リアリティなき権利の議論

人権とはなにか?

この問いに答えることは難しい。なぜなら、人権という概念それ自体が抽象的で捉えどころのないものであり、実体というものが見えてこないからだ。

一般的に、人権は「誰にでも等しく公平に付与され、公共の福祉の範囲内で最大限尊重されるもの」であるとされる。

だがこの教科書的な人権観は、まるでのっぺらぼうのようにつるつるとしていて、この歴史的に見れば新規な概念を更にややこしくしていると私には思えてならない。

私が抱く人権観というものは、こうした無菌室で純粋培養されたような「ひ弱」なものではなく、より挑戦的、行動的なダイナミズムを孕んだものだ。

上の文章は、ひと月ほど前に書いて放っておいたものだが、ふとメモ欄を開いて続きを書きたくなった。というのも、先日職場で研修を受けた際のテーマが「権利擁護」というものだったからだ。そこでやはり、権利というものはつくづく「Act」つまり、行動というものにその存立がかかっていると思った。

件の研修は時節柄もありzoom研修で、これが初めてのzoom研修ということもあって、個人的にその辺りも面白く受けていたのだが、最後の最後で私は言いようのない違和感に囚われた。それまでは講義を聞いていたのだが、最後はグループワークと質疑応答だった。私が違和感を憶えたのはここだった。

誰も彼もが抽象的な制度論ばかりを繰り返しているようでなんとも言えない違和感を憶えたのだ。あたかも、「制度のために人がある」かのような趣きである。

人のために制度があるのでは?

……と疑問を抱きつつも、私は繰り返されるディスカッション、質疑応答を聞いていた。だがその内、これがこの国のいわゆる「福祉」というものの置かれているリアリティなのだろうと納得した。そこでは、いかに既存の制度に支援を必要とする人々を当てはめていくかのパズルゲームが繰り返されている。その制度は運用者である行政の人間だって正確には把握しかねるものだ。(実際、詳細な質問をされた担当者が開口一番言ったことは“それは〇〇の窓口で聞かれるのが一番だと思います”であった)

もちろん、こうした複雑で煩雑な制度のもとで、社会福祉の根拠は与えられているとも思うのだが……私はなんとなく、こうした会話をしている、更に言えば、こうしたことが本気で「支援になる」と信じ切っている人たちとは相容れないな、と思った。

終わりのないパズルゲームと、合言葉のように交わされる権利擁護とは、一体なんなのだろうか。質疑応答では一貫して成年後見制度に関するものばかりで、私は何十人か講義を受けていてたった1つの制度に言及される現象に、辟易とした。そして、こういうことは珍しくないのだろうとも感じた。

制度のために人がある。恐らくそんな風に思いながら仕事をしている人はいないのだろうが、彼らの判子を押したような言論は、そうした前提を内面化しているように思えてならなかった。

人は多面的な存在であり、指摘するまでもなく、それを包摂する社会制度は充分ではないだろう。そうであるからこそ、クリティカルにラディカルに、その対象になる人や時として零れ落ちてしまう人、またそうした現実を内包している社会について対峙する必要があるのではないか?

であるならば、既存の制度を無批判に受け入れ、その枠内でのみ対象となる(とされる)人を当てはめることについて、まず懐疑的にならなければ、やはり権利擁護とは言えないだろう。こうした点については、結局誰も言わないまま終わった。私よりも遥かに経験があり、役職のある人たちの集まりなのに、(私の方がやや場違いですらあった)どうしてこのことについて疑問に思わないのか、不思議だった。

制度のために人がある、この現実はやはりあるのだろうと私はその従事者たちを眺めながら、虚しく思うのだった。




話しはやや飛ぶが、「関係障害論」を書いた三好春樹が興味深いことを書いている。


「お年寄りを呼ぶときは◯◯さん、と固有名詞で。おばあさんなんてとんでもないとか『敬語を使え』と、うるさく指導する施設長や指導員がいる。……しかし、それでは返事をしない老人がいるのだ。

山本スエさんは、……小さい時から年を取るまでずっと村で呼ばれていた『スエさん』という呼びかけにのみ応えるようになった。なら『スエさん』でいいではないか。ところがそれでも『山本さん』と呼べというのである。『スエさん』なんて呼ぶのは人権意識が低いのだそうだ。『ボランティアや家族が聞いたらどう思われるか』とまで言う。

ふーん、人権意識の高い割には、世間体ばかり気にするんだな、と皮肉の一つも言いたくなるではないか。もちろん『スエさん』でいいのだ。……まわりが誤解したら、ちゃんと説明すればいいではないか。彼らの『人権』とは、どこかの抽象的人権でしかない。自分が呼ばれたことさえわからぬ呼称で呼ばれる山本スエさんの人権はどうなるのか。彼らが大事にしたいのは、目の前の具体的な老人の人権ではなく、彼ら自身の理念でしかないのは明白である。こんな抽象的で綺麗ごとの『人権』が、臨床という具体性を持った医療の世界を批判できるはずがないではないか。そうした福祉の世界に比べれば、なにより具体的でリアルに思える医療の世界もまた、人間を抽象的にしか見ていない、と私は思う。……ヒトを関係から切り離した個体の理論という点では、医療も、人権を訴える側も変わらないのである。人権という概念も、医療の人間観も共に、近代個人主義という、抽象的人間観を前提としているのだ。『人権』を訴えることの無力さの根拠はここにある」



私の感じた違和感とは、具体性のなさ、言い換えればリアリティのなさ、といえばいいだろうか。彼らの質問していた制度をいかに個人のケースに導入するか、というものの中にある抽象性と人権の持つ抽象性は、案外同じところにあるのではないか?

三好はリアリティのレンズとして、「関係性」というものを持ってきたが、人権とは、関係性の中で初めて知覚され成立するものであるとも見ることができる。

立ち返って見れば、彼らは本当に「人間」を見ていたのか、ということになる。あくまでケースの対象者、制度の対象者という逆転がどこかで起こってはいないか。私は無知なのが、そうであるからこそ、なんとも言えない違和感や薄気味悪さを感じた。

三好が指摘するように、この手の抽象性と転倒は、近代個人主義に由来する。個人主義とは社会の中において何を推し進めるかというと、専門化とサービス化である。思えば育児も教育も介護も本来は家庭内、あるいは地域内で行われて完結していたものだった。だが、社会の中において、個人の範囲が広くなり、家庭や地域という国家と個人との間にある中間領域が喪われてゆくにつれ、この中間領域の専門化とサービス化は進んでいった。保育施設、教育機関、福祉施設という空間は専門化とサービス化を体現した社会装置である。

現代では更なるパラダイムシフトが起き、施設から地域、家庭への転換か起こっているが……。

私は技術(制度)の問題の究極の終着点は、思想(倫理)の問題であると思っている。できるかどうかと、すべきかどうかは違うのだ。人権の問題とは、こうした視点から考えられなければならないと思う。そうした意味で、権利の問題とはアクティブでなければならない。だが私が目にしたものは、それとは随分と隔たったものであったように思う。

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