《 二日目 》つづき
あのおぞましいホームレスを退散させてから香織は考えた。何とか食糧を調達しなければならない。食べ物がないからあんなホームレスに足元を見られてしまうのだ。最も近いスーパーの『レンゴク』は歩いて十分もかからない。すぐそこである。行くべきだ。
(家を出て右に曲がり、また右に曲がり、百メートルほど真っ直ぐに行って、そこから……)
香織は頭の中に地図を描いた。
けれども一歩家の外に出たとたん、香織を取り巻いたのは暗黒の深淵であった。頭の中に入っていたはずの地図は真っ白になった。恐怖が全てを打ち消してしまうのだ。闇の中を進んで進んで、右も左も分からなくなり、もう家に帰ろうとしたが、今度はその自分の家が分からなくなった。感じたこともないほどの絶望的恐怖に香織は全身が震えた。
「誰か助けて」
黒々としたタールの沼に首まで沈み込んでしまった幻想に香織は囚われた。助けを求める声が漏れたのはまるっきり本能的なものだった。
「誰か……助けて」
「ヒャッ、ヒャッ、ヒャッ」
調子っぱずれな笑い声が聞こえた。聞こえたと思ったら、その笑い声は香織のすぐ傍まで接近していた。何かを感じる暇もなく、香織はその笑う獣に押し倒されていた。
まさかと思った。こんな真っ昼間の、こんな道の真ん中で。
その男は息を荒げていた。あのホームレス男かと思ったが臭いも声も別人のものだった。
「ヒャッヒャッヒャッ、誰も見てねえ、誰も見てねえよ、おばさん」
知らない若い男の声だった。きつい嫌な香水の臭いがする。言いながら男は香織の体をまさぐった。熱く生臭い息が香織の顔中を這った。二十八歳の既婚女性である香織の腰に、太股に、乳房に、若い男の十本の指が強い方向性をもって食い込んだ。
「やめて」
こんなことがあっていいのだろうか。世界はいつの間にこんな無法地帯になってしまったのか。香織は恐怖や怒りや羞恥や色々なものに惑乱しながら必死に抵抗した。だが男の力は強く、香織のブラウスの胸元のボタンは軽々と弾き飛ばされた。
「嫌っ、やめて」
「どうせもう終わりだ、終わりなんだ、ヒッヒッヒッ、死ぬ前に少しぐらい楽しんだっていいだろ、おばさん?」
この男も目が見えないらしい。やけくそになったらしい。冗談ではない。香織はまだそこまで捨て鉢にはなっていなかった。抵抗した。手を振り、身をもがいた。
けれども若い男の力は野獣のように強かった。香織は地べたに押さえつけられ、好き放題に男の手に蹂躙された。いつの間にかブラジャーまでずり上げられて、背中に回った男の手が香織の両の乳房を鷲づかみにした。香織は悲鳴を上げたがその声は虚しく闇の中に吸い込まれるばかりだった。近くで犬の鳴き声が聞こえた。
香織は地べたに這わされた。
男の手がスカートをまくり上げた。
尻が持ち上げられた。
男が後ろに回ったのを香織は感じた。
「お楽しみだよおばさん、人生ってのは楽しまなくちゃ損だろ? そうだろ? ヒャッヒャッヒャッ、楽しむんだ、楽しまないのは人生の負け組だ、なあ? そうだろ?」
「やめて」
パンティーが尻から下ろされるのを感じて香織の声は大きく震えた。外気に触れて涼しくなった香織の股間に何かが押し当てられた。黒い絶望の色が香織の額を染めた。
またどこかで犬が鳴いた。
ロッキーの声だった。
家は――香織の自宅はすぐ傍だったのである。
「ロッキー」
香織が呼びかけるより先に犬は男に飛びかかっていた。男の悲鳴と犬の唸り声が交錯した。
普段は大人しいロッキーだった。それがこのような勇猛な活躍をしてくれるとは香織も夢にも思っていなかった。男は犬の爪と牙と気迫の前にたまらず逃げ出した。闇雲に走り出した男はガードレールか自動車にでも激突したらしく鈍い音が鳴った。
「痛え、ちくしょう、痛え」
男の情けない声が遠ざかって行くのを香織の両耳の聴覚が確かな遠近感でとらえていた。香織は地べたの上にへたり込んだ。真上から灼熱の太陽が照らしてアスファルトの上は焼けつくようだったが香織はしばし動けなかった。自宅の庭のすぐ前の路上で愛犬を抱いて、香織は乱れた服装のまま力なく嗚咽し続けた。
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