《 二日目 》

 どよめきという言葉があるが、多数の人間の集まりにしか出せないそういう音がある。ざわざわというよりどよどよと表記した方がより適切なそういう音によって「人だかり」が出来ているのが達彦の耳に分かった。そして果物が潰れたような甘い臭い。その場所がスーパーであることがすぐに達彦の頭に閃いた。心臓の鼓動が上昇する感覚があった。王子達彦は躊躇うことなく人だかりの押しくらまんじゅうの中に突入した。まだ早朝であった。

 店の商品は盗られ放題の状態のようであった。店長や店員はどうしているのだろうか。このような非常時には店の財産もみんなの財産として共有を許してしまうのか。仮にそのような淫らな平等を欲していなくても、半ば暴徒化したこれらの人々を押し返すのは不可能だったろう。千五百万人もの飢えて渇いた人々が殺到してはスーパーもたまったものではない。

「目が見えないんです。押さないで下さい」

「やかましい。みんな見えないんだ。一人で被害者ぶってるんじゃねえ」

 あちこちで怒号や罵り合いが錯綜していた。生々しい人間と人間の摩擦から発生する熱と空気は尋常のものではなかった。被害者ぶることで弱者を演じ、弱者を演じることで何らかの利益供与を求める生存戦略はここでは無意味となってしまっていた。

 誰もが弱者だったからである。

 そこにあったのは思いもかけない完全なる平等状態であった。その麗しき平等から頭一つだけでも抜け出すために誰もが必死になった。必死と必死がぶつかり合えば死が生まれるのも当然ではないかと思われた。

 死にたくない。

 死にたくない。

 死にたくない。

 死ぬのは「私」ではなく、誰か他の弱い奴らだ。誰もがそんな風に思っていたのだ。いいや思っていたという表現は適切ではない。それは思いなどというよりも、もっと確かな力と方向性を持ったエネルギーであり、物理現象だった。真善美という観点からするとそのエネルギーは決して美でも善でもなかったが、間違いなく真であった。

 身長百八十五センチ、体重九十キロの達彦は人波を押し分け掻き分け、ようやく一袋のオレンジと一房のバナナを手にすることが出来た。バナナの一本を貪り食らい、さてオレンジに取りかかろうとした時、ひょいと誰かがそのオレンジを袋ごと横取りした。達彦は瞬時に血が頭に昇った。

「何をしやがる」

 虎のような敏捷さで達彦が飛びかかると、見えない敵も殴り返して来た。カッと激昂して達彦も殴り返した。唸り声からすると相手は若い男らしい。やりがいがある。掴みかかって、押さえ込んで、殴って蹴って蹴って、ようやく敵を退散させた。白いシャツにポタリポタリと滴る赤い鼻血が達彦の勝利の勲章となった。

「ざまあないな」

 達彦は意気揚々と罵り声を上げたが、しかし――――オレンジはどこかに消えていた。



 おととい買って来たケーキの残りがあったはずだ。電気の止まってしまった冷蔵庫を空け、手にしてみると、そのケーキは異臭を放っていた。

 香織は困惑した。こんな物を綾音に食べさせてはお腹をこわしてしまう。パック入りのおでん種とチーズを二人で食べて朝食にした。食べられる物ははなはだ少なかった。元々香織は意味もなく食品を買い溜めしておくような性質ではなかったのである。

 何とかしなければならない。

 どこかで食料を調達して来なければならない。

 そう思って家の外に踏み出してみるものの、そこに広がる暗黒の深淵に身がすくんでしまう。勝手知ったる我が家とは違う、そこは恐怖の別世界であった。

 目が見えないということがこれほどまでに恐ろしいことであったとは、と今さらのように香織は思う。かつて健常であった頃に街で白い杖をついて歩いている人を見かけたが、あの人たちは英雄の如き精神力の持ち主であったのか。それともこういう状態も慣れて来れば平静でいられるものなのか。そしてこんな弱い私がそれほどまでに慣れるには一体どれほどの年月が必要なのだろうか……。

「ママーお腹すいたー」

 五歳の綾音が悲しげな声を上げる。空腹なのは香織も同じである。昼過ぎかも知れない。時間は分からない。うだる暑さの南向きのリビングの中で香織は待っていた。夫を。白馬の王子を。

「綾音、もうすぐね、パパが帰って来てくれますからね。おいしい物をたくさんおみやげにして、パパが帰って来てくれますからね」

 低い音が響いた。

 ドンドン、ドンドンと。

 玄関の方である。

 ああ、やっぱり帰って来た。パパが帰って来た。母と娘は一緒に玄関まで走った。けれどもそこに現れた男が発した声はパパのものではなかった。臭いまで違う。こんな臭いの持主を香織親子はたった一人しか知らない。

 昨日のあのホームレス男であった。

「よう奥さん、それにお嬢ちゃん。何か困ってないかい。間に合ってるかも知んないけど、ちょっと食い物とか持って来たんだよ。パンとかジュースとか大したもんじゃないけど。なに昨日のビールの御礼。間に合ってるならオイラが自分で食うかな? いやね、そこのスーパーでくすねて来たんだよ。スーパーも何だか無政府状態のひどい有様でねえ」

 決して新鮮なパンというわけでもないはずだろうが、男の持って来たパンからはとろけるような香ばしい匂いがした。その匂いが香織の理性を根元からぐらつかせた。

 この男は不潔である。

 それに何やら少し危険な臭いもする。

 そういう香織の正しい理性がわずか数個のパンに負けてしまった。

「それはわざわざ」

 などと言って、香織はまたこの得体の知れない男を家に上げてしまったのである……。

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