織は白い眼差しで不機嫌さを隠さずに説明した。火を使うと部屋の中の暑さもひとしおであった。

「犬だったら表にワンサカといるぜ。群れを作ってな。あいつら腹が減ったら何を食うんだかあんまり想像したくないねえ。あれで犬ってのはとてつもない雑食でねえ。何でも食っちまうんだ。死体とかウンコまでね。お犬様のエサがニンゲン様なんて勘弁して欲しいよな」

 そうか……と香織は思った。犬がそんなに沢山逃げ出しているとは。どこの家でもおそらく窓は開け放しであろうし、犬の世話どころではないから無理もないかも知れない。愛読していた『月と梅と夢』の中に『ラブラドールの帝国』という短編があった。人と犬の上下関係が逆転した世界、何もかもがひっくり返った世界、人が犬の奴隷や食糧になったりする世界を描いた物語である。何でそんな小説のことを思い出したのだろう。もう二度と本など読めなくなってしまったのに。

 出来上がったラーメンは色々と具の入った物でとてもおいしかった。いや男の作ったラーメンがどうこうというより、これは空腹のせいであろうと思った。なにしろ具の中の一つには胡瓜なども含まれていたが、普通は胡瓜入りのラーメンなど考えられるだろうか?

「綾音ちゃんは可愛いなあ。もう少し大きくなったらおじちゃんのお嫁さんになってくれる?」

「うんいいよ、おじちゃん大好き」

「はっはっは、やったぜ、俺に婚約者が出来た。これは夢のようだ」

 須田と綾音はすっかり仲良くなってしまって香織は少し腹が立った。もしかしたらこの男は幼女趣味の変態なのであろうか。いわゆるロリコン。真・変態男。ありそうな話だ。そうならば許しがたいことである。食事の後で、香織は須田の袖を引いて廊下に連れ出した。

「あ、あの須田さん、色々とご親切にして頂いて有難いのですが、あの、綾音はまだ子供ですから。ほんの五歳なんです」

「何の話だい奥さん」

「綾音はまだほんの子供だと言ってるんです。あの子に何かしたら私あなたを刺しますから」

「ははーん、これはおっかないな」

「とぼけないで下さい。あの子が目当てなんでしょ? そんなこと絶対に許しませんから」

「これはこれは」

 と須田は俳優みたいに大袈裟に肩をすくめた。そんな芝居がかったポーズは誰が見ているわけでもないが声音にも滲み出た。

「そんなことを言ったら、俺は目の前にいる奥さんの方がよっぽど興味があるのだけどね」

 言いながら須田は香織のあごを指で持ち上げた。ぶしつけな男の指を香織は般若のような表情をして振り払った。

「やめて下さい。私、昨日男の人に襲われたんです」

「おいおい、あれぐらいの悪戯で襲われたとか言われたら地球上の男は全員性犯罪者になってしまうではないか」

「違うんです、あなたじゃありません。あの後で私は食べ物を探すために外に出て……道の真ん中で誰だか知らない男に襲われたんです」

「な、何だって」

 男の声の中に何か汚いもの、穢れたものを見るような響きが含まれていたような気がして、気のせいでも何でも香織は大慌てで否定しなければならなかった。

「ち、違うんです、襲われていません。私は抵抗しましたしロッキーも助けに来てくれたんです。家のすぐ近くだったんです。あの男は逃げました」

「ははあ、それは良かった。ちょっとびっくりした」

 須田は額の汗を拭ってからもう一度香織の体に触れた。今度は腰を抱き寄せながら滑らかな頬を指先で撫でた。香織は物凄い目をして男の顔を睨み返した。

「あ、あなたもあの男と同じ種類の男なのですか。そんなことをして人間として恥ずかしくありませんか」

「うんうん、まあ何とでも言ってくれ。こういうのはね奥さん、何というか仕方がないのだよ。奥さんを嫌な気分にさせて悪いのだが、ちょっとだけ我慢してくれ」

 そう言って須田は香織を抱き寄せてその口を吸った。

 一瞬気が遠くなりかけたのを必死にこらえて、ほんの数秒間だけ男に口を許してから香織は須田の顔を力一杯に引っぱたいた。須田は軽やかに子馬のように笑った。

「また来るよ」

 そう言って男は去って行った。

 灰色の闇の中に佇む香織の前に残り香ばかりを置いて行って。

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