「ナラティヴ」という新たな地平

科学の雄弁さ、というものについて考える。雄弁とは、エビデンスのことである。

科学的な根拠はあるのか。

この言葉はここ1年でどれほど飛び交っただろう。科学という単語は一瞬、私たちを黙らせる効用がある。それはいかに私たちの存在が有形無形にこのエビデンスと背景にそびえる科学、あるいは科学主義というものに支配をされているかを考えさせる。

しかしその科学主義に対するアンチテーゼか反省なのか、最近では科学というものでは捉えられない人間学的な理解に立った理論体系が作られているようだ。

精神医学を摘んでいると、この領域は科学で説明できる領域とそうでない領域があるが、以前は科学(医学)偏重だったこの分野も今ではちょっと景色が違うようだ。その中で注目されているのは、患者本人の語り(ナラティヴ)である。特に精神疾患を抱えた人たちの語りというものは、支離滅裂で顧みることに対し懐疑的だった時代が長くあったがむしろそうした「訳の分からなさ」をもその人の生身の肉声や物語として捉え直すパラダイムシフトが進んでいる。

ナラティヴという言葉には、日本語としての適切な訳語があるようでない。それは「語り」とも言われるが、原語の微妙なニュアンスを日本語として移植することは難しい。こうした現実は、いかにこのような言葉の背景にある概念や体系的な理解がこの国では途上であるかを示すものでもあると思う。それは置くとして、松澤和正は「精神看護のナラティヴと思想」において、ナラティヴの性質について書く。

ナラティヴとは、個人の内面から発せられる時に矛盾をし過去と現在、未来を行き来し、終わりのないものである。科学や説明といったものとは相容れない側面も持ち、時に専門知というものすら及ばないものでもある。それは1人の人間の生身の物語であるからだ。

そうした語りとは、それを聞く相手がいてこそ存在するものでもある。

松澤は、『「語り」がいかなる断片や固まりの不在であれ、その人の内にある生きた「声」として再生するには、どこかで誰かがその苦痛や重荷の幾分かを感じ、そして「引き受ける」ことが必要なのだ』という。

語られる内容は、ある病状ゆえに「ないかもしれない」ものかもしれない。

そして、精神看護という領域の持つ特殊性とを併せて指摘し、『むしろ「無いかもしれないが在ると信じる」ことによる効用は、一般化はもちろんできないが、少なくとも臨床(ことに精神科臨床)においてその厳しい病状ゆえに、あまり上手に自分を表現できない・できにくい人々の「語り」を聞く上で大変重要であると思っている』ともいう。

この『存在しないものを存在させようとする力こそが、ナラティヴの出発点であり回帰点でもある。そこには、チェックリストもパソコンも不要だ。というより、そういう時代によって、見えなくなったものこそ回復されるべきなのだ』。

ここには科学では捉えきれない人間の複雑な側面を包み込もうとする姿勢が感じられる。それは一方では宗教のような趣きすら感じる。実際に松澤はこうした働きとは、「祈りに近い」と形容する。

『それは見えない。しかし、それを自身や他者の言葉として回復されること、存在させることはできる。それは祈りに近い。だからナラティヴはかくも弱々しいものなのだ。不確かな存在である現実をつかもうとするものだから、それ自体が不確かであり脆弱である』

こうしたナラティヴというものから派生する、あるいは形作られる人という存在もまた不確かで脆弱なものであると、私は思う。




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