17. 愛犬は空気が読める
「あっつい……」
一人だというのに、思わず声がこぼれる。
八月に入って、ますます暑さが増した。雲ひとつない空から太陽が思いきりこっちを焼いてきて、そのうえ下からもアスファルトの熱を食らう。じごく……。
気休めにぱたぱた手で顔をあおぐ。あー生ぬるいあー暑い……。
もう十七時を過ぎてるっていうのにこれは何? おかしくない? 太陽頑張りすぎててキレそう。休めよ。
こんなことなら自転車で来ればよかった、と残り五分の帰り道をうっすらと睨みつける。
私がさっきまでいたのは、徒歩でうちから十分もかからないスーパー。そのくらいなら、と自転車のカバーを外す手間を惜しんでしまったせいで、こうして暑さに苦しむことになってしまった。行きの時点で引き返せばよかった……。
手に持ったビニール袋を持ち直す。中身は夕飯の食材と、今日の広告の品々。……食事に関してはいつもみなちゃんに任せきりなので、食材調達は私の仕事なのだ。
私もまったく料理ができない、というわけではないのだが、手際が悪すぎるうえにそれほど美味しくない。みなちゃんにそんなものを食べさせるくらいなら、みなちゃんに作ってもらって、二人で美味しいねと言いながら食べるほうがよかった。たまーにおねだりされたときには精一杯頑張って作ってはいるけど。
にしてもあっつい!
しかめっ面で歩を進めていると、前方から犬と一緒に誰かが走ってくるのが見えた。……黒い犬。すぐに由良くんちのモコちゃんを思い浮かべた。この距離じゃ犬種まではわからないが、こっちに向かってくるならガン見してしまおう、とわくわくしながら何食わぬ顔で歩き続ける。
由良くんとのスマホでのメッセージのやりとりは、もはやモコちゃんの写真を送ってもらうだけといっても過言ではない。猫派の私もすっかりモコちゃんにメロメロだ。だってめちゃくちゃ可愛い。可愛いだろ!! って言う由良くんも含めて可愛いのだ。
しかし……暑さでなんかおかしくなってるのかな、私。由良くんとモコちゃんのことを考えていたせいか、どうにも前から走ってくるのが由良くんとモコちゃんに見える。
いくら同じ市で、家もおそらくそれほどは離れていないとはいえ、こんな場所で彼らに会えるわけがない。白昼夢か?
「……えっ、しーなさん!?」
「えっ、本物?」
「本物って何!?」
私に気づいて足を止め、目をまん丸にする彼は、どこからどう見ても由良くんだった。この暑い中走っていたせいでかなり汗をかいている。それを気にしてか、由良くんははっとした顔で自分の腕のにおいをかいで私から距離を取った。いや別に臭くても気にしないぞ……。
由良くんの足下では、モコちゃんがハッハッと舌を出して短いしっぽをぶんぶん振っている。……か、かわ、かわいい、うわっ実物のモコちゃんだ!? かっ可愛い! なんだこれ!
「そ、その子、モコちゃん?」
「そーいや初めて会わすっけ。ほらモコー、しーなさんだぞ、挨拶挨拶」
犬にそんなこと、と一瞬でも思ってしまったのを謝りたい。頭のいいモコちゃんはキャンッ! と高い声で鳴くと、しっぽを振ったまま私に突進してきた。ちぎれるんじゃないかってくらいしっぽ振ってる……かっわ、な、なに、嘘だろこの可愛さ。ありえない。やっぱこれ白昼夢?
可愛さに崩れ落ちるようにしゃがみ込むと、モコちゃんは私の膝にあんよを置いて、ペロペロと顔をなめてきた。もこもこふわふわな毛が当たってすごくくすぐったい。
「わっ、わ、わ、ひゃー……!? は、初めましてモコちゃっ、うひゃ、ま、待ってしゃ、べれな」
「こらモコちゃん、めっ!」
……めっ? めっ? 不覚にもきゅんとしたんですけど。
しかもモコちゃんはちゃんと私を舐めるのをやめた。あんよも下ろして、でもしっぽはいまだ振ったままだ。ぶんぶんしてる……可愛い……頭いい……。
「しーなさん悪りぃ、えっとハンカチ…………は持ってねえんだった」
いやきみ持ってるよな。ポケットに手突っ込んで出しかけたよな。キャラ作り、というわけではなく、きっとすでに自分の汗を拭いてたからとかそんなところだろう。
大丈夫だよ、と言いながら立ち上がり、舐められた顔を自分のハンカチで拭く。
「……あれ、っていうか由良くんなんでここにいるの?」
モコちゃんと由良くんの可愛さに、その疑問をすっかり忘れていた。
由良くんはきょとんとして、リードを持つ手を示した。
「モコの散歩」
「そりゃ見たらわかるわ……。そうじゃなくて、散歩ってこんな遠いとこまで来るの? ってこと」
「別に遠くもねーよ? や、まあ確かに、いつもの散歩コースから外れてるっちゃ外れてるけど、オレはモコが行きたがってる方に進むだけだから」
……溺愛してんなぁ。
「でもモコちゃんもこんなとこまで来たら疲れちゃうんじゃないの?」
「抱っこして帰る」
「……そう」
「……あんだよその目」
「べつにー」
きみがそれでいいって言うなら、私から言うことなんて何も。
もう一回しゃがんで、そうっとモコちゃんに手を伸ばす。頭を上から、は怖がられるかもしれないから、目指すは首元の辺り。そうっとそうっと手を近づけていたら、モコちゃんのほうからすり寄ってきてくれた。ふ、ふわぁ……もこ……首意外と細い……。
きゃんきゃん鳴きながら、モコちゃんは私の手に頭をこすりつけてくれる。サービス精神旺盛すぎない? あっざとい、さすがわんちゃん……。いやでも他の犬にはこんな態度取られたことないから、モコちゃんが特別なんだろうなぁ。
ぶはっと吹き出す音が聞こえたので顔を上げれば、由良くんがめちゃくちゃ楽しそうな顔で笑いをこらえていた。
「……何」
「べつにー」
うわ、さっきの仕返ししてきたぞこいつ。主従揃って可愛い。
笑われた理由は自分でもわかっているので、緩みきっていたであろう顔に力を入れ、ちょっとでも真顔に近づけた。
「私、動物に好かれないの」
突然のカミングアウトに、由良くんがまた吹き出しかけて変な顔になった。笑っていいものかわからないのだろう。「笑いたければ笑うがいいさ!」と拗ねた口調で言えば、遠慮なく笑い出す由良くん。
「くっ、ふふ……なんか意外だなそれ」
「野良猫はこっち見ただけでぴゅーって逃げてくし、散歩してる犬は無反応だし、スーパーとかで入り口に繋がれてる犬と目を合わそうとすると後ずさりされる」
「えっ、相当じゃね?」
「相当だよ……」
私が何をしたっていうんだ! こっちはこんなに好きなのに、なんて片思いしてる女の子みたいなことまで思ってしまう。
だからモコちゃんのこの反応は、本当に感動なのだ。今もしっぽを振って私の手をべろべろなめてくれているモコちゃんに、真顔を崩してにへーっと笑う。
「モコちゃんいい子だね……さすが由良くんのわんちゃん……」
「何が『さすが』に繋がってんのかわかんねえんだけど……」
「由良くんはいい子、モコちゃんもいい子、ついでに言えば由良くんは可愛い、モコちゃんも可愛い」
可愛い……、と由良くんは微妙な表情になった。褒めてるんだから喜んでほしい。この前可愛いって言ったときは真っ赤になってたじゃないか、とまで考えて、あのときは前後の言葉があったからかな、と一人で納得する。「かっこいいし可愛いから、なんでも似合うと思う」というまとまりだと、可愛いと言われたことがあまり気にならなかったのだろう。
そっか、思えば面と向かってこんなにはっきり可愛いって言ったことなかったっけ? 可愛いを単体で言うときは、確かに大抵別のものに対して言っているかのようにごまかしてきた。
「可愛いよりかっこいいって言われたい?」
「そりゃ……可愛いよりはな」
「可愛いも褒め言葉ですけど」
「…………ありがと」
結局ちょっとだけ照れくさそうに笑うのだから、本当に可愛い。
「しーなさんのほうが可愛いけどな」
「あーほんとなー、そういうとこなー、由良くんのそういうところ……可愛いんだよなぁ」
モコちゃんをなで続けながら、もう開き直ってそう口にすれば由良くんはむっとした。
「バカにされてるっぽく聞こえんだけど」
「してないしてない。そういう顔も可愛いよ?」
「……やっぱバカにしてるな!?」
「ふっ、ふふふ、してないよー」
「ぜってぇしーなさんのそういう顔のほうが可愛いし!」
「なんでそこで張り合ってくんの!?」
暑くてよかった、元から顔が赤いだろうから顔色に変化が出ない。
暑い、ということを思い出してしまうと、もう駄目だった。ついさっきまでは意識から外れていた太陽の熱が、じわじわと不快な汗を生んでいく。
「……こんなとこで話すことじゃないね。由良くん、ちゃんと飲み物とか持ってる? 熱中症にならないようにね」
近所のスーパーを行き来しただけの私でもこの汗だ。モコちゃんと走っていた由良くんはどれだけ体の水分を失ってることだろう。
由良くんはむっとした表情を消して「だいじょーぶ」と柔らかく笑った。
「ちゃんとスポドリ持ってきてる」
「偉い」
「だろ」
由良くんの代わりにモコちゃんをわしゃわしゃとなでてあげて、よいしょ、と立ち上が……ろうとして、ふわっと体が浮くような感覚に再びしゃがみ込む。
きゅ、急に立つのがよくなかったな……。
心配してくれる由良くんの声が、ちょっと遠く聞こえた。帰ってすぐ水分取ろ……。
「ん、ごめん、大丈夫」
深呼吸してから立ち上がると、由良くんは何かを逡巡するような顔をして、それからおそるおそる水筒を差し出してきた。シンプルな青一色の水筒。中身はさっき言っていたとおりスポーツドリンクだろう。
……しかし、これを差し出されるってことは?
「間接キスとか気になんねぇなら、これ飲む?」
「や、もう家すぐそこだから」
即断れば、そっか、とあっさり水筒をしまう由良くん。
「うん、だから、」
「じゃー行くか。早めに帰ったほうがいいっしょ」
またね、と別れようとしたのに、由良くんはそんなことを言う。
……あれ? 由良くん、私の前から走ってきたよな。つまり、向かっていた方向は逆だということだ。首をかしげれば、「モコも帰りたがってるみてぇだし」とにっこりと笑われた。確かにモコちゃんは私にひっついていて、このまま私が歩き出したらついてきそうな雰囲気があるけど……。
「ほんとに家近いから、送ってくれなくても平気だよ?」
「オレはモコちゃんが行きたがってるとこに行くだけだから」
気遣ってくれてること丸わかりの返答。苦笑いしながらそのご厚意を受け入れようとしたら、今まで元気だったモコちゃんがなぜか急に伏せをした。
軽くちょいちょいとリードを引っ張って、それでも立ち上がらないモコちゃんに、由良くんが屈み込む。
「……モコ? 疲れちゃったかー?」
優しい手つきでモコちゃんの頭を一なですると、にこにこ顔でひょいっと抱き上げた。……抱っこ! 抱っこだ! ほんとに抱っこするんだ……。めちゃくちゃ和む光景である。
というか、これで「モコちゃんが行きたがってるとこに行くだけ」という言い訳が意味を失ったわけだけど。まさか私の家が由良くんの帰り道の途中にあるわけもないし。
一瞬あっという顔をしたので、由良くんも気づいたのだろう。しかしそれに関しては何も言わず、「行こ」と私を促して歩き出す。
……まあいっか。
「そういえば、ちゃんと帰り道わかるの? モコちゃんが走るままに適当に来ちゃったんでしょ?」
「何のための文明の利器だと思う?」
「……モコちゃんのためか」
「そーゆうこと」
冗談のつもりだったのに肯定されてしまった。まあでも確かに、由良くんのスマホの用途の八割くらいはモコちゃんな気がするし……間違いではないか。
「その簪、もしかして妹ちゃんからもらったの?」
訊いてきた由良くんに「そう!」と笑顔で答えてしまってから、しまった、と思う。
……由良くんからもらった簪は、もったいなくてまだつけられていない。みなちゃんからもらったものは普段使いしているのだが、由良くんからもらったものは使ってないのに、みなちゃんからの簪を由良くんの前でつけるのもどうかと思って。
しかし今日は完全に、由良くんと会うつもりなんてなかったから、みなちゃんからもらった簪をつけてしまっている。
「あーっと、これは、ですね、普段使い用っていうか、由良くんからもらったやつはもったいなくて使えないっていうか……」
「……しーなさんがつけてるとこ見てぇんだけど?」
「うっ、はい、いや、でもさ!? なくしたら嫌じゃん!?」
そう主張すれば、由良くんは目を瞬いた。腕の中のモコちゃんは彼の顔を見上げている。可愛い。
「……妹ちゃんのはなくしてもいーの?」
「そ、そういうことではないけど! 私がこれつけるたびにみなちゃん嬉しそうだから……可愛くて……」
もごもごと言い訳を口にする。何をどう言ったって、すでに悲しませてしまっていることに変わりはないだろうけど……。
だ、だってさ……なんか……うう、上手く説明できない。
「由良くんからもらったやつも、今度ちゃんとつけるから……」
「……ん、わかった」
ちょっとしょんぼりした笑い方に、罪悪感がやばい。もったいないとか思ってる場合じゃないぞ。次に会うときにちゃんとつけよう。
あ、その前に明後日のお祭りにつけていこうかな……初めてつけるのは、そういう特別感のある日がいい。一緒に行く風香にちょくちょく確認してもらえば、なくすこともそうそうないだろうし。
残り五分の距離はあっという間だった。ここだよ、と家を指差して、お礼を言って手を振ったところで、ガチャリと玄関のドアが開く。
現れたのはみなちゃんで、ほっとした表情で私を見てきた。
「おかえり、まな! 遅かったから心配しちゃったよ」
「わ、ごめん、ただいまみなちゃん」
結構立ち話しちゃったからな……。
謝る私に、みなちゃんは「何もなくてよかった」と微笑んで、それから私の隣に視線を向けた。
「こんにちは、由良くん」
「……ちわ」
「由良くんちってここから近いの?」
「たぶん、歩いて三十分以上はある」
「ふーん……こんなところまでわんちゃんのお散歩しにきてたの?」
「しにきてました……」
頑張って普段の調子を保とうとしていたみたいだが、見事に失敗している。みなちゃんの前だとそんなに緊張するのかな……。
心なしか、モコちゃんもなんだかしょんぼりして見える。きゅーん、と高い声を出したモコちゃんにみなちゃんは相好を崩して、それからふっと思い出したように口を開いた。
「あ、そうだ、この前はゼリーありがとう! おいしかったよ」
「……そりゃーよかった」
「うん、あと、まなに簪もありがとね? あれ見たら私も欲しくなっちゃって、まなとお揃いの新しく買っちゃったんだ!」
「あー……やっぱお揃いなんだ」
「もちろん! でもまなったら、私があげたのばっかり使ってて、由良くんのは一回も使ってないんだよ」
みなちゃん何を!?
ちらっと私の髪に挿してある簪を見て、みなちゃんはふふっと笑う。
「――よっぽど、由良くんにもらった簪が大切なんだね」
「み、みなちゃーん!?」
思わず名前を叫べば、みなちゃんは不思議そうに首をかしげた。
「うん? なーに、まな」
「え、うえ、ええ、え、えっと……なんでもない……」
純粋に思ったことを言っただけなのだろう。文句なんて言えるはずもない。
「わ、私水分不足っぽくてふらふらするから、もう家入るね! またね由良くん!」
こういうときは逃げるが勝ちである。みなちゃんの横を通り抜けて、さささっと家の中に入る。日差しが直接当たらないだけで、玄関でさえ少しだけ涼しく感じた。
冷房の効いたリビングでほうっと息を吐いて、手洗いうがいを済ましてからスポドリをコップに注ぐ。それをごくごく一気飲みをしているとき、ようやくみなちゃんが帰ってきた。
「……由良くんとなんか話してたの?」
飲み切ってからそう訊けば、うん、と笑顔でうなずかれた。それ以上何も言ってくれないので、きっと私に関する内緒話だったんだろうな、と察する。なんだろう……気になるけど訊けない。
とことこ寄ってきたみなちゃんが、そうっと優しく私の簪にさわった。
「みなちゃん?」
「……ううん。なんでも、ないよ」
にこっと笑ったみなちゃんは、ほんの少し、寂しそうに見えた。
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