第六章 トウヒの森
第四十五話:トウヒの森
炭鉱からそう遠くは無く、下手すればモンスターの襲撃も考慮すべきであるのに、すっかり寛いでしまっていた。
少なくとも俺ひとりであれば、このような場所に付いてきたのかどうかも怪しいかなと、通常運転の自嘲じみた思考が戻り、風呂から上がる。
脱衣所には特に変わった様子は無い。
服を着て、装備を身に着ける。
身体が綺麗になったからといって、装備品もとはいかない。
ここは主人の厚意に感謝すべきところなのだが、余計に汚れと臭いが気になって仕方ない。
若干眉間に皺を寄せながら、息を深く吸わないようにして、身なりを瞬時に整える。
ここは主人の家だからといって、戦場であることに変わりは無い。
とは言え、当然危険なぞ無いはずなのに、警戒することを怠らない自分がいる。
湯に浸かっていた間は少しばかり気を緩めて疲労を癒していたが、今はこうしてまた身に迫る脅威にいつでも対応できるように精神を整える。
周囲には殺気も感じないし、モンスターの気配も無さそうだ。
それは当然なのだが。
「あ、ラトさん、お風呂どうでしたー?」
シュカがひょいと脱衣所に顔を出してくる。少しビクッとしてしまった。
「おふ、なんだ?」
若干変な声が漏れてしまった。幸いシュカには気づかれていない。
「鈍い反応ですねー。」
腕を後ろに組みながら不敵な笑みを浮かべるシュカ。
なんなんだこいつは…。
「どうしたんだ、まったく」
「いや、あの、ちょっと様子見ですよ」
ちょっと愉しそうだ。
ふーん。
心意は分からないが深い意味は無いだろう。
ふと、服に付いた臭いが気になった。
…臭くないだろうか。
シュカを横目に見る。
特に変わった様子は無い。
なんでこんな心配してんだ俺?と恥ずかしくなる。
作業場にシュカと一緒に戻る。
ミラはフードを深く被り、装備を抱えながら寝ているようだ。寝顔は見えない。
「どうでしたかな?儂自慢の石炭風呂は?」
主人が話しかけてくる。顔色は悪くない。
「良い湯でした。ありがとうございます。身体についた汚れがすっかり綺麗になりました」
ほぼ条件反射的に定型句を並べる。
どうしても礼を言う際にはぶっきら棒になってしまうのが俺の悪い癖だ。
正直、会話自体はあまり得意ではないし、考え事をしていていると尚更だ。
「良いんじゃよ。命の恩人じゃ。これぐらいのことはさせておくれや」
ニコッと若干黄色味を帯びた歯を覗かせながら答える。
さっき二人で話していた時とはまた違った表情をする。
本当に良い人なのだろう。
気の毒だとか、同情とかそういう風な感情が顔に出ないようにして、主人に礼を言う。
「十分です。ありがとうございます」
主人も満足そうな表情をしている。
ところでと、俺は思考を切り替える。
今回ギルドから依頼された偵察任務は不確定要素が多い。
なるべくなら、余裕を持ってトウヒの森に向かいたいところである。
その反面、パーティメンバーの疲労と情報不足が気になる。
もっと詳しい話をシルクから聞いてくるべきだったと思うが、ギルドとしても大した情報を持っていないようだったから、あまり深く突っ込めなかった。
ギルドにいたときはそれほど、不安視していなかったのだが、距離が近くなったことで現実味を帯びてきた。
なんでも良いから情報を得ておきたい。
「もう少し、休ませてもらっても構いませんか?」
主人に聞いてみる。
「ああ、もちろん、良いとも。この通り、一人じゃからの。ゆっくりしていって構わんよ」
主人は即座に快諾する。
「感謝します」
「ところで、お前さん方はどういった用で炭鉱に来たんじゃ?素材集めというわけではなさそうじゃが」
俺たちの装備、持ち物を見て、主人は疑問に思ったようで改めて聞いてきた。
「王都でのモンスター襲撃はご存知ですか?」
主人はなんのことか全くわからないようだった。
「すまんの…。都会のことはさっぱりなんじゃ…」
「そうですか」
俺は先日のモンスター襲撃の一件と、冒険者の育成について主人に説明した。
「そうか…、そうだったんじゃの…」
無知で申し訳ないというような表情をしていた。
「なんだか、邪魔をしてしまったようじゃ。あなた方の貴重な時間を、老いぼれ相手に使ってしまって」
本当にそう思っているようだ。
空気が重苦しく感じたので、話題を変えてみた。
「ご主人は、トウヒの森で起きている異変について、何かご存知ですか?」
単刀直入に主人に聞いてみる。
急に話題が変わり、思考が追い付いていないようだが、徐々に理解してきたようだ。
「そうじゃの、もちろんトウヒの森は知っておるが。以前は良く素材を集めに行っていたのじゃが、なにせこの通り今は老体なもので遠出は出来ない。おまけに一人なんでの、久しぶりにこうして誰かと話してる有様じゃよ。最近の事情についてはめっきりじゃ」
自分よりは何かしら情報を持っているかもしれないし、土地勘のある人間に聞くのが一番だと思ったが、答えは期待したものとは異なった。
「そうですか」
予想通りではあるが、少し期待していた自分がいたのか。残念そうな感じの声が漏れた。その様子に何を受け取ったのか、主人が聞いてくる。
「しかし、またどういった用でトウヒの森なんかに?」
主人は興味を持ったらしく、聞き返してくる。私は端折りつつも、事の詳細を主人に話す。
「…なるほどな。偵察任務かの。儂も、若い頃は良く森に行ったわい。冒険者に負けないぐらいにの。しかし、お嬢ちゃんたちが、シーフかの。孫みたいなものじゃから、ただ可愛いとしか思っとらんかった。すまんすまん」
主人は笑っている。
隣にいるシュカはちょっとムッとしたようだ。
からかっているようだけど、悪気はないようだから、許してやってくれよ。
気にせず、主人が徐に話し始めた。
「トウヒの森は炭鉱から見えるのじゃが、なにせ森じゃからの。遠くからでは緑しか見えん。遠目から見て何か異常な出来事とかいうものは儂の記憶している限りでは無かったとは思うが、モンスターやら危険な奴らがいれば分かる。もちろん、周囲の村でも警戒はするはずじゃ。しかしそういった風には特に見えない。説得力は無いじゃろうが、まあ逆に静か過ぎるという点では、おかしな部分なのかもしれんの」
事前にギルドから聞いていた話から真新しそうな情報は無かった。やはり、実際に森に行ってみるしかないか。
「ありがとうございます。変な話をしてしまって、すみませんでした」
「いやいや、儂こそ大した話も出来なくてすまないの。そんじゃ、時間まで休んで行ってくれ」
主人は気を遣ってくれた。
初対面の者に対して、ここまで優しく接することのできる人に会ったのはいつぶりだろうか。
出立の時間をシュカに伝え、俺も休むことにした。
ミラが寝ている近くに座り、瞼を閉じる。
厄介な問題にならないことを祈りながら。
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