《 二日目 》つづき
愛する妻からの電話は王子達彦にとって干天の慈雨となった。心身に新たな力がみなぎって来るのを感じた。
帰る。何としても帰る。
少しぐらい腹が減ったからといって何だと言うのだ。たったの十五キロほどではないか。その気になれば四時間で歩ける距離である。たったの四時間! 方向さえ間違えなければ何も問題ないのだ。
そのために大事なのは自分の現在位置を知ることである。この闇の世界で現在位置を知るとなると、これはもう人に訊く他はない。道で行き当たった人、道端でうずくまっている人に達彦は出来るだけ丁重な物腰で尋ねた。
「すみません、私家に帰りたいのですが、目が不自由になってしまって。ここはどの辺りなのでしょうか?」
誰もが失明と暑さと渇きと空腹でストレスは極大になっていた。実に些細なことで殴り合いのケンカになった。達彦は少々疲弊していた。もう真っ平だった。
人間関係というのは上下関係がはっきりしていればいるだけ堅牢堅固で、平和な関係であり、それが横の関係になればなるだけ緩い関係、不安定な関係、闘争的な関係となる。
今、世の中がパニックになっているのは魔の病気の襲来によって思いもかけない完全なる平等が発生してしまい、その平等が闘争を生んでいるからである。
これは何という皮肉だろう。
我々の社会は美しい平等を目指して発展して来たはずなのに、その美しいはずの平等が只々闘争しか生まないとは。
いや、これは皮肉でも何でもない。目の前にある現実である。闘争を避けるためには、とにもかくにも「上下関係」をはっきりさせねばならない。そのために達彦はあえて「下」の関係になることも致し方ないと考えた。達彦は出来る限り腰を低くして物柔らかに尋ねた。それでも返事がなかったり「うるさい」と言われたり「俺も知らん」と言われたりした。五人に一人ぐらいが親切に答えてくれた。
「私もよく分からないけど、多分駒形の辺りだと思う」
「押上だよ。スカイツリーの近く」
「家に帰るって? あんたの家はどこだい? 足立区? こりゃまた無茶な……」
どうやらこの辺りは墨田区のようだった。達彦はだいぶ東の方に来てしまったらしい。けれどもこれで何か希望の光が見えて来たような気がした。達彦は胸の中で愛する妻に呟いた。
ああ、帰れる、帰れるよ香織。
人だかりと果物の潰れた臭いによって、また近くのスーパーで食い物の争奪戦が繰り広げのが分かった。例によって怒号も聞こえる。誰もが殺気立っていた。一本のバナナ一個のトマトを手にいれるのに、罵り合い、殴り合い、引っ張り合いである。家に帰り着くまでに餓死するわけにはいかないので達彦も参戦せざるを得ない。掴みかかって来た男を思いきり壁に叩きつけたが、ひょっとしたらそいつは死んだかも知れない。他人を気の毒がっている余裕は今の達彦にはなかった。もしあの男がここで死んだならば、それはその男の生命力がその程度だったということだけなのだ。それだけなのだ。
苦労して達彦が手にすることが出来たのは一袋の胡瓜であった。達彦は胡瓜があまり好きではない。がっかりしたがそんなことを言っている場合ではなかった。とっとと食わないとまた誰かに横取りされてしまう恐れがある。是非もなく達彦は細長い野菜をポリポリとかじった。
「うまい」
それは信じられないほど美味な胡瓜であった。この香り、この甘み、この歯触り。何故こんなうまい物をたった今まで嫌っていたのか自分自身が信じられなかった。三本の胡瓜を食べて達彦は泣いた。内側から力と冷静さが甦って来るようだった。
そうだ冷静になるのだ。最も冷静なる者がこの闇の中の戦いを制するはずだ。
達彦は考えた。
昼間に歩くのは良くない。この炎天下である。どうせ目が見えないのだから夜に歩くべきなのである。その方が消耗は少ないはずだ。昼間はどこかなるべく涼しい所で休むのだ。
まだ胡瓜は残っているだろうかと思い、もう一度争奪戦に加わろうと達彦は立ち上がった。そして心に強く誓った。
俺は必ず生きて帰る。そうして俺の体験したことを『バトルインザダーク』というタイトルで小説にしてやる。ざまあみやがれ。
冬の柔らかな日差しは優しく人を癒すが、夏の苛烈な日差しは容赦なく人を痛めつける。飢えと渇きは人の気力すら奪う。黒涙病が致死性の病気ではないなどと誰が言ったのだろう。こうしている間にも人はどんどん、どんどん、どんどん死んで行く。
もうもうたる黒煙が我が物顔に都市を見下ろしていた。あちこちで火事が起きていたが消火の手はなかった。このような災害時に必ず聞こえて来るはずのサイレンの音がなかった。消防隊も救急隊も丸ごと壊滅してしまったわけである。すでに廃墟と言える街に立ち尽くし、天を見上げる毛瀬賢作の顔は虚無的に暗かった。
「俺に何が出来る?」
毛瀬は自分自身に、そして天に問う。しかし答えは帰って来ない。
人助けに走るべきか? しかし何人救えるというのだろう? スーパーなどに蓄えてある食料はじきに消え失せるだろう。あの一個のパンや缶詰は彼らの寿命を半日だけ伸ばすかも知れないが、しかしそれだけなのである。全く何の問題の解決にもなっていない。あの火事を消す力が毛瀬にないように、黒涙病という災害を前にして一個人で出来ることなどたかが知れていた。自分自身の明日すら覚束ないのが現実ではないか。
「偽善だ。絵に描いたような偽善だ」
毛瀬は自分自身を笑った。どうやらこの俺様は人助けという何か「いいこと」をしたというアリバイが欲しいらしい。そうして自己美化・自己弁護・自己正当化がしたいらしい。とんだお笑い草だ。どうせならこういう立場を利用して悪事の限りでも尽くしてみる方がよほどお前のようなゴミにはお似合いではないか。
「どうせ誰も見咎める者などいないよ」
そう一人うそぶいて毛瀬は邪悪な笑顔を作った。笑うことに慣れていない男が無理に笑顔を作るとこういう歪んだ顔になるらしい。
例えばどうだろう。今から上野まで行って美術館から名画の数々を頂戴して来るというのは? あるいは銀座の宝飾店に行って店中の宝石を盗んで来るとか。どこかのクルマ屋に行ってフェラーリとかランボルギーニでもかっぱらって来るかね? しかしあれはガソリンがないと動かないし、そもそも俺はクルマなんぞには興味なかったな。はっはっは。すると競馬場にでも行って豪勢に馬でも盗んで来る方が実用的かな? 馬も血統のいい奴は一億円以上するらしい。いやいや、牛飲馬食という言葉もある。あいつらは大食いだ。今は食糧問題が何よりも切迫しているからこれは却下だな。そうそう、あいつらは馬肉になってもらうのが一番だ。一億円の馬肉というのもゴージャスではないか。
国会議事堂だか都庁だかに行って、税金でもって私腹を肥やすことしか考えていないご立派な政治家様をぶっ殺して来るというのも面白いかも知れん。しかし残念ながらあいつらは放っておいても勝手に死ぬだろう。やれやれだ。大きな銀行なんぞに強盗に入ってもいいかも知れんが、さて現金の詰まった大金庫は開けられるのやら? さあ困ったぞ。そもそもこういう時世になってしまっては金など何の意味もなくなってしまったかも知れん。
はっはっは、ざまあないな。
とんだ廃墟の王様だ。
誰も見ることなく、誰も知らない闇の国の王に俺様はなりたいのかね?
毛瀬は歩き疲れて、いつもの公園の汚いベンチの上に長身痩躯を折り畳んだ。風がこの男の白髪混じりの髪を揺らせた。秀でた額と端整な口元が再び虚無の色に染まった。
「せめて雨でも」
とまた独り呟いた。
大雨でもあればあの火は消せるかも知れないが、あいにくこの俺様は雨粒の一滴だに降らす力も持ち合わせていない。そういうのは天の……神様の仕事だ。この廃墟の王様の無力なことは大都会の底を這いずり回るゴキブリにも等しい。
「こんな街なんか焼けちまった方がいいのかな?」
男はもう一度天に問うた。答えは返って来ない。白皙の相貌を歪めて天を見上げる毛瀬賢作の目には、青い夏の空に禍々しき竜の如く黒煙が立ち昇って行く様しか見ることが出来なかった。
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