《 一日目 》 つづき
スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ
パット剥ギトッテシマッタ アトノセカイ
原子爆弾によって壊滅した広島に作家の原民喜は只一人なすすべもなく立ち尽くした。「ギラギラと炎天の下に横たわっている銀色の虚無のひろがり」の中に「精妙巧緻な方法で実現された新地獄」の中に立ち尽くしてしまった。
黒い涙の病気と名付けられた新型伝染病の襲来は原爆の炸裂に比すべき惨事だった。昼は夜になり、夜は明けることなく、国境はなくなり、宗教はなくなり、財産もなくなり、みんなが兄弟になって、みんなで世界を共有して……しかしなぜか平和ではない世界。「アトノセカイ」が現出してしまったのである。
作家の毛瀬賢作は今のこの東京に立ち尽くした。正確には元作家と言うべきかも知れない。もう何年も小説は書いていないのだから。毛瀬は自分を作家としても人間としても無価値であると思っていた。
灼熱の太陽の下に街をさ迷う人々を、目から黒い涙を流しながら彷徨する人々を、毛瀬は悲しげに見やる。この男は奇跡的に失明を免れた一人だった。
「このことを書きのこさねばならない」
と決心したのは原民喜だった。
民喜は優しい男だった。極度にシャイで、人づきあいが苦手で、どこに行くにも奥さんを伴い、自己紹介をする時も奥さんが話して、民喜は傍らでウンウンと頷いているだけだったという。「明るくて出しゃばらず、弟を扱うように原君を優しく扱っていた」というこの奥さんの貞恵さんは民喜の作家としての才能を信じて、つねに力強く励ましていた。「お書きなさい、お書きなさい、あなたにはきっと書ける」と。名作が書けると。民喜はいつも自信がなく、筆は遅く、二人はいつも貧乏だった。
その貞恵さんが昭和十九年九月に長い闘病生活の末に亡くなった。民喜は大きな存在を失い、生ける屍と化した。いつ死のうかとそんなことばかり思って郷里の広島に帰って来ていた。そんな民喜の頭上に、広島の頭上に、あれが降りて来たのである。昭和二十年八月六日である。
原子爆弾が。
広島は壊滅したが民喜は奇跡的に無傷に近かった。廃墟の中で民喜は思った。なぜ自分は生かされているのか。「己れが生きていることと、その意味が、はっと私を弾いた」と。
「このことを書きのこさねばならない」
死ぬつもりだった民喜に使命感が生まれた。そして民喜は書いたのである。亡き妻と約束した名作を。妻が信じていた名作を。
『夏の花』である。
夕闇迫る公園のベンチに一人座り、毛瀬賢作は自分に『夏の花』が書けるであろうか、とは考えなかった。今、毛瀬の目の前にある「アトノセカイ」を書き切ったとしても、そんな物は誰も読まないのだ。これは目が見えるとか見えないとかの話ではない。毛瀬は自分をダメでクズなゴミだと思っていた。ゴミならゴミでとことん腐り切ってしまうのも面白いではないか……と。
毛瀬は首を振って汚ないベンチから立ち上がり、端整な顔を歪めて、人々の呻き声のする方から逃げて行った。高みを目指し無双の存在たらんと欲して十万語の言葉と格闘していた戦士はもうここにはいない。
西の空に広がる真っ赤な夕焼けが、地の底から湧き上がって来たような黒煙に押し流されて行く。広大な公園には真夏の熱風が吹きすさび、まだ青い木の葉があちこちで散っていた。
達彦は公園らしき所の芝生の上で野宿をするつもりであった。芝生は柔らかく、まあまあ寝心地は良さそうであった。しかし程なく
、ひっきりなしに耳元で唸る蚊に達彦は悩まされた。この季節である。当然予期しなければならなかった。腕枕にして地面と接していた部分もムズムズする。触ってみると得体の知れないナメクジ状の虫が何匹も張り付いていた。こんな都会の真ん中に蛭とかいるとは思えないが……? 他にも確認出来ない何かが、あるいはチョロチョロと、あるいはゆっくりと皮膚の上を這っていた。
疲労でぐったりしているのに、なぜか皮膚感覚ばかりは敏感になって達 彦を悩ませた。
また目の上を蚊が刺した。
血を求めて、あるいは暗くて温かくて湿った部分を求めて、虫たちが静かに狂喜している。膝の裏や内腿の辺りでムズムズしているのは一体何者なのか?
鼻や耳や口や、身体中の穴という穴に虫が入り込んで来るおぞましき妄想に達彦は恐慌した。虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫。
こんな所で寝られるはずもない。ホームレスとかはどういう神経をしているのだろう。達彦は早々に退散して、どこぞの建物に逃げ込んだ。幸いにソファーがあった。これで寝られる。
それにしても酷い空腹だった。今日は朝食を食べたきりなのである。家で妻と娘と一緒にした朝食がもう三日も前のことのように思われた。
(ああ香織よ、ああ綾音よ……)
明日は朝一番で食料の調達だ。水を持ち歩くためのペットボトルも欲しい。なにここは大東京である。そう達彦はいくらかの楽観をしていた。コンビニもスーパーも食い物屋もどこにでもある。どこにでもあるではないか、と。
《 二日目 》につづく
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