34. ぽんこつ優等生の妹は少しも完璧ではない
泣き疲れて眠ってしまったまなをなんとかベッドに横たわらせて、私は長く長く息を吐いた。この様子だと、まなが目を覚ます頃にはもう夜だろう。
目が腫れないように、ホットタオルとアイスタオルを用意して、しばらくそれを交互にまなの瞼に当てた。……これでちょっとは気持ちいいといいんだけど。
それから、きっと起きたときにはお腹が空いているだろうから、と頭の中を無にしてひたすら料理をする。まなが起きたら温め直して、すぐに食べさせてあげられるように。
料理をし終わって、頭を冷やすためにシャワーを浴びて。それでもまだ午後七時過ぎくらいで、まなはまだ起きなかった。
髪を乾かして、まなの部屋にそうっと入る。
「……まな」
声になるか、ならないかくらいの大きさで名前を呼ぶ。まなは穏やかな寝息を立てたままだ。
世界一可愛い、私のお姉ちゃん。生まれたときからずっと一緒で、ずっと大好きなまな。
…………そんなまなに、あいつは。
口汚い言葉が出てしまいそうで、慌ててまた長く息を吐く。
嫌いにならないと、約束した。あいつ……由良大雅くんは、まなの好きな人で、たぶんきっと、私の義兄になる人。だから好きになりたい。まさか告白もせずにキスしてまなを泣かせるなんてことやらかすとは思っていなかったから、あと数年は無理かもしれないけれど。
せっかく初めて、まなとの仲を応援しようかな、なんて思った人なのに。その信頼を裏切られた気分だ。大方まなの可愛さに我慢ができなかったというところだろうが、それで許せる話ではない。
なんとか落ち着くため、外を少し散歩することにする。
十一月の夜はかなり寒い。上着も着ずに部屋着で出てしまったことを少しだけ後悔する。……湯冷めして、風邪引くかもな。それはそれでまあいいや。
歩き始めると、手が自然とあおくんに電話をかけていた。
前提として、私の愛は重い。まなのことを何よりも優先するし、極端な話、まなとまなの好きな人たち以外に興味も関心もない。――なかった。
そんな私がなぜあおくんと付き合うようになったかといえば、最初はただの打算だった。
私の愛は重い。その愛をすべてまなに向けたら、きっといつか、壊してしまうと思った。だから分ける先が必要で、その相手になってもいい……ううん。なりたいと、そう言ってくれたのがあおくんだった。
『……もしもし、みーちゃん?』
電話越しでもわかるほわほわした声に、私の心までほわほわしてくる。
あおくんの怖いところは、こんなほわほわしてるのにすっっごく察しのいいところだ。私が異常なまでにまなを愛していることも、その愛を分ける先を探していることも、本当はすごく性格が悪いことも、何もかも見透かしたうえで告白してきたのだ。恐ろしすぎる中学生だった。
「あおくん、あのね」
自分の声に甘えるような響きがあるのに気づいて、げんなりする。
……そこまでわかっていて本人も望んでいるのなら、とあおくんを利用させてもらうことにしたのだけど。今ではもう、私もちゃんとあおくんのことが好きになってしまった。もちろん、まなが一番なことに変わりはない。
「……今、時間大丈夫?」
『大丈夫だよー、どうかした?』
「由良くんがやらかしたの」
『あー、っと、まなかちゃんの彼氏さん?』
「まだ彼氏じゃないし!」
つい大きな声が出てしまって、慌てて周囲を確認する。……暗い中でも少し離れた位置の人と目が合ったのがわかって、すみませんという意味を込めて少し頭を下げた。
声を潜めて、愚痴を続ける。
「……とにかく、由良くんがほんっとありえないことしでかしてね、まなが泣かされたの!」
『うん』
「何したと思う!? キスだよキス! 付き合ってないどころか告白もしてないのに! さっさと告白してからだったらまだ許せたのに!」
『あー、それはまなかちゃん泣いちゃうね……』
「でっしょ!? ありえない……これでもし自覚すらしてないなら一回死んだほうがいい」
『みーちゃん』
「……ごめん」
たしなめるように名前を呼ばれて、やっちゃった、と謝る。言いすぎた。
『みーちゃんが楽になるなら言ってもいいけどね』
「……ごめんってば」
『うん、いい子』
よくもまあ、こんなに性格が悪くてめんどくさい奴にそんなことを言えるものだ。いつも思うけど、あおくんは本当に女の趣味が悪い。私のいいところなんてまなと似ている顔くらいなのに、どこを好きになったんだろうと常々不思議に思う。
「……由良くんのこと、嫌いにならないって約束したから。止めてくれてありがとう」
死んだほうがいい、とか。そんなことを思ってしまったり口に出してしまったりすれば、いずれ嫌いになることにつながってしまう。まなとの約束を破りたくないし、何より私自身も、まなの好きな人を嫌いになるなんて嫌だった。
私の感謝の言葉に、あおくんはふっと笑いながら『ううん、どういたしまして』と返してくる。
『ところでみーちゃん、今どこにいるの?』
「……家にいるけど」
『みーちゃんがまなかちゃんに聞かれるかもしれない場所で、さっきみたいに口滑らせるわけないでしょ。車の音も聞こえた。どこ?』
これだからあおくんは! 私が今顔見られたくないのはわかってるくせに、知らんぷりで迎えにくるんだろう。
どこに向かっていたわけでもないけど、近所のコンビニが目に入ったのでそれを伝える。
『うん、わかった。迎えに行くから中で待っててね』
「来なくていいよ、家まですぐだし」
駄目元で言ってみたが、あえなく却下された。
『僕だって家近いんだから。こんな暗い時間に女の子が一人で歩くのは危ないよ』
「……近いって言っても、あおくんが来るより私が家に帰っちゃうほうが早いよ」
『それなら夜のお散歩デートってことで。帰っちゃだめだよ?』
夜のお散歩デート。それはまあ、悪くない提案だった。だから素直に了解と返せば、『待っててね』と優しい声で言って、あおくんは電話を切った。
……甘やかされてるなぁ、と思う。このままじゃ私、あおくんに駄目にされてしまう。
ちゃんと言われたとおりにコンビニに入って、ぼんやりと商品を見ていく。財布は持っていないけど、スマホカバーにはICカードが入っているから、何か買おうと思えば買える。
それでも何も買う気になれなくて、まだ数分も経っていないのにスマホで時間を確かめる。ロック画面に通知が届いていた――由良大雅。
『妹ちゃん』
『あの、ちょっと聞きたいことあんだけど…』
彼は私のことを妹ちゃんと呼ぶ。そう呼ぶように、まなが由良くんにお願いしたらしい。きっとそれは、みなちゃんという呼び方がまなだけのもので、他の人に使われるのが嫌だったからだろう。
……私があおくんにみーちゃんと呼ばれているのもそれだ。最初にあおくんがみなちゃんと呼ぼうとしたとき、きっとまなが嫌がるだろうから他の呼び方にして、とお願いしたのだ。
返信をするか、無視をするか。
少し逡巡して、結局私は返信を打った。
『なんですか』
由良くんにこんなふうに丁寧語を使ったことはない。だからすぐ、私が事情を少なからず知っていることがわかったのだろう。
『あ、もう知ってらっしゃる…』
『何をですか』
『ごめんなさい…』
『何に対してですか』
『まなかさんにキスしてしまったことです…』
『なぜしてしまったのか理由はわかっていますか』
『わかってます…』
……自覚すらしていなかった、という最悪な状況ではなかったらしい。それはよかった。本当によかった。
邪魔にならないよう、コンビニの隅っこに隠れるように立つ。
『それならその理由は聞きません。本人に言ってください。』
はい、と返信が来るまでにちょっと間があった。……もしかしてこいつ、告白する気ないんじゃないの? まなを振り回しておいて? 泣かせておいて?
……息を吐く。深呼吸。落ち着こう。
『それで、何か用?』
つっけんどんな文字列を打てば、『用っていうか』と少し困ったような返信。
『椎名さんって、黒猫モチーフのバレッタ持ってたりする?』
『物で釣ろうとしてるの?』
『ちがいます!!!!』
『いや、違わない、かも』
『椎名さんが喜びそうなものあげたら、許してくれるって』
それが、まなが由良くんに出した条件。
……そんなの。
そんなの、もうすでに許してるも同然だ。だってまなが、由良くんからのプレゼントで喜ばないはずがない。『由良くんからのプレゼント』だというだけで、まなにとって特別なんだから。由良くんは、まなの特別なんだから。――特別に、なってしまったんだから。
『持ってないはずだよ』
ありがとう!!!! という返信がくると同時に、コンビニの入店音がした。さっきからちょくちょく鳴ってはいたけど、時間的にそろそろだろう。
目を向けると、予想通りあおくんがいた。きょろきょろ店内を見回す彼のもとへ歩いていく。
「あ、いた」
走ってきたのか、あおくんは息切れをしていた。夜にこんな呼び出しのようなことをしたのは初めてだったけど、久しぶりに眼鏡姿のあおくんを見られたので、こういうのもたまにはいいな、なんて思ってしまった。
高校生になってから、あおくんはコンタクトをつけるようになった。理由は単純、私が「眼鏡ってまなと被るから、コンタクトにしてほしいな」と冗談交じりにいちゃもんをつけたからだ。冗談にしきれていなかったらしく、数日後にコンタクトをしてきたあおくんに、さすがに申し訳なくなった。眼鏡でもコンタクトでも、どっちにしろあおくんはあおくんで、そうなったらまなと要素が被らない方がいいに決まっているのだけど。
「いるよ、そりゃあね」
「うん、ありがとう。それじゃあお散歩デート、しよっか?」
ふわっと笑って、あおくんが手を差し出してくる。……コンビニの中から手を繋ぐとか。
首を振ってそのまま外に出て、しょんぼりとしたあおくんがついてくるのを待つ。コンビニから少し離れたところで今度は私から手を出せば、心底嬉しそうに握ってきた。
無言で、夜の住宅地を歩く。コンビニと私の家は十分も離れていないから、本当にただの散歩だった。
ほんの少し、このままどこかに出かけてもいいかなぁ、なんて思ったけど。家で寝ているまなが起きたときに、そばにいてあげたかった。
「まなかちゃんは今どうしてるの?」
「家で寝てる。泣き疲れちゃったみたい」
「そっかぁ。明日明後日、学校休みでよかったね」
「うん。明日はゆっくり休ませて、明後日はどこか遊びにいこうかな」
少しは気分が晴れればいいんだけど。
どこに行こうかな、と考えながら、あおくんに体をくっつける。もうすぐ、家に着く。
私の一番は、唯一は、これまでもこれからもずっとまなだ。
それでも死ぬときに隣にいてほしいのは、あおくんだった。――本当に、私の愛は重いなぁ。こんなんじゃ、いつかあおくんに見離されたらどうなっちゃうんだろう。
「……あおくん、好き」
「いきなりどうしたの?」
そう訊きつつも、きっとあおくんはわかっているのだ。だから黙り込む私に、ふっと優しく笑う。
「大丈夫、僕はそれくらいじゃなんともならないよ」
「……あおくん、強いよね」
「強いみーちゃんの隣にいるんだから、強くないとね」
まなもあおくんも、私のことをなんだと思っているんだろう。二人の期待に応えたくて頑張ってはいるけど、それによってますます期待が大きくなって、頑張っても頑張ってもキリがない。
それでもまあ、その期待に応えないわけにはいかないから、私はこれからも強いと言ってもらえる私でいるつもりだった。
「あおくんは、私と会う前から強かったでしょ」
「えー、そうかな? ならみーちゃんと会ってからもっと強くなった、ってことかな」
「……そうかもね」
「だからそろそろ、まなちゃんの代わりじゃなくてもいいんだよ?」
どう『だから』で繋がっているのかよくわからないことを言って、ほんのちょっとの不満を滲ませて、それでもあおくんはのほほんと笑う。
いつもは怖いくらいに察しがいいのに、こんなときだけ鈍感だ。察してほしいとは思わない。これ以上あおくんに甘えたくはないし、自分の口から言わなくてはいけないことだ。
けれど、好きだとは事あるごとに伝えられても、これはなかなか難しい。
「じゃあみーちゃん、またね」
「うん、またね」
私の家に到着して、あおくんは少しの名残惜しさも見せず帰ろうとした。それを呼び止め、少しだけ背伸び。
一瞬だけ唇をふれ合わせ、きょとんとするあおくんに微笑んでみせる。
「もうとっくに、代わりじゃなくなってるよ」
あおくんはそれを聞いて、泣きそうに、ほんの少しぎこちない笑みを浮かべた。
「……うん、ありがとう」
……あおくんも、もしかしたら私が思うより強くなかったのかもしれない。
弱さを見せ合える、そんな二人になれればいいなぁ、と思いながら、私は「どういたしまして」と彼の手を握った。
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