《 二日目 》つづき
「旦那はまだ帰って来ないのかい」
このホームレス須田、頼まれもしないのに勝手にダイニングまで上がり込み、パンやスナック菓子の類を三人分に取り分けて、勝手に昼食をお膳立てした。香織親子にとって実に奇妙な白馬の王子だった。本当なら食品だけ置いて帰ってもらいたいのだが、さすがに香織の神経はそんなことが言えるほど太くはない。神経は太くはなかったが、ちょっとした嘘が言える程度の柔軟性はあった。
「はい、あの、彼も色々と大変みたいで。会社の中の揉め事を放っておけないって」
「ふーん」
「おじちゃん、すごーく臭ーい。どうしてお風呂に入らないの。すごーく臭ーい」
昨日に引き続いて、綾音が子供らしい非難を男に浴びせた。子供らしいとはいっても、その非難はど真ん中の豪速球であったので、図々しいホームレスもまたまた少したじろいだ。
「おじちゃんはお風呂あんまり好きじゃないんだよ。そんなに臭いかいお嬢ちゃん」
「おじちゃん臭ーい。お馬さんより臭ーい」
五歳の綾音が鼻を摘まんでイーッと顔をしかめた。どこの馬か知らないが決して馬は臭くないのだが、そんな臭い馬と比べられてまたまた須田は小さくなった。馬の名誉のために香織は娘を叱らねばならなかった。
「あ、あの、よろしかったらシャワーでもお使いになったら。電気やガスは止まっているんですけど水道だけは使えますから」
こうなったら流れで香織もこう言わざるを得ない。本当ならこんな男にうちで風呂など使って欲しくないのだが。
「そうかい。じゃあちょっとシャワーでも浴びて来るかね。こんなのは何年ぶりだか。えへへ、奥さんが背中でも流してくれると嬉しいんだがねえ」
ホームレス須田は好色な笑みを残したままバスルームに消えた。香織は無論そんなサービスはしないが、着替えは用意した。夫の達彦のシャツとズボンと下着類である。目が不自由になっても、ただただ家のことばかりは「手に取るように」分かるのは主婦の経験というものだ。
三十分ほどで風呂から出て来た須田は随分と様相が変わっていた。何かのついでと思ったのか、トレードマークのボサボサ髭をすっかり剃っていたのである。ニヤニヤとした嫌らしい目付きばかりは相変わらずであったが。
濡れ髪をバスタオルでバサバサ拭きながら、須田はリビングのテーブルの上にある小さな機械に目を止めた。
「ほほーん、こいつが噂のスマートフォンって奴かい。いやあ世の中の進歩ってのは敵わないねえ。オイラの知ってる携帯電話ったら、こうレンガみたいにでかくて重くて……」
その時香織ははたと気づいた。この男に頼めば夫と連絡が取れるのでは、と。
「あ、あの、それで電話をかけて欲しい先があるのです。私は目が見えなくて操作が出来ないのです」
「オイラもこんなハイテクマシンは使ったことねえな」
「いえいえ難しくないのです。本当に難しいものならこんなに世の中に広まりません。右端の所に二つボタンがあるでしょう? その小さい方を押して下されば電源が入ります。そうして……」
香織に言われるままに須田は慣れないタッチパネルの操作をした。電波がどこぞに飛んだのだろうか。電波の中継所も恐らく死んでいるはずだから、どこかに通話が出来るなど奇跡に近いはずだった。その奇跡が起きた。
「香織、香織か」
手にしたスマートフォンから夫の声が聞こえた時、香織の背骨は震えた。
「あなた、達彦さん」
「ああ香織、よかった、無事か? 俺はオレンジを盗られちまって。畜生、俺のオレンジを……」
「あなた達彦さん、何を訳の分からないこと言ってるんです。こっちは大変なんですよ、私も綾音も目が見えなくなってしまって」
「ああ俺もなんだ。俺だけじゃなくて都心の方はもうグチャグチャだ。いや畜生、こんなのは何でもない。大丈夫だ。必ず帰る。必ず帰るよ香織」
「ああ、あなた待ってるわ、待ってる……」
すがりつくようにスマートフォンを両手で抱え、涙を浮かべながら話す香織の姿を見て、ホームレス須田は何を思ったか。夫婦の仲の良さにうんざりしたかのようにあらぬ方を向いて息を吐いたかと思えば、あるいは二人に心底同情したかのように深々とうなずく。その一方で、すぐ隣に座る香織の白いブラウスに包まれた肢体に目をやってニヤニヤとしたいささか品性下劣な笑みを浮かべたり――――。
夫婦の電話が長くなって「きっと帰る」とか「愛してる」とかいう言葉が何度も繰り返されると、須田はしみじみとした顔でうなずきながら香織のスカートに包まれた太股に手を置いた。さりげなくだが、しかしさりげなくなかった。その手はゆっくりと香織の太股を撫で始めた。
香織はピクリと反応したが、何が起きたのかよく分かっていないという感じだった。構わずに電話を続けた。ホームレス須田はそれをいいことに指先で香織の脇腹をくすぐり始めた。
これには香織も驚いて身をよじって逃げようとしたが、ソファーに座ったままの体勢ではたかが知れている。それに逃げようとして相手の男に背を向けたため、その背中が無防備になってしまった。須田の指先は香織の白いブラウスに包まれた背中をゆっくりと這い上がった。首筋まで上がると、そのうなじの肌に男の指が直接触れた。香織は身をよじり、肘を使って男を押しのけようとするが意味もなかった。男の指は今度は下降して香織の腋の下の辺りを弄び、さらにはふっくらとした胸のふもとまで撫で上げた。
「やめて、やめて下さい、あ、いえ、あなた、何でもないの。隣のカズ君が遊びに来ていて……」
夫と娘の目の前であるという都合上、香織は大声を上げることも出来なかった。それをいいことにホームレス須田の悪戯は続いた。ニタニタと下劣な笑みを浮かべながら、指を香織の背中に滑らせた。純白のブラウスから透けるブラジャーのラインをほじくるように左右に蠢かせた。嫌がる香織が身をよじって反応すれば、そのピチピチとした若鮎のような動きが逆に男を面白がらせて、須田の行為はエスカレートして行く。
この日香織が着ていたのはいかにも普通の家庭の奥さんといった感じのブラウスにスカートであったが、そのブラウスの裾が短めで、しかもスカートの外にいたのは不運だった。男の指はそのブラウスの隙間からとうとう香織の背中に侵入したのである。無頼なホームレスの指は、汗に湿った人妻のなめらかな背中の肌をダイレクトに楽しみ始めたのだ。
その上、男はけなげに電話を続ける香織の耳に口をピタリとつけ、誰にも聴こえないような微小の声量で囁いた。
「たまんねえ体してるぜ奥さん。すげえ体だ。どうしようもねえ感じだぜ……」
「やめて……いえ違うの。こらカズ君!」
男のけがらわしい指は香織の背中に生えている産毛を一本一本数えでもするかのようにゆっくりと這った。上下に、左右に、湿り気を楽しむ虫の如く這いずり回り、夫と電話中の香織を恐慌させた。男の指が下半身に移動し、スカートの縁にかかり、その中に侵入しようとした時、香織の忍耐の堤防が決壊した。
「あ、あなた、ごめんなさい、外にお客さんが来たみたいで。すぐにまた後で連絡します。ええ必ずまた……」
香織はスマホの電源を切ると、使い終わったトイレットペーパーの芯みたいに投げ捨てた。空いた両手でホームレス須田の体を所かまわず引っぱたいた。
「帰って下さい、帰って下さい」
怒りで髪を振り乱し、目からは黒い涙を流しながら香織はもう一度言った。
「帰って下さい」
鬼気迫る香織の態度に気圧され、ホームレス須田は卑しい笑みを浮かべつつ逃げるように立ち上がった。
「まあ奥さん、子供の前でケンカは良くないよ。また何かあったら来っから。困った時はお互い様ってね」
えへへへへ……と陰湿な笑い声を漏らしながら去って行くホームレスの背に香織は決然と言い放った。
「二度と来ないで」
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