09. 右利きの優等生はかっこいい?

 美術部を見学しにいった二日後のことだった。

 いつものように由良くんと講義室Eに来て、私は思いきりうなだれていた。由良くんの気遣わしげな視線にも言葉を返せない。


「……しーなさんも最初に比べたらすっげぇ上手くなってっからさ。な? んな落ち込むことねーって」

「優等生は字が上手くなきゃいけねぇんだよ……」


 口調とか気にしていられないレベルにやばい。

 何が起こったのかというと、単純な話だ。今日の数学の授業で宿題が当たり、次の授業時に黒板に解答を書いておくように言われただけ。……だけ、といっても、私にとっては大問題である。

 字の下手さが! クラス全員に! バレる! 大問題!!

 しかも証明問題なので、数字だけに逃げることすらできない。数字ならこう、たぶんまだごまかしが利いたんだけど。


「しーなさんのことだから、もう宿題終わってんだろ? 見せて。オレが見本の字ぃ書いてやっから」

「黒板に書くのと紙に書くのじゃ全然ちげーよ……。私は黒板だと字の下手さが五割増しなんだ……。しかも見本見ながら書くわけにもいかねぇし!」

「しーなさんしーなさん、口調、めっちゃ口調が」

「うっせー!」

「優等生ってうなら字よりもまずそっち気ぃつけろよ!?」


 ごもっとも。

 顔を上げて、ふかーい息を吐く。落ち着こう。由良くんに当たったって仕方ない。っていうかごめん。謝ると「いいよ」と優しく返されて、その寛大さにますます申し訳なくなった。ごめん、マジごめん……。


「うぅ……このまま三年、黒板に字を書く機会がなければいいなぁと思ってたけど、やっぱり無理か。数学が天敵だな」

「まー、数学以外はそこまで板書しねぇもんな……とりあえずしーなさん、宿題見せて」

「今日だけは写してもいいよ……」

「そもそも宿題なんかやってかねーし」


 悪い子な由良くんだ……。

 まあそこまで面倒みるようには言われてないしな、ととりあえずその発言はスルーして、ノートを差し出す。宿題はできるだけ授業中とその後の十分休みで片付けてしまう派だ。そのほうが優等生っぽいというのもあるし、そもそもが家での自習は復習予習にあてたいのだ。宿題もまあ、一応復習ではあるけれど。

 ノートを受け取った由良くんは、それを見ながらルーズリーフに一字一字丁寧に見本を書いていってくれた。


「お手数おかけします……」

「別に、こんなん手数でもねぇよ」

「このお礼は必ず」

「いーよ。むしろこれがオレからの礼っつーことで」

「えっ、なんの?」


 私が由良くんに何かしてあげたことはあったっけ。むしろ不良行為の邪魔しかしていない気がするんだけど……傘のお礼はもうもらったしな?

 まったく心当たりがなくて首をかしげていれば、由良くんまで首をかしげた。


「いつもの礼?」

「いや疑問形で言われても……。というかそれこそむしろ、私のほうがするべきなんじゃない?」

「えー、じゃあ、これはオレがやりてぇからやってるってことで。基本字ぃ書くの好きだし、しーなさんに教えんのも楽しーよ」


 ……由良くんが楽しいんならまあ、いいんだけど。

 大人しく、由良くんが字を書くのを眺める。相変わらず、めちゃくちゃ綺麗な字だ。いつまで経っても追いつける気がしないし、たぶん私じゃ一生無理だなぁ、と思う。

 書き終わった由良くんにルーズリーフをもらって、まずはいつものようになぞり練習から始める。由良くんが書くと数字も判を押したみたいになるんだよな……すごい。


 なぞり練習を終えて、由良くんからアドバイスをもらった後は、見ながら書く練習だ。意識するべきところはすべて教えてもらっているのに、いざ書いてみるとそこが全然守れていなかったりする。私にしては上手い、から、誰が見てもそれなりに上手い、に進化するのにどれくらいかかるかなぁ。


「次の数学いつなんだっけ?」

「え、明日だよ。由良くんほんっと授業受ける気ないね?」

「オレの教科書ぴかぴかだよ」

「そうだねー、全然使ってないもんねー」


 不良はねー、ぴかぴかなんて言わないと思うよー、と続けるのはやめた。もうなんか、うん、もういいや。口調が素になることはほぼないのに、なぜに言葉選びがたまに……というか頻繁に可愛くなるのか。謎だ。やっぱり不良に向いてない。

 教科書については、前に無理やり持ってこさせたときに見て知っている。と、いうのを由良くんもわかっていたようで、私の適当な反応も特におかしくは思わなかったらしい。「しーなさんにプリントやらされたときにしか使ってねぇ」と普通の顔で返してきた。


「次のテスト前にもちゃんと使ってね? また全教科赤点なんて取られたら、私の面目丸つぶれになるから」

「……しーなさんは責任感ありすぎんだよなー。で、次のテストっていつ?」

「おーい!」

「ウソウソ、さすがにわかってるって。十月っしょ?」


 ぐっ、由良くんにからかわれた。なんかめっちゃくちゃ悔しいんですけど。


「はー、もう……テスト前のこの時間は、一緒に勉強しようね。たぶんそのころには範囲も難しいとこいってるだろうし、さすがに読んだだけで理解は……いや、由良くんならできちゃうか……?」

「なんでオレへの評価めっちゃたけぇの?」

「プリントやらせたときに由良くんの実力は見せてもらってるんで。正当な評価だよ」

「……そっか?」


 ちょっと嬉しそうなのが駄目だと思うぞ、由良くん。

 気を取り直して、字の練習を続ける。数字、アルファベット、ひらがなカタカナ漢字……すべて混じっているので、書きにくいことこの上ない。はー、ほんと数学天敵だな……。

 しかめっ面で何度も何度も練習したが、結局その日のうちには納得できる字は書けなくて、そのまま帰ることになった。ちなみに、一昨日一緒に帰ったのは誰にも何も言われなかったのだが、やっぱり念のため別々に帰る。


 由良くんの少し後に学校を出発して、歩きながらため息をつく。

 ……んー、んー、んんん……。私のポリシーをちょっと曲げれば、マシな字を書けるのはわかってるんだけど。わかってるんだけど、ううーん……。曲げ、曲げちゃうか? いやいや、でも、せっかくな……。あーどうしよう。

 このポリシーは優等生とは関係ないことなので、ぶっちゃけ曲げてしまったほうが綺麗な字を書けるのなら、そのほうが優等生としてはいいのだ。優等生、にだけこだわるのならそれ以外の選択肢はないんだけど。


 …………曲げるか。しょうがない。曲げよう。それしかない。っていうか、テストのときにも曲げてたしな。

 そう決めれば、明日の数学がほんの少し憂鬱じゃなくなった。とりあえず今日は、帰ったら字の練習をしよう。予習復習は一日くらいサボったって問題ないくらいに普段からしているし、今大事なのは字だ。



 そういえば由良くんには、私が本当はだってこと話したことなかったな、と気づいたのは、次の日に板書し終えて、由良くんのきょとんとした顔を見てからだった。


     * * *


 結果として、私が黒板に書いた字は特別綺麗でもないが、特別下手でもない出来になった。それでも普段のように右手で書いていたら、クラスの人に「えっあの字ってほんとに椎名さんの……?」とかざわざわされてしまっただろうし、いい判断をした、と思う。

 ……思う、のだけど。

 放課後、どうやら拗ねているらしい由良くんの前で、私は神妙な面持ちで座っていた。


「……わざわざ言うようなことじゃないと思ってたんだよ。箸持つのは左手だし、左利き、を隠してるわけでもなかったから」


 なんで責められてもないのに、私は弁明してるんだろう? なぜ? というかなんで由良くん拗ねてんの?

 拗ねるのは大人げないとでも思ったのか、由良くんは小さく息を吐いて通常の態度に戻った。


「もしかして、高校生になってから右手で書くよーになった感じ?」

「そうですね」

「そこも高校デビューだったのかよ……」


 高校デビュー言うな。


「別に優等生が左利きでもよくね? なんで右にしたの?」

「私の行動理由全部が優等生っぽくなるためだとは思わないでよ」


 右で字を書くようになったのも、まあ優等生が関係しないとは言わない。だけど本気で右利きになろうとしているわけではないし、字を書くときも、テストとか今回みたいなときには臨機応変に対応している。

 最初は利き手そのものを矯正しようと思ったんだけど、さすがに面倒だった。シャーペンとは違って、箸は持つことさえ危うかったので。

 だからとりあえず字は右、字以外は左、と分けたんだけど……もともと、利き手の左で書いた字さえ汚かったのだ。右で上手い字が書けるはずもない。それでもなんとか頑張って右で書いていた字が、由良くんに散々けなされたあれである。


「じゃあなんで?」


 訊かれて、言葉に詰まる。

 ……別に今更、由良くんに対して恥ずかしがることもないか。そう思ってもやっぱり恥ずかしいものは恥ずかしかったので、目を逸らしつつぼそりと答える。


「……みなちゃんの真似、したの」

「……みなちゃんって誰?」

「えっ、あれ」


 言ってなかったっけ。話したことなかったっけ。

 目を瞬いて、記憶の中を探る。あー、うん、そういえばみなちゃんのこと、言ったことない、な? 妹がいるってこと自体は言ってあったような、ないような。


「あーっと、私、双子の妹がいるんだけど」

「しーなさん双子なの!? マジで!? え、どんな子どんな子」


 思った以上に食いつかれたので、つい嬉しくなってしまう。にへっと顔が崩れるのが自分でもわかった。


「えー、それ訊いちゃうっ? 訊いちゃうかー。うん、気になるよね? みなちゃん……あ、みなかって名前なんだけど、私はみなちゃんって呼んでるのね。みなちゃん、もうほんっっとめっちゃくちゃ可愛いんだよ! 双子なのに私よりも大人っぽい綺麗な顔してて、でも中身は私なんかより全っ然女の子なの。料理もお菓子作りも裁縫も、なんかもう、そういうのぜーんぶ得意で! 字も綺麗だし、口調も優しいし、バイオリンなんか弾けちゃうし! 頭いいし運動神経いいし、ほんとマジですっごいし、めっちゃいい子でね!? 中学のとき生徒会長とかやってたんだよ! かっこいいよね! ザ・優等生っていうか、なのにちょっといたずら好きなところがあったりして、そのギャップも最高っていうか、由良くんもね、みなちゃん見たら絶対好きになるよ! 町で訊いたら十人中九人が好きっていうレベルで可愛いしいい子だから。残りの一人はまあ、好き嫌いには個人差あるだろうしっていう? でもでも、ほんっとーに、めっちゃくちゃ可愛いんだよ……。

 あー、つまりは私、みなちゃんのこと大好きなんだけど」


「……うん、それはわかった。超わかったわ」


 すん……とした顔の由良くんにはっと我に返る。は、話しすぎてしまった。引かれた!? いや、みなちゃんのことを語って引かれるならそれはもうしょうがないんだけど、しょうがないんだけど……!

 おそるおそる由良くんのことを見つめれば、じっと見つめ返してきた彼はいきなり吹き出した。


「くっ、ふふ、はは……いい子で可愛い子で、しーなさんはそのみなちゃんって子のことがめちゃくちゃ好きなのな?」

「うっ、そう、ですけど。……あのね、すっごい心狭いこと言うんだけど、みなちゃんって呼び名は私のものなので、できれば、妹ちゃんとか、みなかちゃんとか、そういうふうに……呼んでくれたら……」


 苦い顔でそう主張すれば、由良くんはますます笑った。そ、そんな笑うことないだろー! 初めて私が素の口調出したときレベルに笑ってんじゃん……。

「じゃ、これから妹ちゃんって呼ぶわ」と快く了承してくれた由良くんは、それで、と首をかしげる。


「その妹ちゃんがどーした?」

「……脱線してたね。何話そうとしてたんだっけ……えっと、そう、私、みなちゃんに憧れてるんだけど」


 意外なくらいにその言葉がすんなりと出て、自分でびっくりしてしまう。……確かに今そのことを話そうとはしてたけど、今まで誰にも言わずにきたし、言いたくないって思ってたんだけどな。由良くんが相手だからか。

 憧れてる、と聞いた由良くんは、またちょっとおかしそうな顔をしたけど、笑いはしなかった。相槌で先を促してくれたので、そのまま続ける。


「私の優等生像って、つまりはみなちゃんなんだよね。だから色々真似してて……左利きなのに右で字書いてるのは、その一環。私も優等生に利き腕とか関係ないとは思うんだけどね? それにそもそもみなちゃんは完全に右利きだから、私は中途半端な真似しかできてないんだけど、なんとなく、その……」


 また、由良くんからほんの少し視線を逸らす。


「みなちゃんが右手で字書くの、かっこいいなって思ってたから。でもそれを本人にバレるのは恥ずくて、始められたのは高校になってからだった、というわけなんですよ、由良先生」

「ほーなるほど、わかりました」


 ふんふんうなずいた由良くんは、からっと笑った。


「まーでも、利き手じゃねぇほうで書いてたんなら、あんな下手でも当然だな」


 深々と納得されて、ちょっと顔が引きつった。容赦ないな、由良くん。みなちゃんのことを詳しく聞いてこないのは助かるんだけど、その話題の戻し方は心にくるぞ?


「つーかむしろ、気づくべきだった。あんなだったらどー考えたってテストのとき字のせいで減点食らいまくるだろーし、それでクラス一位なんておかしいもんな」

「おい……」

「え、悪りぃ……言い過ぎた?」


 悪気ゼロなのはわかっているし、悲しいことに彼が言ったのはすべて純然たる事実だ。力なく「大丈夫……」と返すことしかできなかった。


「えっと、と、とにかく、しーなさんが字右で書くよーになったのは正解だと思うぜ? 字ってもともと、右手で書く前提で作られてっから」

「そうなの!?」

「そ。横画が右上がりなのはそーゆうわけ」


 そんなところでも右利きが優遇されていたのか……全然知らなかった。そういえば小学校の先生が書道の授業で、右手で書くようにって言ってた気がするな? あれってそういうことだったのか。

 ほへー、と納得したところで、遅くなったが今日の由良くん講座の時間が始まる。


「練習する字選ぶの毎回ムズいから、今日からしばらく都道府県攻めよーと思うんだよな。どう?」

「いいと思います、由良先生」


 由良先生って呼ぶたびに嬉しそうなのがばかわいい。


「もう教えた字も復習っつーことでそのままやってくな。じゃー、今日は北海道、青森、秋田、岩手、とついでに県で」


 不良は都道府県北から順番に言えないと思うよ、なんて突っ込みは飲み込んでおいた。もう私、よっぽどじゃないと突っ込まないからね!

 あんまり難しい字なさそうで嬉しい……なんて思ったのだが、初っ端の北海道にやられた。しんにょうが全く上手く書けない。点と3とへがくっついたみたいな、変なものしか出来上がらなかった。

 しんにょう、なめてた……。そういえば元から、しんにょうってバランス取りにくいなーなんて思ってたのだ。取りにくいっていうか、少しも取れてなかったわけだけど。


「しんにょうはな……んー、オレもコツ掴むまでかなりかかった気ぃする。ムズいよなぁ……ちょっといい?」


 す、と手が伸びてきて、私の手に重なる……と思ったら、ぴたりと止まった。直前で、以前のことを思い出したらしい。

 まずい? 怒る? なんて訊いてきそうな顔で固まる由良くんに、ふは、と笑ってしまった。


「いいよ、もう。由良くんが照れないならね?」

「……照れねぇし」

「えー、ほんとかなー」


 ほんとだし、としかめっ面で言った由良くんが、私の手に自身の手をそうっと重ねた。緊張が伝わってくる固い動きで、私にしんにょうを教えてくれる。

 ふんふん、このリズムでペンを動かす……。で、ここでなめらかな曲線、止まって、ほぼ真横に払い、と。むっずかしいなこれ。

 由良くんはもう一度一緒に書いてくれるが、気になってしまったことを口にする。


「……由良くん、手汗」

「かいてねーよ!」

「それはさすがに嘘ってわかるなぁ」


 ちらりと目をやれば、由良くんの顔はほんのちょっぴり赤くなっていた。……それを確認して、私までまた顔が熱くなってくる。あのときと同じ失敗だ。


 あー由良くんが照れたせいだ、照れがうつった! うつされた!




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