王子の帰還

@ennoshin

《 一日目 》

「平和っていうのは金持ちのための概念なんですよ」

 テレビの向こう側では芸能人とか専門家とかいう肩書きを持つ人達が今日も大議論していた。香織はうんざりしていた。

「――平和っていうのは詰まるところ現状維持の事であり、一握りの権力者や成功者達の既得権益を守る装置です。声高にラヴ&ピースを訴える人達というのはもう悠々たる成功者と相場が決まっていますよね。ところが世の中には現状に満足していない人々も結構いる。現状が維持されるのは我慢ならないという人達がね。こんな世の中ひっくり返ってしまえばいいと思っている人達です。そういう人がですね、おかしなウイルスとかを世の中にばらまいてですね……――――――」

 この専門家の方はもう黒涙病をテロリストの手によるバイオテロと決めつけているらしい。実際には黒涙病の原因について知っている者はまだ誰もいないはずだが。

 そう黒涙病。最近はもうこのニュースばかりだ。日本上陸は時間の問題だとか、いや日本だけは絶対に大丈夫だとか。テレビの向こう側では今日も学者とか芸能人とかがギャラを貰って大議論している。それだけで十分に平和な気がする。いくらか白々しい気分と共に香織はテレビを切った。

 

 東京は足立区に住む主婦王子香織の日常にはさしたる変化もなく、今日も夫を会社に娘を幼稚園に送り出して、そのあとは家の掃除や庭の手入れに勤しんだり、あるいは犬のロッキーにブラシを入れながら戯れたり。いつもと同じ穏やかな平日の午前だった。

 お茶と何冊かの本が香織の午前中の楽しみだった。テレビを見ようが見まいが、専門家や芸能人がどう言おうが言うまいが、災厄はやって来る時にやって来るだろう。香織はうんざりした気分を紛らわす意味でもよく本を手にした。よろしくエアコンの効いた部屋と温かい紅茶と本。その三つがあれば、うだるような夏の暑さも暗い時世も忘れられる。

 愛読書がある。

『オペラ座の黒猫』と『月と梅と夢』の二冊は学生時代から二十八歳の今に至るまで香織の傍らを離れたことはない。ベストセラー本などではなく、何となく古書店で見つけた物である。著者はどちらも毛瀬賢作という人だ。本のカバーの折り返しの所に写真付きで紹介されている。


「児童文学界にプリンスが現れる」

 

 などと書かれている。大袈裟な文言はコマーシャリズムの常で、出版業界も売れてなんぼの世界であろうから真面目に受け合う手の物ではあるまい。それよりも香織が引かれたのは写真その物だった。

 白皙の美青年である。が、どことなく寂しげで、そこはかとなく不幸の影のある面影だった。芥川龍之介と太宰治を足して二で割ったような風貌に見えた。放っておいたら自殺してしまいそうな……などと言ってはいけないが、そんな風に女心をくすぐる孤独の香りがした。とてもマイナーな作家らしくネットなどで調べてもほとんど情報もない。著作はこの二冊のみであること、十年ほど前から全く活動をしていないことぐらいしか分からなかった。

 作品は高い叙情性とユーモア、押し付けがましくない宗教性などを秘めたもので、現代に宮沢賢治が生きていたらこんなものを書いたであろうかと思わせるものだ。特に『オペラ座の黒猫』は香織が学生時代から繰り返し読んで、ほとんど暗記してしまっている。

 物語は劇場が舞台になっている。オペラ座にスター歌手がいたが、酒癖女癖の悪い男であり、妻も顧みずに遊んでばかりいた。喉の故障もあって男は当然のように転落して行く。ファンは離れ劇場はクビになり、色々なことがあって男は改心するが、一度落ちた人気はどうにもならずとうとう男は自殺を決意する。「もう俺の歌なんて誰も聴かない」と。その時に妻が言うのである。


「ここにあなたのファンが一人います。足りませんか」

 

 何回読んでも泣いてしまう場面である。今日もまた香織は泣いてしまった。目がぼやけてどうしようもない。何やら頭痛までする。感動のしすぎも体に悪い。

 けれどもあまりいつまでも目がぼやけているので、さしも頓着のない香織も狼狽えた。大事な本を足元に落としてしまい、しかもその本が見えないではないか。

 あるいはその時ばかりはテレビを点けておくべきだったろうか。よく空調の効いた密室の中で、オロオロと床の上を這う香織の両目からは墨汁のようなものが滲んでいた。香織は自分の目からそんな黒い涙が流れていること、そしてほぼ同じ時刻に日本中で何千何万という人々が同じ症状を訴えていたことを当然のように知らなかった。



 通勤途上の電車の中から王子達彦は体調が悪かった。何やら頭痛がして、しかも目がぼやける。何とか都心の丸の内にある会社に辿り着いたものの周囲は同じような症状を訴える者で溢れ返っていた。スーツ姿をした男女が目から黒い涙を流してビルの内外で呻き声を上げながら右往左往しているではないか。

 黒涙病。原因は不明、治療法もなし。

 感染率は九十九・九九パーセントなどと言われ、その感染者の全てを失明させるという恐怖の伝染病である。

 北アメリカで始まり、ヨーロッパに渡り、世界をパニックに陥れていたこの魔の病気がとうとう極東の島国にまで上陸したらしい。王子達彦は薄れて行く視界の中で激しい動揺と戦っていた。

 よもやこれほどまでの爆発的感染力だったとは。まるで何かの強力な爆弾が……原子爆弾でもこの都市の頭上で炸裂したかのようではないか。かつての大戦の時に広島や長崎を一瞬で焼き滅ぼしたあの魔の兵器による惨劇に匹敵する情景にすら達彦には思われた。

(こんな風にしている場合ではない。突っ立っている時ではない)

 と達彦は思った。

(家に帰らねば)

 と。

 オフィスの中では専務が部長に刺されて、課長が係長から怒号を浴びていた。悲鳴が聞こえるので見ると女子社員が男子社員によって廊下の真ん中で押し倒されていた。こんな 時に何をしているのかと思うがパニックというのは正にこういうものなのかも知れない。地上が絶望で埋まる時そこは暗黒の無法地帯と化する。一刻ごとに視界の怪しくなって行く達彦の四方から悲鳴や怒号や呻き声が交響して来た。

(家に帰らねばならない)

 家には愛する妻の香織と娘の綾音がいる。自分が守ってやらねば、このパニックの中で誰が愛する妻と娘を守ってくれると言うのか。

 達彦は歯を食いしばった。

 一流大学を出て、一流企業に入り、美しい妻を娶って、東京に家を建てて、子宝にも恵まれた。達彦には誇りというものがあった。誇りというものは守るべきものの大きさに比例するものであると定義するならば達彦の誇りは大きなものだった。

(そうだ、これは死ぬ病気ではないのだ)

 達彦は額に滲む脂汗を拭いながら思った。何とか頑張っていればその内に救援隊が来たり、あるいは治療法が見つかったりするかも知れない。このような苦境にこそ家族三人で心を一つにして支え合っていかねばならないのだ。目が見えなくなったからといって全てが失われたわけではない。俺には手もあれば足もある。聴覚も嗅覚も触覚もしっかりしている。何よりも勇気がある。家に帰るのだ、と達彦は思った。

 愛する妻と娘の所へ。



 悲鳴や呻き声の飛び交う暗闇の中に立って達彦は頭の中に大ざっぱな東京の地図を描いた。

 今は丸の内である。

 達彦の家は足立区の舎人にある。

 方角はほぼ真北。

 直線距離ならば十五キロほどしかないはずである。

 ここからならば昭和通りに出て、その道をひたすらに北上し、環七通りで左折し西に歩き、さらに尾久橋通りで右折して北に向かえば家の近くに着く。隅田川の千住大橋、荒川の千住新橋と橋を二つ渡ることになるが道は単純だ。全然非現実的なプランではない。いくらか遠回りをしても二十キロぐらいしか歩かないはずだ。時間にすれば五時間ほど。たったの五時間! 全く現実的ではないか。取りも直さず北へ歩けば間違いないのだ。ただただ北へ!

 達彦は勇気百倍、欣喜雀躍としてビルの中から大道に躍り出た。冷房の効いた空間からむっとするような屋外の熱気に包まれて逆に達彦の気持ちは引き締まった。

 けれども。

 けれどもである。

 深淵の如き暗闇の中にポツンと立って、純白のシャツ姿の達彦の足が固まった。儀式的に左右を見やるその男らしい顔の筋肉が不安も露わに引きつった。

(北は……どっちだ?)



 テレビから音が出なくなった。さっきまで混乱する状況を伝えていたテレビ中継がストップした。もう専門家も芸能人もアナウンサーも何も言わなくなった。王子香織は居間の中に座り込んだまま呆然とした。気がつくとエアコンからも音が出なくなっている。電気が止まってしまったのか。水道の蛇口をひねる。水は出た。香織はその水を飲んで心を落ち着かせた。顔を洗った。

 娘が心配である。幼稚園に行っているのである。向こうはどういう状況なのであろうかと電話をかけてみようとしたが駄目だった。目が見えなくてはタッチパネルのスマートフォンは操作出来ない。使い慣れている物だから何とかなると思っていたが、これが全くどうにもならないのである。指先で触れるアイコンがほんの一ミリずれていても別のアプリを起動させてしまうし、それが何のアプリの画面なのか全く確認出来ない……。

 固定電話を使おうとしたが香織は電話機のキーの配置を覚えていなかった。119番すら押せなかった。当然夫の達彦の所にも連絡は取れない。テレビの中がああいう状況では都心の方もこちらと変わらないのだろう。仮に119番や110番に電話がつながっても向こうもパニック状態でどうにもならないかも知れない。

 

 夫は今どうしているのか。

 

 娘は大丈夫なのか。

 

 一度家の外に出ようと試みたのだが、右も左も分からないので身がすくんでしまった。逃げるように香織は家の中に帰った。

 今何時なのだろうか? 時間も分からない。不安などという言葉では言い尽くせない暗い泥沼にどっぷりと首まで漬かって香織は喘いだ。さっきまでエアコンの効いていた室内は涼しいはずなのになぜかとても喉が渇いた。もう一度台所まで歩いて水を飲んだ。夫と娘の顔が頭から離れなかった。

 

 トントン

 

 と玄関のドアをノックする音が聞こえた。誰だろう? 夫が帰って来てくれたのだろうか。それとも近所の人だろうか? 香織は恐る恐る玄関へと歩いた。たとえ目は見えなくなっても家の中の作りばかりはさすがに把握してある。自分の家というのは有難いものだ。

「どなた?」

 と香織は玄関のドアの前で声を出した。

「やあ奥さん」

 と知らない男の声がした。香織は鍵を外し、少しだけドアを開いた。

「やあ奥さん。ここは王子さんの家で間違いないかな?」

 とその男の声は言った。

「そうです」

 と香織は答えた。

「おお、お嬢ちゃん、ほら家に着いたぞ。お母さんだぞ」

「ママー」

 と言いながら小さな物体が香織にぶつかって来た。

「綾音、綾音」

 娘だった。愛する娘だった。香織は一瞬頭の中が真っ白になった。娘の小さな体を強く抱いた。

「うんうん、よかったな。この子は迷子になっててね。まったく王子さんとか目立つ家でよかったよ。これが鈴木さんや佐藤さんじゃどうにもならなかったけどな。じゃあオイラはこれで」

 そう言って男は立ち去ろうとしたようだった。香織は慌てて、ほとんど反射的に男を引き留めた。

「待って下さい、親切な方。何かお礼を」

「なーに、いいってことよ。困った時はお互い様だってね。じゃあな」

 男は江戸っ子気質であったらしい。どこかフーテンの寅さんを思わせるひょうひょうとした声の響きだった。香織は香織で下町育ちだったので、いよいよムキになったように男を引き留めた。

「ま、待って下さい、そんなひどい。何かお礼をさせて下さい。冷たい飲み物もあります」

 冷たい飲み物、と聞いて男の動きがカキンと止まったようだった。ごくりと一つ男が生唾を飲み込んだ音が香織の耳に聞こえた。

「――それは、もしかしてビールとかかな?」

 男の声音が微妙に変化していた。香織は手応えみたいなものを感じて勢いづいた。

「は、はい、ビールもございます。どうか召し上がっていって下さい」

 心頭滅却すれば火もまた涼しなどと言うが、人間何かに集中していると何かの感覚がおろそかになることはよくある。特にその時の香織は混乱し切っていたので、嗅覚の伝える異変を非常に軽んじてしまっていた。

 どこが運命の分かれ道になるなど誰に知れるだろう。その男が何やらひどい体臭の持ち主だと香織が気づいたのは男を家に上げてしまった後だった。



 

 暑い。

 猛烈な暑さだった。

 歩き始めて三十分ほどで、もう王子達彦は渇きに苦しめられていた。真夏の日差しの強さは痛みを感じるほどで、物質的な暴力として達彦を頭上から圧倒していた。

「助けて」「誰か助けて」「助けて下さい」「助けてえ」

 四方八方から人々の苦悶の声が強く弱く響いて来る。大東京の昼間の人口は千五百万人に達するとか。自分の周囲にどれほどの人がうごめいているのか達彦には想像することも出来ない。そもそもここはどの辺りなのだろう。

「助けてくれえ」

 きつい加齢臭と共にべたべたとした肌の質感の肉の塊が達彦にしがみついて来た。おっさんであるらしい。強い嫌悪を覚えて、達彦はほとんど反射的にそのおっさんを突き飛ばしていた。百八十五センチで九十キロ、しかも柔道は黒帯の達彦に弾き返されて、その中高年男は木偶のように地面に倒れ込んだようだ。

「目が見えないのは皆同じだ。助けて助けてじゃなくて自分で何とかしたらどうだ?」

 中高年男の倒れた所から九十度ずれた方角に向かって達彦は言った。顔を向けた方向とは別な角度から

「死んでしまえ、クソ野郎」

 と言うダミ声が聞こえたので達彦は改めてそちらに向き直った。

「まあお互いにな」

 そう静かに言い捨てて達彦は歩き去った。野性動物の場合、オス同士の接触はしばしば殺し合いのケンカになるとか。そんな話を思い出して達彦は苦笑した。あまりにも実感があるので笑って誤魔化す他はなかった。歩きながらまた額の汗をシャツの袖で拭った。

 水が欲しい。近くにコンビニとか公園とか何か給水出来る場所があるかも知れないが、目が見えないのでは探しようもない。太陽の位置で東西南北ぐらいは分かるかと思ったが、今はほとんど真上から太陽が照り付けていた。日が西に傾いてくれば、それを左手にすることで北に進めるのだが……。

 それにしても喉が渇いた。普段はエアコンの効いた空間と空間を移動するだけの生活なので、これほどの渇きはしばらく体験したこともなかった。東京の七月十五日のコンクリートジャングルがこれほどの熱気に満たされているとは、そこに居ながら知ることはなかったのである。

 いや落ち着け、と達彦は自分自身に言い聞かせた。別にコンビニとか商店でなくとも、どこのビルでも事務所でも洗面所とかはあるものだ。

 手近な建物に入って、触覚と聴覚と嗅覚を総動員して達彦はようやく洗面所を見つけた。トイレの芳香剤の匂いが天国的に思えた。しかし水は出るのだろうか? 祈るように蛇口をひねった。水は出た。

 甘露の味わいの水を飲みながら達彦はあやうく泣きそうになった。歩き始めて一時間でこれでは先がおもいやられる……と自嘲しながら。



 家家家家家家。東京の足立区はその全域が平坦であり、山どころかちょっとした丘すらない。そういう地勢なので戦前は見渡す限りの田んぼ田んぼ田んぼだったらしいが、今は見渡す限りの家家家である。人口は約六十五万人で、千二百万の東京都民の十八分の一がここに住んでいることになる。

 地名の前沼、横沼、皿沼、入谷などはこの辺りが湿地帯であった名残である。竹ノ塚、谷塚、保塚など塚の付く地名が点在しているがこれは古墳のことだ。ただし現存している古墳は白旗塚の一基しかない。埼玉との都県境になっている毛長川は今でこそ悲しいドブ川に過ぎないが往時は川幅三百メートルもの大河だったらしい。その大河の沖積平野がすなわち足立区というわけだ。

 舎人などという地名もある。区の北西部である。舎人というのは貴人の雑用係をさす古い言葉だが、この辺りは弥生時代からの遺跡も多く、集落の発達していた所で、中には多くの舎人を抱える豪族も現れたのだろうか。今は家家家であり、また大きな公園も出来て、古を偲ぶものは田んぼの一反すら残っていない。

 その家家家の舎人の地に王子家も建っていた。別荘地にでもありそうな瀟洒な白い二階建ての家で、無数の家家に紛れて沼の白鳥のように鮮やかだった。

 男を家に上げてほどなく香織は自分のしてしまったことを後悔した。何よりもまず臭いが強烈だった。いくら暑いとはいえ、一体何日風呂に入らなかったらこれほどの悪臭を発することが出来るのだろうか。

「あの、せめてお名前を」

「名告るほどの者じゃねえけど、ああそうだ須田がいい。スーダスーダ、はっはっは」

 ビールを飲んで男は上機嫌だった。「お仕事は」と訊こうとして香織は止めにした。大体見当がついた。

 そうである。目の見えない香織に代わって作者がこの男の風貌を描いておこう。それが読者に対して親切であると思うからである。まずこの男、とっても汚かった。元は何色だったのか分からないドス黒いシャツを着て、穴だらけのズボンを穿いていた。半分白くなった髪はボサボサで髭はモジャモジャ。目元はニヤニヤとして嫌らしく人間としての気品というものが枯渇していた。年は三十代か四十代か五十代かと思われるがよく分からない。汚すぎるからである。どこからどう見てもホームレスであるが、香織は見えなくてもそれ以外の感覚でこの男の職業を当ててしまったわけだ。

「おじちゃん臭~い。どうしてお風呂に入らないの?」

 五歳の綾音に顔をしかめられてホームレス須田も申し訳なさそうに身を縮めた。

「うんうん、お嬢ちゃん、おじちゃんはお風呂が嫌いなんだよ。それにしても何だね、世の中えらいことになっちまったね。何かみんな目から黒い涙を流してゾワゾワと歩き回って。まるで昔の映画のゾンビだぜ。この世の終わりかと思っちまったぜオイラは」

「黒涙病という病気だと思います。世界的に流行していたのがとうとう日本にも上陸してしまったみたいで」

「うんうん、拾った新聞にもそんなこと書いてあったっけな。オイラは大丈夫なんだけどな? あんまり汚ないんで菌だかウイルスだかも避けて通ったかな、はっはっは」

 感染率が九十九・九九パーセントであるとすると一万人に一人は罹患を免れることになる。このホームレス須田がその一人だったのだろうか。東京には千二百万の人が住んでいるからその内の千二百人ほどは健常である計算になる。どういう人間がその千二百人に含まれているか知れないが、一つはっきりしているのは、黒涙病に対する耐性というのはその人物の地位とか名声とか財力とか、あるいは人間的品格などは全く関係がないという点だけである。

「へっへっへっ、それにしても美人だねえ奥さん。吉永小百合みてえじゃねえか」

 粘りけを帯びた男の声を聞いて、香織は急に背中に寒気を感じた。男がにじり寄って来る気配を感じるとそれは恐怖に変わった。

「たまんねえような色っぽさだぜ奥さん。ちなみに年はいくつだい?」

「あ、あの二十八です」

 ホームレス男はひどい悪臭だった。香織は心底恐ろしくなった。どうして夫の達彦はここにいてくれないのかと思った。

「こんな立派な家に小さい子と二人きりじゃ淋しいだろう。爺さん婆さんとか旦那はどうしてるんだい、ええ?」

「あの、両親は別居していますが、夫は……夫は、もうじき帰って来ると思います。あの人も目が大丈夫みたいで。もうすぐ帰って来ると思います」

 それは嘘だった。夫の達彦とは音信不通である。香織は何かの魔除けの言葉として自分の願望を口にしただけである。そして魔除けは魔除けとしての効果があったのか、ホームレス男はその言葉を聞くとチッと舌打ちして席を立った。

「じゃオイラはこの辺でお暇するかな。ああ奥さん、よかったらこのビールもう一本くんねえか。こんなうまい物飲んだの久しぶりでよ。家に帰ってゆっくり飲むわ。オイラの家はそこの舎人公園。はっはっは」

 ホームレス須田が帰ってから香織は家中の窓という窓を開け放った。臭いがひどいし、それにエアコンも使えなかったからである。ひどい肩凝りがしているが、これはあの男のせいなのか、それとも病気の一症状なのか。

(ああ、それにしても今は何時頃なのだろう)

 香織は愛娘を抱いたまま、全身の骨が砕けてしまったようにソファーに身を沈めた。



 夕闇の街角にへたり込み、肩で重い息を漏らし、王子達彦は意味もなく首を左右に振った。自分が羅針盤も持たずに遠洋に乗り出してしまったボート乗りであることにようやく気づいていた。酷暑の中を目の見えない状態で歩くことがこれほどまでに心身にきついことだとは思ってもいなかった。

 日が傾けば太陽の位置で方角が分かるなどと思っていたが、いざ夕方になれば太陽はビルの陰ではないか。ビル、ビル、ビル、ビル、ビル、ビル。当然だ、ここは田舎ではないのだから。分かり切っていたはずだ。

(この俺は何と愚かなのだろう)

 自分が大都会のコンクリートジャングルの底をうろつくゴキブリに過ぎないと思い知らされて、達彦は茫然とした。

 激しいストレスと疲労感に座り込んでしまった達彦の背に清涼飲料の自販機があった。東京中それこそ五十メートルおきにどこにでもある物だが、今や何の役にも立たなくなってしまった箱だ。電気が止まってしまったからである。どことも知れぬビルの谷間の底で、達彦はもう一度重い溜息を漏らした。

「缶コーヒー一本売ってくれよ。金はあるんだ金は……ははは」

 力なく自販機を何度も叩くが、むろんこの金属ボックスは何も答えない。それなりの防犯対策は施してあるだろうし、たとえバールのような道具を持っていたとしても、こじ開けるのは困難だったかも知れない。

(ああ香織、綾音)

 達彦は漆黒の虚空の中で顔を上げた。

(パパは今日中には帰れないかも知れない。でも必ず帰る。必ず……帰る……からね………………………………………………)

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